↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
きみがいた夏は、もう終わらない  作者: Noct


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/21

第三章 スマホを持たない人が、いるんだな

連絡先を聞くだけのことが、思わぬ遠回りになる日があります。

 三日目に、蓮は連絡先を交換しようとした。

 考えてみれば当然のことだった。毎日神社まで足を運ぶのは、帰省中ならまだしも、東京に戻ってからは続けられない。連絡先さえ知っていれば、離れていてもやり取りできる。それだけのことだった。蓮は特に構えることなく、石段に並んで座ったまま、スマートフォンを取り出した。

「LINE、教えてよ」

 結衣はまばたきした。

「LINE?」

 オウム返しに言った。知らない言葉を聞いたときのような、一拍の間があった。

「そう。毎日ここに来るわけにもいかないから」

「……持ってないんだよね」

「スマホ?」

「うん」

「じゃあ電話番号でもいい。携帯は?」

「携帯も」

結衣は少し困ったように笑った。

「持ってない」

 蓮は少し黙った。

 スマートフォンを持っていない人間が、今の時代にいないわけではない。意識的に手放している人もいる。そういう選択をする人が、ごく少数だが存在する。だから「珍しい」とは思っても、「あり得ない」とは思わなかった。

 でも結衣は、そのことを「困った」とか「不便だ」という顔で言わなかった。謝るわけでも、説明するわけでもなく、ただ、そういうものとして言った。持っていない。それだけだった。

 まるで、持つ必要がないから持っていない、という感じだった。

 必要がない。誰かと連絡を取る必要が。

「じゃあ、どうすればいい?」

蓮は聞いた。

「ここに来れば会えるよ」

結衣はあっさり言った。

「私、ここにいるから」

「毎日?」

「うん、だいたい」

「雨の日も?」

「雨の日も来てみれば分かる」

 それは答えになっていないが、結衣の言い方が自然すぎて、蓮はそれ以上聞けなかった。神社に行けば結衣に会える。その言い方に、どんな場合でも自分はここにいる、という確信が含まれていた。揺らぎのない確信。

 神社に行けば結衣に会える。

 それが、この夏のルールになった。

 *

 四日目も、神社へ行った。

 結衣はいた。参道の途中にしゃがんで、石畳の隙間に生えた小さな草を見ていた。蓮が近づくと顔を上げて、

「来た」

と言った。昨日と同じ声で。

「草、見てたの?」

「この草、毎年ここに生えるんだよ」

結衣は言った。

「抜かれても、また生えてくる」

「神社の人が抜いてるの?」

「たぶん。でもまた生えてくる」

「しぶといな」

「うん」

結衣は草に指先で触れた。

「しぶとくて、かわいい」

 蓮はそれを聞きながら、昨日から頭の端に残っていることを考えていた。スマホも携帯も持っていない。仕事も学校も「特にしていない」。毎日この神社に来ている。友達には会わない。

 それらの事実が、一枚の絵になろうとしていた。でもまだ輪郭がはっきりしなかった。

 何かが足りない。

「結衣ってさ」

蓮は言いかけた。

「うん?」

「この神社、好きだよな」

「好き。昔から」

「昔から変わらない?」

「変わらない。ここの空気が、一番落ち着く」

「外には出ないの?最近」

 結衣がゆっくり立ち上がった。草から手を離して、蓮を見た。

「蓮、また聞こうとしてる」

「……すまん」

「いいよ」

結衣は笑った。

「気になるよね、普通」

 普通、という言葉の使い方が、少し遠かった。普通の人なら気になる、と言っているみたいだった。自分はその「普通」の外にいる、という前提で。

 蓮はそれを指摘しなかった。

 代わりに

「今日の空、どう?」

と聞いた。

 結衣が空を見上げた。

「今日は薄い。雲が多い」

「明日雨かもな」

「かもね」

 それだけで、会話が続いた。何かを解決したわけじゃない。でも、そういう話ができることが、蓮にはなぜか少し大切に感じた。

 *

 五日目の朝、蓮は実家の引き出しを整理していた。

 母に「古いものを捨てていいよ」と言われた引き出し。開けると、懐かしいものが積み重なっていた。小学校の通知表、中学のときのシャーペン、高校の文化祭のパンフレット。色々な時代の自分が、層になって詰まっていた。捨てるものと残すものを仕分けながら、蓮は自分がこんなに多くのものを置いてきたのだと、改めて気づいた。

 東京へ行くとき、持ちきれないものをここに置いた。それから五年、一度も開けなかった。開けなくても困らなかった。でもこうして見ると、どれも確かに自分の一部だった時期があったものばかりだった。

 その中に、古い携帯があった。

 ガラケーだ。充電器も一緒に入っていた。

 高校のときに使っていたやつだ、と蓮はすぐに分かった。スマホに乗り換えたとき、データを移すのが面倒でそのまま引き出しにしまったのだと思う。あのときは早く新しい機種を使いたくて、古いものを丁寧に整理する気になれなかった。

 充電器を見つけて、試しに繋いでみた。

 コンセントに差し込むと、しばらくして充電中のランプが点滅した。まだ生きている。蓮は少し驚いた。五年間、誰にも触れられずに引き出しの中にいて、それでもまだ動いた。

 画面が光った。

 電源が入った。

 古い機種だから、通信はできない。でも保存されているデータは残っているはずだ。蓮は操作ボタンを押しながら、懐かしい操作感を思い出した。スマホと違って、物理的なボタンがある。押すと確かな感触がある。

 着信履歴を開いた。

 いくつかの名前が並んでいた。高校時代の友人の名前。母の名前。

 そして——結衣の名前があった。

 「結衣」と登録されている番号から、最後に着信があったのは。

 蓮は日付を確認した。

 五年前の夏。蓮が東京へ出発した日の、朝。

 着信は三回あって、全部不在着信だった。

 蓮はそれを見て、少し動けなくなった。

 折り返した記憶がない。出発の朝は慌ただしくて、荷物の最終確認をして、タクシーを呼んで、親と別れを告げて、それで精一杯だった。スマホはずっとリュックの中にしまっていた。この古い携帯を手に取る余裕は、確かになかった。

 でも。

 着信に気づいていたかどうかも、もう分からない。

 三回、電話をかけてきた。どんな気持ちで、かけてきたのか。出なかったとき、どう思ったか。メッセージを残さなかった理由は何だったのか。

 何も分からない。

 メッセージは来ていなかった。電話だけ、三回。

 蓮は携帯を閉じた。閉じて、手の中に持ったまま、しばらく動かなかった。

 窓の外で、蝉が鳴いていた。

 午前中の蝉の声だった。まだ勢いのある、まっすぐな声。それがひどくうるさく感じた。

 *

 その日の昼、神社へ行くと結衣はいた。

 参道の入り口近く、鳥居のすぐ内側に立っていた。蓮が来るのを待っていたわけじゃないと思う。ただそこにいた。光の中に立っていた。

「今日は何見てたの」

蓮は聞いた。

「雲」

結衣は上を向いた。

「積乱雲がきれいで」

 見上げると、確かに大きな雲が空に立っていた。入道雲。白くて、輪郭がくっきりしていた。夏の空に、垂直に伸びている。

「本当だ」

蓮は言った。

「でかい」

「うん。さっきより大きくなった。見てたら育ってた」

「雲が育つのを見てたのか」

「時間があるから」

 時間がある。その言い方が、またさらっとしていた。時間があるから、雲が育つのを見ていられる。裏を返せば、それ以外に何もない、ということかもしれない。

「蓮、今日どうかした?」

結衣が聞いた。

「なんで」

「なんか、少し違う顔してる」

 蓮は結衣を見た。

「古い携帯、出てきた」

「ふうん」

「高校のとき使ってたやつ。結衣から着信が残ってた。五年前の、俺が出発した朝に」

 結衣はまばたきした。表情は変わらなかった。でも少し、空気が変わった気がした。

 蓮にはそれが分かった。分かったが、何が変わったのかは言葉にできなかった。微かに、何かが揺れた。それだけ分かった。

「そう」

結衣は言った。

「折り返せなくてごめん」

「いいよ」

「でも」

「いいよ、本当に」

結衣が笑った。

 でも今日の笑顔は、少しだけ違う角度だった。いつもより、少しだけ下を向いた笑顔。目が伏せ目がちになっていた。口の端は上がっているのに、どこかに重さがあった。

「もう昔のことだから」

 蓮は「昔のことだから」という言葉を、しばらく考えた。

 昔のこと。

 結衣にとって、五年前は「昔のこと」なのか。

 当たり前のことのようで、なぜかそれが引っかかった。「昔のことだから、いい」という言葉は、時間が傷を癒したという意味のはずだ。五年経ったから、もういい。そう聞こえるはずだった。

 でもなぜか、蓮には違う響きに聞こえた。

 「昔のことだから」という言葉が、まるで他人事みたいだった。

 自分のことを、自分より遠いところから見ているみたいだった。

「結衣」

「うん?」

「その朝、俺に電話してきたのって、何か用事があった?」

 結衣は少しの間、雲を見ていた。

「用事」

結衣は繰り返した。

「用事、かな」

「違うの?」

「用事って言えば用事だけど」

「何だったの」

 また間があった。今度は少し長かった。蝉が鳴いていた。風が来て、木々が揺れた。結衣の髪が顔にかかって、彼女はそれをそっと耳にかけた。

「言えたら、あのとき言ってたよ」

結衣はそう言った。

「電話が繋がってたら」

 それ以上は言わなかった。

 蓮も聞かなかった。

 電話が繋がっていたら。

 五年前の朝、もし蓮があの電話に出ていたら、結衣は何を言ったのだろう。それは今も分からないままで、おそらくこれからも、分からないままかもしれない。

「積乱雲、また大きくなった」

結衣が言った。

 蓮は空を見た。

 確かに、さっきより雲が育っていた。夏の空に、白くて重たいものが、どんどん積み上がっていた。

折り返さなかった朝にも、誰かの時間はありました。電話が繋がっていたら。その仮定は答えのないまま、入道雲みたいに育っていきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。