第四章 知らない歌を、きみだけが知らない
同じ夏にいても、聴こえている音が違うことがあります。
一週間経った。
蓮の帰省は二週間の予定だ。前半が終わって、蓮は毎日神社へ行くようになっていた。習慣、というより、行かないと落ち着かない感じがした。朝起きて、朝食を食べて、午前中に少し実家の用事を手伝って、昼前後に神社へ向かう。そのリズムが、気づけば体に馴染んでいた。
東京にいたときは、毎日同じ場所へ行くということがなかった。会社と家を往復して、たまに友人と飲みに行って、週末は洗濯と買い物をして、それで一週間が終わる。同じ繰り返しのようでいて、行く場所も、会う人も、毎日少しずつ違った。
でもここでは、毎日神社へ行く。
それが自然だった。
結衣はいつもいた。
たまにいないこともあった。その日は参道に立って少し待つと、木の向こうから現れた。どこから来るのかは分からなかった。参道の奥から来ることもあれば、鳥居の外から来ることもなく、気づいたらそこにいた、という感じのときもあった。
「どこ行ってたの」
と蓮が聞くと
「そこら辺」
と結衣は答えた。
「そこら辺ってどこ」
と蓮が聞くと
「そこら辺だよ」
と結衣は言って笑った。笑い方が昔と同じで、蓮は追及を忘れた。
会えない日は一度もなかった。
それが少し不思議だった。待てば必ず来る。神社から離れた場所では一度も会わない。商店街でも、坂道でも、スーパーでも見かけない。母と一緒に買い物へ行ったとき、蓮はなんとなく人の顔を確認する癖がついていた。結衣を探しているわけじゃない。でも探していた。一度も見かけなかった。
会えるのは、神社の境内だけだ。
指摘しようとして、でも「あまり聞かないでほしい」という言葉を思い出して、やめた。
やめながら、蓮はその言葉の重さを改めて感じた。結衣はあのとき、穏やかに言った。穏やかだったから、余計に遠ざけられた感じがした。怒って言われるより、静かに線を引かれる方が、踏み越えにくい。
*
八日目、蓮はスマートフォンで音楽を流しながら神社へ向かった。
イヤホンを片耳だけつけて、坂道を登りながら聞いていた。今年の夏によく流れている曲だ。東京のオフィスのBGMでも、コンビニに入るたびにも、友人が送ってきたプレイリストにも入っていた曲。耳に残るメロディで、蓮も気に入っていた。夏の終わりになったら、この曲を聞くたびに汐崎を思い出すかもしれない、と少し思った。
結衣は参道の石畳に立っていた。蓮が近づくと
「来た」
と言った。
「この曲、知ってる?」
イヤホンを片方外して、スマートフォンのスピーカーから少し流した。
結衣は首を横に振った。
「知らない」
「最近よく流れてるんだよ。テレビとかでも」
「テレビ、あまり見ないから」
「ラジオは?」
「ラジオも」
蓮は音楽を止めた。
「じゃあ何で音楽聴くの」
「……鳥の声とか、風の音とか」
「それは音楽じゃなくて自然の音だろ」
「でも好きだよ」
結衣は少し笑った。
「蝉の声も、今年は特にきれい」
話が流れた。
結衣にとって、音楽は必要ないのかもしれない。あるいは、音楽を聴く手段がない。スマートフォンも携帯もないなら、配信サービスも使えない。CDプレーヤーがあれば別だが、それを持ち歩いているようには見えない。
でも「鳥の声が好き」と言うときの顔は、何かを我慢している顔じゃなかった。本当に、それで十分だという顔だった。
蓮はそれをしばらく考えてから、別の話を始めた。
*
その後、話の中でいくつかの話題が出た。
去年大ヒットした映画の話を蓮が出すと、結衣は「見てない」と言った。二年前に話題になったドラマの話をすると「知らない」と言った。今年の夏に流行っているものの話をすると、全部「知らない」か「聞いたことない」だった。
最初は気にしなかった。テレビを見ない人はいる。映画に興味がない人もいる。流行に無関心な人も珍しくない。
でも三年前の夏の、あの台風のことを言うと「覚えてない」と言った。
そこで蓮は少し止まった。
あの台風は、蓮の記憶では相当大きなものだった。東北から関東まで縦断して、各地で被害が出た。ニュースで何日も取り上げられていた。記憶していない、という方が不思議なくらいの出来事だ。汐崎にも影響があったはずだった。海沿いの町だから、台風のたびに波が高くなる。停電になることもある。
「台風、そんな大きくなかったよ、こっちは」
結衣がそう言った。
そう言えばそうかもしれない、と蓮は思った。東京で感じた規模と、汐崎での規模は違うかもしれない。でも「覚えてない」は「大きくなかった」とは違う。大きくなかったなら「そんなに被害なかったよ」と言うはずだ。「覚えてない」という言葉は、その出来事が自分の記憶の中にないという意味だ。
蓮はそのまま話題を変えた。
結衣も普通に話を続けた。今日の空の色のことを話した。昨日より少し霞んでいると言った。夕方に雨が来るかもしれないと言った。
いつもと同じ午後だった。
でも帰り道、蓮はずっとそのことを考えていた。
結衣は、ここ数年のことを何も知らない。
ニュースも、流行も、出来事も。
まるで、ある時点から情報が止まっているみたいに。
*
その夜、蓮は自分の部屋で天井を見ていた。
実家の天井は、木目がある。東京のアパートの真っ白な天井と違って、節があって、色が不均一で、見ていると形が浮かんでくる。子供の頃、よく雲みたいに見えると思っていた節が、今もそこにあった。
考えれば考えるほど、違和感が積み重なる。
スマホがない。最近の話題を知らない。神社以外で会えない。五年前と見た目が変わっていない。「今のことを聞かないでほしい」と言った。台風を「覚えてない」と言った。
一つ一つは説明がつきそうだ。
スマホを持たない人はいる。情報を遮断して生きている人もいる。引きこもりがちで、外には神社しか出ない、という可能性もある。見た目が変わらない人もいる。二十三歳なら、高校時代と大きく変わらない人もいる。
でも全部が重なると、説明がつかない感じがする。
どれか一つが例外的な話なら、それで終わる。でもこれだけのことが、一人の人間に全部当てはまるのは、偶然じゃない気がした。何か一つの理由から、全部がつながっている気がした。
その理由が何なのか、蓮にはまだ分からなかった。
分からないまま、考え続けた。
夏の夜は、外がうるさかった。蝉はさすがに鳴き止んでいたが、遠くで虫の声がしていた。風が窓を揺らした。汐崎の夜の音は、東京の夜より静かで、でも東京の夜より何かが多かった。自然の音というのは、種類が多い。一つ一つを聞こうとすると、次々に別の音が現れてくる。
蓮は目を閉じた。
結衣の笑顔を思い出した。
笑顔に、嘘はない。声に、作り物がない。あの場所にいるとき、結衣は確かにそこにいる。石畳の上に、木漏れ日の中に、確かに存在している。触れれば温度があるはずで、声をかければ答えが返ってくる。
存在に、嘘がない。
でも何かが、ずれている。
その「ずれ」の正体が何なのか。もう少しで分かりそうな気がする。糸の端を持っている感じがする。でも引っ張れない。
怖い、と蓮は思った。
引っ張ることが怖い。
その怖さに気づいて、蓮は少し驚いた。理由を知りたい、という気持ちは確かにある。でもそれより大きなものとして、知ってしまったら何かが変わる、という予感がある。今のまま、毎日神社へ行って、結衣と石段に座って、空の話をして、それで帰ってくる。そのサイクルを壊したくない、という気持ちが、理由を求める気持ちより少し大きかった。
怖いのは、真実じゃない。
真実を知った後の、この夏の変わり方が怖いのだ。
それに気づいて、蓮はさらに少し驚いた。
自分はそれほど、この夏を大事に思っている。
結衣と過ごすこの時間を、終わらせたくないと思っている。
窓の外で、風が鳴った。汐崎の夏の夜が、静かに続いていた。
糸の端は、もう手の中にあります。引くのが怖いのは、真実そのものではなく、知ったあとの夏が変わってしまうこと。その怖さに気づいた夜でした。




