第三章 スマホを持たない人が、いるんだな
連絡先を聞くだけのことが、思わぬ遠回りになる日があります。
三日目に、蓮は連絡先を交換しようとした。
考えてみれば当然のことだった。毎日神社まで足を運ぶのは、帰省中ならまだしも、東京に戻ってからは続けられない。連絡先さえ知っていれば、離れていてもやり取りできる。それだけのことだった。蓮は特に構えることなく、石段に並んで座ったまま、スマートフォンを取り出した。
「LINE、教えてよ」
結衣はまばたきした。
「LINE?」
オウム返しに言った。知らない言葉を聞いたときのような、一拍の間があった。
「そう。毎日ここに来るわけにもいかないから」
「……持ってないんだよね」
「スマホ?」
「うん」
「じゃあ電話番号でもいい。携帯は?」
「携帯も」
結衣は少し困ったように笑った。
「持ってない」
蓮は少し黙った。
スマートフォンを持っていない人間が、今の時代にいないわけではない。意識的に手放している人もいる。そういう選択をする人が、ごく少数だが存在する。だから「珍しい」とは思っても、「あり得ない」とは思わなかった。
でも結衣は、そのことを「困った」とか「不便だ」という顔で言わなかった。謝るわけでも、説明するわけでもなく、ただ、そういうものとして言った。持っていない。それだけだった。
まるで、持つ必要がないから持っていない、という感じだった。
必要がない。誰かと連絡を取る必要が。
「じゃあ、どうすればいい?」
蓮は聞いた。
「ここに来れば会えるよ」
結衣はあっさり言った。
「私、ここにいるから」
「毎日?」
「うん、だいたい」
「雨の日も?」
「雨の日も来てみれば分かる」
それは答えになっていないが、結衣の言い方が自然すぎて、蓮はそれ以上聞けなかった。神社に行けば結衣に会える。その言い方に、どんな場合でも自分はここにいる、という確信が含まれていた。揺らぎのない確信。
神社に行けば結衣に会える。
それが、この夏のルールになった。
*
四日目も、神社へ行った。
結衣はいた。参道の途中にしゃがんで、石畳の隙間に生えた小さな草を見ていた。蓮が近づくと顔を上げて、
「来た」
と言った。昨日と同じ声で。
「草、見てたの?」
「この草、毎年ここに生えるんだよ」
結衣は言った。
「抜かれても、また生えてくる」
「神社の人が抜いてるの?」
「たぶん。でもまた生えてくる」
「しぶといな」
「うん」
結衣は草に指先で触れた。
「しぶとくて、かわいい」
蓮はそれを聞きながら、昨日から頭の端に残っていることを考えていた。スマホも携帯も持っていない。仕事も学校も「特にしていない」。毎日この神社に来ている。友達には会わない。
それらの事実が、一枚の絵になろうとしていた。でもまだ輪郭がはっきりしなかった。
何かが足りない。
「結衣ってさ」
蓮は言いかけた。
「うん?」
「この神社、好きだよな」
「好き。昔から」
「昔から変わらない?」
「変わらない。ここの空気が、一番落ち着く」
「外には出ないの?最近」
結衣がゆっくり立ち上がった。草から手を離して、蓮を見た。
「蓮、また聞こうとしてる」
「……すまん」
「いいよ」
結衣は笑った。
「気になるよね、普通」
普通、という言葉の使い方が、少し遠かった。普通の人なら気になる、と言っているみたいだった。自分はその「普通」の外にいる、という前提で。
蓮はそれを指摘しなかった。
代わりに
「今日の空、どう?」
と聞いた。
結衣が空を見上げた。
「今日は薄い。雲が多い」
「明日雨かもな」
「かもね」
それだけで、会話が続いた。何かを解決したわけじゃない。でも、そういう話ができることが、蓮にはなぜか少し大切に感じた。
*
五日目の朝、蓮は実家の引き出しを整理していた。
母に「古いものを捨てていいよ」と言われた引き出し。開けると、懐かしいものが積み重なっていた。小学校の通知表、中学のときのシャーペン、高校の文化祭のパンフレット。色々な時代の自分が、層になって詰まっていた。捨てるものと残すものを仕分けながら、蓮は自分がこんなに多くのものを置いてきたのだと、改めて気づいた。
東京へ行くとき、持ちきれないものをここに置いた。それから五年、一度も開けなかった。開けなくても困らなかった。でもこうして見ると、どれも確かに自分の一部だった時期があったものばかりだった。
その中に、古い携帯があった。
ガラケーだ。充電器も一緒に入っていた。
高校のときに使っていたやつだ、と蓮はすぐに分かった。スマホに乗り換えたとき、データを移すのが面倒でそのまま引き出しにしまったのだと思う。あのときは早く新しい機種を使いたくて、古いものを丁寧に整理する気になれなかった。
充電器を見つけて、試しに繋いでみた。
コンセントに差し込むと、しばらくして充電中のランプが点滅した。まだ生きている。蓮は少し驚いた。五年間、誰にも触れられずに引き出しの中にいて、それでもまだ動いた。
画面が光った。
電源が入った。
古い機種だから、通信はできない。でも保存されているデータは残っているはずだ。蓮は操作ボタンを押しながら、懐かしい操作感を思い出した。スマホと違って、物理的なボタンがある。押すと確かな感触がある。
着信履歴を開いた。
いくつかの名前が並んでいた。高校時代の友人の名前。母の名前。
そして——結衣の名前があった。
「結衣」と登録されている番号から、最後に着信があったのは。
蓮は日付を確認した。
五年前の夏。蓮が東京へ出発した日の、朝。
着信は三回あって、全部不在着信だった。
蓮はそれを見て、少し動けなくなった。
折り返した記憶がない。出発の朝は慌ただしくて、荷物の最終確認をして、タクシーを呼んで、親と別れを告げて、それで精一杯だった。スマホはずっとリュックの中にしまっていた。この古い携帯を手に取る余裕は、確かになかった。
でも。
着信に気づいていたかどうかも、もう分からない。
三回、電話をかけてきた。どんな気持ちで、かけてきたのか。出なかったとき、どう思ったか。メッセージを残さなかった理由は何だったのか。
何も分からない。
メッセージは来ていなかった。電話だけ、三回。
蓮は携帯を閉じた。閉じて、手の中に持ったまま、しばらく動かなかった。
窓の外で、蝉が鳴いていた。
午前中の蝉の声だった。まだ勢いのある、まっすぐな声。それがひどくうるさく感じた。
*
その日の昼、神社へ行くと結衣はいた。
参道の入り口近く、鳥居のすぐ内側に立っていた。蓮が来るのを待っていたわけじゃないと思う。ただそこにいた。光の中に立っていた。
「今日は何見てたの」
蓮は聞いた。
「雲」
結衣は上を向いた。
「積乱雲がきれいで」
見上げると、確かに大きな雲が空に立っていた。入道雲。白くて、輪郭がくっきりしていた。夏の空に、垂直に伸びている。
「本当だ」
蓮は言った。
「でかい」
「うん。さっきより大きくなった。見てたら育ってた」
「雲が育つのを見てたのか」
「時間があるから」
時間がある。その言い方が、またさらっとしていた。時間があるから、雲が育つのを見ていられる。裏を返せば、それ以外に何もない、ということかもしれない。
「蓮、今日どうかした?」
結衣が聞いた。
「なんで」
「なんか、少し違う顔してる」
蓮は結衣を見た。
「古い携帯、出てきた」
「ふうん」
「高校のとき使ってたやつ。結衣から着信が残ってた。五年前の、俺が出発した朝に」
結衣はまばたきした。表情は変わらなかった。でも少し、空気が変わった気がした。
蓮にはそれが分かった。分かったが、何が変わったのかは言葉にできなかった。微かに、何かが揺れた。それだけ分かった。
「そう」
結衣は言った。
「折り返せなくてごめん」
「いいよ」
「でも」
「いいよ、本当に」
結衣が笑った。
でも今日の笑顔は、少しだけ違う角度だった。いつもより、少しだけ下を向いた笑顔。目が伏せ目がちになっていた。口の端は上がっているのに、どこかに重さがあった。
「もう昔のことだから」
蓮は「昔のことだから」という言葉を、しばらく考えた。
昔のこと。
結衣にとって、五年前は「昔のこと」なのか。
当たり前のことのようで、なぜかそれが引っかかった。「昔のことだから、いい」という言葉は、時間が傷を癒したという意味のはずだ。五年経ったから、もういい。そう聞こえるはずだった。
でもなぜか、蓮には違う響きに聞こえた。
「昔のことだから」という言葉が、まるで他人事みたいだった。
自分のことを、自分より遠いところから見ているみたいだった。
「結衣」
「うん?」
「その朝、俺に電話してきたのって、何か用事があった?」
結衣は少しの間、雲を見ていた。
「用事」
結衣は繰り返した。
「用事、かな」
「違うの?」
「用事って言えば用事だけど」
「何だったの」
また間があった。今度は少し長かった。蝉が鳴いていた。風が来て、木々が揺れた。結衣の髪が顔にかかって、彼女はそれをそっと耳にかけた。
「言えたら、あのとき言ってたよ」
結衣はそう言った。
「電話が繋がってたら」
それ以上は言わなかった。
蓮も聞かなかった。
電話が繋がっていたら。
五年前の朝、もし蓮があの電話に出ていたら、結衣は何を言ったのだろう。それは今も分からないままで、おそらくこれからも、分からないままかもしれない。
「積乱雲、また大きくなった」
結衣が言った。
蓮は空を見た。
確かに、さっきより雲が育っていた。夏の空に、白くて重たいものが、どんどん積み上がっていた。
折り返さなかった朝にも、誰かの時間はありました。電話が繋がっていたら。その仮定は答えのないまま、入道雲みたいに育っていきます。




