第二章 変わらない笑顔で、きみはそこにいた
懐かしさは、変わったものにしか生まれないのかもしれません。二日目の朝と、昼の神社の話です。
母は
「やっと帰ってきた」
と言って、少し泣いた。
蓮は
「泣くほどじゃないだろ」
と言って、でも自分も少し目が熱くなった。
父は
「お、帰ったか」
とだけ言って、テレビのチャンネルを変えた。それが父らしかった。リモコンを握ったまま振り返りもしない。でもその「お、帰ったか」の一言に、ちゃんと安堵が混じっているのを、蓮は知っていた。父はいつもそういう人だった。嬉しいことを、嬉しいと言わない代わりに、声のトーンで伝える人だった。
夕飯は母の手料理だった。
東京では食べられない味が、皿の上に並んでいた。煮物の味付けが、どこの店でも再現できない。里芋と人参と椎茸が、甘めの出汁でゆっくり炊かれている。食べながら蓮は、この味を五年間食べていなかったことを、少し後悔した。後悔、というより、もったいなかったという感覚。もっと早く帰ればよかった、と思いながら、でも早く帰れなかった理由のことも同時に頭の端にあって、そのせいで少し複雑な気持ちで箸を動かした。
母が
「お代わりは?」
と聞いた。
蓮は
「もらう」
と答えた。母が顔をほころばせた。
「結衣ちゃんに会った?」
母が言った。
「うん」
蓮は箸を持ったまま答えた。
「神社で」
「そう」
母の声が少し曖昧になった。
「元気そうだった?」
「元気そうだった」
「そっか」
それだけで話題が変わった。父が
「明日、雨降るらしい」
と言って、母が
「じゃあ洗濯物明日に回そう」
と言った。会話は別の方向へ流れていった。
なぜ母がそこで話を止めたのか、蓮は少し気になった。結衣の話を続けなかったのは、興味がないからじゃない。むしろ逆だった。「元気そうだった?」という聞き方には、心配のような何かが混じっていた。それでも止めた。止める理由があった。
今日は疲れていたから、蓮は聞かなかった。
でも食後に自分の部屋へ戻りながら、その「そっか」という一言が、頭の中に小さく残った。
*
翌朝、蓮は早く目が覚めた。
六時前だった。東京にいるときは目覚まし時計がないと起きられないのに、ここでは光の入り方が違うのか、体が勝手に目を開けた。
汐崎の朝と、東京の朝は音が違う。車の音がない。代わりに鳥の声がする。ウグイスじゃない、もっと地味な声の鳥が、窓の外でずっと鳴いていた。その声のリズムが一定で、焦りがなくて、蓮はしばらくそれを聞きながら天井を見ていた。
起き上がって、縁側に出た。
庭が朝の光の中にあった。夏草が露に濡れていた。蜘蛛の巣に露が乗って、朝日を受けて光っていた。空気が静かで、まだ蝉が鳴いていなかった。午前中の早い時間だけにある、夏の静けさ。蓮はそれを懐かしいと感じながら、縁側の木の感触を足の裏に確かめた。
子供の頃、この庭でよく遊んだ。
結衣とも、この庭で遊んだことがある。水風船を作って、投げ合った。二人とも服がびしょ濡れになって、母に叱られた。結衣は「ごめんなさい」と素直に謝って、蓮は「俺じゃなくて結衣が最初に投げた」と言い訳をして、それを聞いた結衣が「蓮くんが先に水を入れすぎたんだよ」と言い返してきた。言い合いをしながら、二人とも笑っていた。
記憶というのは、場所に縛られている。その場所に戻ると、忘れていたはずの記憶が戻ってくる。東京にいる間は、そういう記憶を意識することがなかった。毎日が新しい何かで上書きされていくから、古いものが沈んでいく。でもここに戻ってくると、沈んでいたものが水面に浮かんでくる。
蓮は縁側に腰を下ろして、庭を見ていた。
草の向こうに、古いブランコが見えた。錆びていた。もう乗る人がいないから、錆びたままになっている。鎖の部分が赤茶色になって、座板が割れかけていた。それでも、ブランコの形をしていた。
なぜか、結衣の顔を思い出した。
昨日の、笑顔。
あの笑顔は、確かに昔と同じだった。形も、目の細まり方も、頬の柔らかさも。でも「同じ」という感覚が、懐かしさじゃなくて、別の何かに感じた。懐かしさというのは、時間を経て再会するものに感じる。変わったものを見て、それでも昔の面影があって、だから懐かしい。
でも結衣は変わっていなかった。
変わっていないものに、懐かしさは生まれない。
ならあの感覚は何だったのか。
朝の鳥が、また鳴いた。蓮はそれを聞きながら、答えを出せないまま、朝の庭を見続けた。庭の端で、夏草が風もないのにひとりでに揺れた。
*
二日目の昼、蓮はまた神社へ向かった。
特に理由を考えたわけじゃなかった。昼食を終えて、少し外の空気を吸おうと思って、歩き始めたら自然に神社の方へ向かっていた。鳥居をくぐって参道に入ったとき、蓮はようやく「ここに来ようとしていたのかもしれない」と気づいた。
結衣がいた。
また参道の端に立っていた。今度は何かを見ているわけではなく、ただ木漏れ日の中に立っていた。腕を体の横に下ろして、少し上を向いて、光の動きを目で追っているみたいだった。
蓮が来たのに気づくと、また同じ笑顔を向けた。
「来た」
「来た」
「昨日の続きから話す?」
「どこで終わったっけ」
「てんとう虫」
「じゃあ続き、ないな」
結衣が笑った。昨日と同じ笑顔。同じ声の高さ。同じ立ち方。
蓮はそれに気づきながら、何も言わなかった。
二人で石段に座った。昨日と同じ場所。昨日と同じ光の入り方。木の隙間から差し込む午後の日差しが、石畳の上に同じ模様を作っていた。まるでリプレイを見ているみたいだった。いや、リプレイというより——この場所では時間が動いていないみたいだった。
「東京の夏と、ここの夏、どっちが暑い?」
結衣が聞いた。
「ここの方が暑い気がする」
「じゃあ東京に行けば涼しい」
「東京はコンクリートだから、別の暑さがある。蓄熱するから、夜になっても熱が抜けない」
「へえ」
結衣は少し考えた。
「行ってみたいな、東京」
「行けばいい」
蓮は言った。
「新幹線で二時間もあれば着く」
「そうだね」
でも「行く」とは言わなかった。
蓮はそれが少し気になった。行ってみたいなら、行けばいい。二十三歳で、社会人になって、お金も時間もそれなりに自分で管理できる年齢だ。帰省のついでに立ち寄る、くらいの気軽さでできることだ。それを「そうだね」で終わらせる。その「そうだね」には、行けない理由があるように聞こえた。言葉にはしていないが、確かにそこにある。
「結衣って今、仕事は?」
少しの間があった。
「……特にしてないかな」
「学校は?」
「うーん」
また曖昧な答えだった。高校を卒業してから何年も経っている。蓮と同い年だから、今年二十三歳のはずだ。でも結衣の答え方は、まるで今を生きている人間のそれじゃない感じがした。「特にしていない」という言葉が浮いている。何かをしていないという事実の説明というより、その質問自体が届いていないみたいな、そういう曖昧さだった。
「特にしていない、って」
「蓮」
結衣が遮った。穏やかに。
怒った声じゃなかった。責める声でも、困った声でもなかった。ただ、静かに、名前を呼んだ。
「あまり聞かないでほしい」
「え」
「今のこと。今私が何してるかとか。そういうのじゃなくて、昔の話とか、今日の空がきれいとか、そういうので話したい」
蓮は少し驚いた。驚いたのは、内容というより、その言い方だった。怒りも悲しみもなかった。隠しているという後ろめたさも、話せないことへの苦しさも、表には出ていなかった。ただ、静かな、お願い、があった。
子供が「ここには来ないで」と言うときの声みたいだった。理由は説明しない。でも来てほしくないという気持ちは本物で、その境界線を丁寧に引いている。
「……分かった」
「ありがとう」
結衣が空を見た。
雲が一つ、ゆっくり動いていた。夏の白い雲。積乱雲になりかけたような、もくもくとした形の雲が、風に押されてゆっくり東の方へ流れていった。
「きれいだよね」
結衣が言った。
「うん」
嘘じゃなかった。確かにきれいだった。でも蓮は空よりも、結衣の横顔を見ていた。
白い光の中にある横顔。少し上向きになった顎。雲を目で追いながら、表情が穏やかなまま動かない。
どうしても、五年前と同じに見えた。
五年前の夏、同じ場所で、同じように空を見ていた結衣の横顔と。
重なる。
蓮は「どうして変わらないんだろう」と思った。人間は変わる。五年あれば、それなりに変わる。表情の作り方が変わる。声の使い方が変わる。見ているものが変わる。蓮自身がそうだった。東京に出て、色々なことを経験して、少しずつ、確実に、違う人間になっていった。
なのに。
「結衣」
蓮は言った。
「うん?」
「高校のとき、よくここに来てたよな」
「うん、来てた」
「今も来てる?」
「毎日来てる」
結衣は空を見たまま言った。
「ここが好きだから」
毎日。
その言葉が、少し引っかかった。毎日来ている。社会人でも学生でもなく、毎日この神社に来ている。雨の日も、暑い日も、ここにいる。
「一人で?」
「うん」
「友達とは会わないの?」
少し間があった。
「会わない」
「なんで」
「なんでって言われても」
結衣がようやく空から目を下ろした。石畳を見た。光の模様が揺れている。風が来て、木々が鳴った。
「みんな、遠くへ行ったから」
結衣は静かに言った。
「蓮みたいに」
蓮みたいに。
その言葉の重さを、蓮はしばらく測っていた。責めているわけじゃない。そう聞こえなかった。ただ、事実として、みんな遠くへ行った。自分も遠くへ行った一人だ。そして結衣は——行かなかった。行けなかった。ここに残った。
「そっか」
と言うことしかできなかった。
「うん」
と結衣が答えた。
また沈黙になった。今度の沈黙は少し重かった。でも結衣は気にしていない様子で、また空を見上げた。雲が流れていく。夏の午後が、ゆっくり過ぎていく。
蓮はその横顔を見ながら、「ここに残る」ということがどういうことなのか、自分にはまだわからないと思った。
そして、わからないまま帰った蓮には、何かを言う資格があるのかどうかも。
「あまり聞かないでほしい」。静かな声ほど、深く線を引くことがあります。踏み込まなかったのは優しさだったのか。蓮にはまだ分かりません。




