第一部 帰ってきた夏 第一章 故郷の空は、まだ夏のままだった
変わらない山は、帰ってきた人に何を見せるのでしょう。五年ぶりの汐崎。新幹線の窓から、この夏は始まります。
新幹線が速度を落とし始めたとき、蓮は窓の外を見た。
山が見えた。子供の頃から知っている山の形。裾野の緩やかな曲線と、頂上付近の岩肌が、記憶の中と寸分違わず同じ場所にあった。当たり前のことなのに、五年ぶりに見るとそれが少し不思議な感じがした。
東京では、景色が常に更新される。昨日あったビルが今日は囲いで覆われていて、来月には別の形になっている。街が呼吸しているみたいに、絶えず変わっていく。それに慣れたせいか、変わらない山を見ると、時間が違う速度で流れているような錯覚を覚えた。
社会人一年目の夏。
蓮は今年二十三歳になった。汐崎に帰省するのは大学入学以来だから、正確には五年ぶりだ。大学の間は盆も正月も帰らなかった。理由はいくつかあったが、一番大きな理由を、蓮はまだ自分の中でうまく整理できていない。
帰れなかったのか、帰りたくなかったのか。
その区別が、今もはっきりしない。
新幹線の車内は冷房が効きすぎていて、Tシャツの袖から出た腕が少しひんやりしていた。窓の外の景色はいよいよ速度を落として、見慣れた海岸線が遠くに現れ始めた。汐崎の海は、夏になると光の粒を撒いたみたいに白く輝く。その白さが記憶の中にあって、窓越しに見ていると、五年という時間が急に薄く感じた。消えたわけじゃない。ただ、あの光の前では、五年なんて大した厚みを持てないのかもしれない、と思った。
隣の席に人はいなかった。蓮は小さなリュックを膝の上に抱えて、ぼんやりと外を見続けた。
何かを決意して帰ってきたわけじゃない。
会社の夏季休暇が十日あって、母親から「一度くらい顔を見せなさい」という連絡が来て、断る理由が特になかった。それだけのことだった。少なくとも、出発するときの蓮はそう思っていた。
でも今、汐崎の山が窓の中に収まっているのを見ていると、「それだけのこと」という言葉が、自分に向けた言い訳だったかもしれないと感じた。
帰ってきたかったのかもしれない。
誰かに会いたかったのかもしれない。
そこまで考えて、蓮は目を窓から外した。手元のスマートフォンを見た。何の通知もなかった。
*
駅を出ると、熱気が全身に貼りついた。
東京の夏も十分に暑いが、汐崎の夏は質感が違う。湿度が高くて、風が少なくて、熱が逃げ場を探しているみたいにあちこちに溜まっている。商店街のアーケードの下に入っても、蒸し風呂の温度が変わらないまま続く感じ。空気に重さがある。体に纏わりつくように、夏がある。
蝉が鳴いていた。
アブラゼミの、躊躇いのない声。東京でも蝉は鳴くが、汐崎の蝉の声は量が違う。音の壁みたいに、空気全体が鳴いている。改札を出た瞬間、その声が四方から押し寄せてきた。懐かしい、というより、圧倒される感じ。忘れていたわけじゃないのに、体が一拍ぶん驚いた。
母から頼まれた買い物を商店街で済ませて、蓮は実家への道を歩いた。左に曲がると八百屋、右に曲がると文房具屋、突き当たりに郵便局。五年経っても変わっていない。いや、文房具屋は看板が少し色あせているか。八百屋の軒先に吊るしてある値札の字体も、記憶の中のものと同じだった。
故郷は、蓮が知っている形のまま、そこにあった。
それが、懐かしいのか、息苦しいのか、蓮にはまだ判断がついていなかった。
商店街を歩きながら、蓮はなんとなく周りを観察した。夕方前の時間帯で、買い物袋を下げた主婦が何人か通り過ぎた。小学生が二人、自転車をすごいスピードで走らせていった。アイスクリーム屋の前に行列ができていた。以前もあの店はよく混んでいた。あの行列に並んだことが、自分にもあった。
知っている場所なのに、自分だけが知らない時間を過ごしてきたみたいな、変な感覚があった。
街は変わらなかった。蓮だけが変わった。
その事実が、足の裏から静かに上がってくるように、じわじわと感じられた。
*
実家は坂の上にある。
子供の頃は何とも思わなかったが、荷物を持って登ると少し息が切れた。体力が落ちたわけじゃない、多分。ただ、子供のときと今では、坂の角度に対する構えが違う気がする。子供のときは何も考えずに駆け上っていた。今は「坂がある」と思ってから登る。その思考の一拍分が、余分なエネルギーを使わせる。
坂を三分の一ほど登ったところで、蓮は足を止めた。
息を整えるためじゃない。
右手に、鳥居が見えたからだ。
汐崎神社。坂の途中にある、小さな神社。鳥居をくぐると石畳の参道が続いて、両側に古い木が並んでいる。真夏でもここだけ空気が三度くらい低い。子供の頃、夏になるとよく来た場所だ。
通り過ぎるつもりだった。荷物もあるし、母が夕飯の時間に合わせて待っているはずだった。でも足が、自然に鳥居の前で遅くなった。まるで磁石みたいに、あるいは昔の癖みたいに。蓮は一歩、鳥居の方へ踏み出した。
参道の奥を見た。
石畳の端に、誰かがいた。
しゃがんで、足元の何かを見ている。後ろ姿だけで分かった。
髪の長さも、肩の丸みも、首の角度も。
白いワンピース。黒い髪が肩の上で少し揺れていた。
五年前と、何も変わっていなかった。
*
「結衣」
名前が口から出るより前に、足が参道に入っていた。
砂利を踏む音に気づいたのか、その人が顔を上げた。振り返った。
日向結衣。
幼なじみ。小学校から高校まで、ずっと同じ町で育った。お互いの家を行き来して、喧嘩して、仲直りして、最後の夏に何かを言いかけたまま、蓮は東京へ行った。
結衣は蓮を見て、少し驚いた顔をした。目が丸くなって、唇が微かに開いた。それからすぐに、笑った。
その笑顔が、また止まった時間みたいだった。
「蓮」
結衣が言った。
「帰ってきたんだ」
声も、変わっていなかった。高くも低くもない、穏やかな声。夏の午後の図書室みたいに、静かで、涼しくて、どこか時間が止まっている感じのする声。
「うん」
「いつ?」
「さっき」
「そっか」
それだけで、会話が一段落した。でも気まずさはなかった。昔からそうだった。二人の間の沈黙は、いつも不思議と軽かった。言葉がなくても、そこにいるだけで十分だという感覚。それはまだ残っていた。五年という時間を挟んでも、その感覚だけは変わらずにあった。
「何してたの、こんなところで」
蓮は聞いた。
「てんとう虫がいて」
結衣が足元を見た。
「でももう行っちゃった」
「てんとう虫」
「うん。赤くて、点が七つあった」
それを言うときの声が、高校生のままだった。
蓮は少し、胸の奥がざわついた。理由はうまく説明できなかった。ただ、何かが、ずれている気がした。こんな言い方をしたら失礼かもしれないけれど——結衣は、五年前と何も変わっていなかった。見た目だけじゃない。声も、話し方も、てんとう虫の点の数を丁寧に数えるような、そういう視線の向け方も。
蓮は自分が、どこかで変わることを期待していたのかもしれないと思った。再会したら、お互い少し大人になっていて、昔とは違う距離感で話せるような、そういう再会を。でも目の前の結衣は、まるでこの五年が存在しなかったみたいに、昔のままそこにいた。
*
二人で参道の石段に腰を下ろした。
木の隙間から西日が差し込んで、石畳に斑な光の模様を作っていた。蝉の声が少し遠くなって、かわりに境内の静けさが濃くなった。風が一瞬だけ通り抜けて、結衣の髪が揺れた。
「元気だった?」
蓮が聞いた。
「うん」
結衣はあっさり答えた。
「元気だよ。蓮は?」
「まあ」
「東京、どうだった?」
「色々あった」
「大変そう」
「まあ」
また沈黙になった。でも今度の沈黙は少し違う質感だった。「色々あった」と言ったとき、結衣が何も聞かなかった。昔の結衣なら「何が色々?」と突っ込んできた。入学式の翌日にクラスで嫌なことがあったと言ったら、「嫌なことって何?」と椅子を引き寄せながら聞いてきた。放課後に寄り道した公園で、つまらなかったと言ったら、「どんなふうにつまらなかった?」と草の上に寝転びながら聞いてきた。
結衣はそういう人だった。
細かく聞く人だった。
今は、聞かなかった。
聞かないのは、気を使っているのか。それとも——聞き方を忘れたのか。いや、そんなはずはない。でも何かが違う。その違いに名前をつけられないまま、蓮は石段に手をついて、境内の木を見上げた。
「結衣は」
蓮は言いかけた。
「今何してる?」
「ここにいるよ」
「ここって」
「この町に」
それは聞いたことへの答えじゃない、と思ったが、蓮はそれ以上追及しなかった。「この町に」という答えが、なんとなく最終的なものに聞こえたから。
日が傾いていた。蝉の声が変わった。アブラゼミのざわめきが少し鎮まって、ヒグラシの声が混じり始めた。夕方の蝉の声になった。境内が金色に染まりかけていた。
「また来る?」
結衣が聞いた。
「うん」
「じゃあ、また会えるね」
結衣が立ち上がった。
「またね」
と言って、参道の奥の方へ歩いていった。
蓮はその背中を見ていた。
白いワンピースが、夕暮れの中を揺れながら遠ざかっていった。木々の間に消えるまで、目で追っていた。消えた後も、しばらく石段に座っていた。
境内には蓮一人になった。
蝉の声と、風の音だけがあった。
空が、夕焼けになっていた。汐崎の空は、東京の空より少し広かった。ビルがないから、遮るものがないから、水平線まで色が続いていく。オレンジと薄紫が混ざった色が、空の端から端まで広がっていた。
蓮はそれを見ながら、「ずれている」という感覚のことを、もう一度考えた。
五年。
自分は五年間、東京で暮らしてきた。バイトをして、授業を受けて、友達ができて、失恋して、就職活動をして、会社に入って、毎日電車に乗って、毎日誰かとすれ違って——その五年間が、結衣にはなかったみたいに思えた。
いや、違う。
結衣にも五年間はあったはずだ。二十三歳になったはずだ。何かをして、どこかへ行って、誰かと話して、この夏を迎えたはずだ。
でも目の前にいた結衣は——どこにも行っていないみたいだった。ここにいるよ、と言った。この町に。まるで、ずっとこの神社にいたみたいな言い方で。
答えは出なかった。
出ないまま、夜が近づいてきた。
蓮は立ち上がって、荷物を持った。坂の上の実家まで、もう少し歩く。
鳥居をくぐるとき、振り返った。
参道の奥は、もう薄暗くなっていた。結衣の姿はどこにもなかった。最初から誰もいなかったみたいに、境内は静かだった。
蓮は前を向いて、坂を登り始めた。
汐崎の夏は、まだ続いていた。
変わったのは街か、それとも自分か。答えが出ないまま、坂を登りました。鳥居の奥にあった後ろ姿のことを、蓮はまだ、誰にも話せません。




