第五章 ラムネ瓶のビー玉みたいに、閉じ込められた午後
ビー玉は、瓶の中にいるからビー玉。ラムネを二本、買いに行きます。
九日目の昼、結衣が「ラムネ飲みたい」と言った。
唐突だった。二人で石段に座って、今日は雲の形が魚みたいだという話をしていたところで、突然「ラムネ飲みたい」と結衣が言った。脈絡がないようで、でも夏の午後にそう言われると、確かにそんな気分になった。
「買いに行くか」
「うん」
神社の近くに、小さな駄菓子屋がある。鳥居から坂を少し下ったところ、路地の角にある店だ。子供の頃によく通った。学校帰りに寄って、十円のガムを買ったり、くじを引いたり。駄菓子屋というのは、子供にとって一種の聖地だった。お小遣いの範囲で、自分で選んで、自分で買う。それだけのことが、妙に誇らしかった。
今も同じ場所で同じおばあさんがやっていた。蓮は少し驚いた。五年どころか、十年前から変わらない顔と変わらない店構えだった。ガラスケースの中に並んだ駄菓子の種類も、記憶とほとんど同じだった。
おばあさんは蓮を見て「あら久しぶり」と言った。
蓮が「覚えてるんですか」と聞くと、「顔は変わらないね」と言われた。
それが褒め言葉なのか、そうじゃないのかは分からなかったが、蓮は「ありがとうございます」と言っておいた。
結衣を見ては、おばあさんは何も言わなかった。
挨拶もしない。反応もしない。視線が結衣をすり抜けるみたいだった。蓮は一瞬気になったが、おばあさんが結衣を知らないだけかもしれない、と思ってそれ以上考えなかった。
ラムネを二本買った。瓶が冷たくて、手のひらに気持ちよかった。
*
石段に並んで座って、ビー玉を押し込んだ。
炭酸が噴き出した。シュッという音と一緒に、泡が上がってきた。結衣が「わ」と言って笑った。
毎回驚くみたいに、わずかに体を引いた。昔から変わらない反応だった。中学の夏に買ったときも、同じ声を出して同じように笑っていた。
ラムネの甘さが口の中に広がった。冷えていて、少し喉に刺さる感じ。炭酸が鼻の奥まで来る。子供の頃と同じ味だった。何年経っても、この味だけは変わらない。食べ物の記憶というのは、体の中に直接刻まれている気がする。頭で思い出すんじゃなくて、口が覚えている。
「このビー玉」
蓮は瓶を傾けた。
「取り出せないよな」
「うん」
結衣も瓶を見た。
「飲み終わっても、閉じ込められたまま」
ビー玉は瓶の口よりわずかに大きい。入れることも出すこともできない。最初からそこにあって、最後までそこにいる。
「子供のとき、取り出そうとして割ろうとしたことがある」
「割れた?」
「割れなかった。あの頃は力が足りなかった」
「今は?」
蓮は少し考えた。
「今は割ろうとは思わない」
「なんで?」
「割ったら、ただのガラスのかけらになるから。瓶の中にいるから、ビー玉なんだと思って」
言いながら、自分でも少し驚いた。子供の頃には思わなかったことだ。あのときは「ビー玉が欲しい」という気持ちしかなかった。手に入れることが目的で、その後のことは考えていなかった。でも今は、瓶から出したビー玉が何になるかを先に考えてしまう。それが大人になることなのかもしれない、と蓮は思った。
結衣がそれを聞いて、何も言わなかった。
でも少し、笑顔の質が変わった気がした。
嬉しいのか、悲しいのか、蓮には分からない種類の笑顔。どちらでもあるような、どちらでもないような。何かに触れた、という顔だった。
「閉じ込められてても、いいと思う?」
結衣が聞いた。
「ビー玉は何も思わないだろ」
「ビー玉が思うとしたら?」
少し変な問いかけだった。でも蓮は笑わなかった。結衣が聞くときは、いつもこういう問い方をした。ちょっとずれたところから、でも的を外さない角度で聞いてくる。
「……外に出たいんじゃないかな」
蓮は言った。
「でも出られないから、あの色をしてるのかもしれない。閉じ込められた分だけ、きれいになる感じ」
結衣がラムネ瓶を光にかざした。
西日が瓶を透かして、青い光が石畳に落ちた。中のビー玉が、光を透かして輝いた。青というより、水色と緑の中間みたいな色。澄んでいて、どこか寂しい色。
「きれい」と結衣は言った。
「うん」
二人でしばらく、その光を見ていた。蝉の声が遠かった。風が来て、木々が揺れた。木漏れ日が動いて、石畳の模様が変わった。瓶の中の色が揺れた。
「……ねえ、蓮」
「何」
「昔さ、ここで一緒にラムネ飲んだことあったよね」
「あった」
蓮は言った。
「中学のとき。夏休みに」
記憶がある。三人か四人で神社に集まって、誰かが駄菓子屋でラムネを買ってきた。あの頃は神社が溜まり場みたいになっていて、特に用事がなくても集まっていた。
「そのとき蓮が言ったんだよ。大人になっても、一緒にラムネ飲もうって」
蓮は少し、記憶を探った。
言ったかもしれない。子供っぽい約束として。その場の勢いで言う類いの言葉として。大人になるということが遠い未来のことのように感じていた頃の、軽い約束として。
「……言ったかもしれない」
「言ったよ」
結衣はにっこりした。
「ちゃんと覚えてる」
「結衣は記憶力いいな」
「これは覚えてた」
これは、という言い方だった。
他のことは覚えていないけど、これは覚えていた。そう聞こえた。台風のことは覚えていなくて、最近の出来事は知らなくて、でもあの夏の午後の小さな約束は、ちゃんと覚えている。
何を覚えていて、何を覚えていないか。その基準が、蓮には分からなかった。でも一つだけ確かなことがある。
結衣にとって、あの約束は大事なものだった。
だから覚えていた。
「……守れたな、一応」
蓮は言った。
「うん」
結衣はラムネを一口飲んだ。
「守ってくれた」
その「くれた」が、静かに胸に刺さった。
約束を守った、じゃなくて、守ってくれた。受け取った側の言葉だった。ずっと待っていた側の言葉だった。
蓮はラムネの残りを飲んだ。炭酸が喉を抜けた。ビー玉が瓶の底に落ちる音がした。小さな音だったが、静かな境内によく響いた。
瓶を傾けても、ビー玉はもちろん出てこなかった。
閉じ込められたまま、底に沈んでいた。
*
その日の夕方、蓮は母にそれとなく聞いた。
夕飯の支度をしている台所へ行って、冷蔵庫から麦茶を取り出しながら、さりげない感じで言ったつもりだった。
「結衣、最近どうしてるか知ってる?」
母がエプロンを外す手を止めた。
包丁を置く音がして、台所が一瞬静かになった。蓮は麦茶を注ぎながら、その沈黙の質を感じた。驚いた、というより、来た、という感じの沈黙だった。この質問をいつか誰かにされると思っていた、という間だった。
「……蓮、結衣ちゃんに会ったって言ってたよね」
「うん。神社で、毎日会ってる」
母がゆっくり蓮の方を向いた。その顔が、少し複雑だった。
何かを言おうとして、でも言えない顔。言葉を選んでいる、というより、どこまで言うべきか考えている顔。
「そう」
と母は言った。
「どういうこと?」
「どういうことって」
母は少し考えた。
「……なんでもない。元気そうだったならよかった」
「なんかおかしな聞き方になったけど、別に何かあった?」
「ないよ」
「ない」の言い方に、蓮には何かが引っかかった。「ない」と言いながら、視線が少し下がった。手がエプロンのひもをまた持った。何かをしていないと落ち着かない、という感じの手の動きだった。
蓮はもう一歩踏み込もうとした。
「お母さん、結衣のこと——」
「ご飯できるよ」
母が話を変えた。振り返って、鍋の蓋を持ち上げた。湯気が上がった。
「もうすぐお父さんも帰るから、テーブル出してくれる?」
蓮は聞くのをやめた。
麦茶のコップを持って、台所を出た。
リビングのテーブルを広げながら、蓮は母の顔を思い出していた。あの複雑な表情。言えない、と決めた顔。
何を知っているのか。
何を言えないのか。
夕飯の間、母は普通に話した。父も普通にテレビの話をした。蓮も普通に相槌を打った。でも蓮の頭の中は、ずっと別のことを考えていた。
夜になっても、母の顔が頭の中にあった。
と同時に、結衣の言葉も残っていた。
守ってくれた。
あの声で言った、「守ってくれた」という言葉が、静かにそこにあった。
蓮は自分の部屋で、ラムネ瓶を窓辺に置いた。中にビー玉が入ったまま、持って帰ってきていた。
窓の外の月明かりを受けて、瓶がうっすら光った。
ビー玉が、瓶の底で静かに輝いていた。
「守ってくれた」は、受け取った側の言葉でした。母が置いた沈黙と、窓辺の瓶。言えないことにも、ちゃんと重さがあります。




