第三章 夏が終わる前に、と言ったのはきみだった
夢の中でだけ、聞こえなかった言葉があります。夕立の前の神社です。
夢を見た。
高校三年の夏の夢だった。
夢というのは、始まりがない。気づいたときにはもうそこにいる。蓮は気づいたときに、海にいた。夕方の海だった。波が穏やかで、空が橙色だった。砂浜が夕日を受けて、少し赤みを帯びていた。潮の匂いがした。波が寄せる音がした。
結衣が隣にいた。
二人で砂浜に座っていた。膝を抱えて、水平線の方を見ていた。夢の中なのに、砂の感触が本物みたいだった。少し湿っていて、手のひらで掬うとさらさら落ちる感じ。
夢の中の結衣が言った。
「蓮、東京に行くんだよね」
「うん」
「遠いね」
「二時間で行けるけど」
「でも遠い」
夢の中で蓮は、それに何も言えなかった。
遠い、という言葉の重さを、あのときの蓮は分かっていなかった。新幹線で二時間なら遠くない、と思っていた。距離で測れると思っていた。でも遠さというのは、距離じゃない。会いに行こうとするかどうかで決まる。会いに行かなければ、二時間の場所でも遠くなる。
夢の中の蓮は、そのことをまだ知らなかった。
波が一つ、砂浜に来て、返していった。
「夏が終わる前に」
結衣が言った。
「言いたいことがあるんだけど」
「何?」
夢の中で結衣が口を開いた。
でもそこで音が消えた。
声が出ていないのか、波の音にかき消されたのか、それとも夢という場所の性質として届かないのか、何を言ったのか聞こえなかった。結衣の唇が動いていた。確かに何かを言っていた。でも言葉が来なかった。
蓮は夢の中で、聞き返そうとした。
でも声が出なかった。
口が動かなかった。体が重かった。夢の中でよくある、動こうとしても動けない感覚。
結衣の顔が、笑っていた。
寂しそうな笑顔だった。伝わったかどうか分からないまま笑っている顔だった。伝えようとして、伝わらなくて、それでも笑っている顔。
波の音だけが続いていた。
*
目が覚めた。
朝の光が部屋に入っていた。カーテンの隙間から、夏の白い光が筋になって差し込んでいた。蝉が鳴いていた。朝の蝉。まだ熱が本格的になる前の、少しだけ清潔な音。
夢の中の結衣の声が、頭に残っていなかった。
何を言おうとしていたのか。唇が動いていたのに、音がなかった。その音のない部分が、目が覚めた後も空白のまま残っていた。
でも「夏が終わる前に」という言葉だけが、はっきり残っていた。
夏が終わる前に、言いたいことがある。
夢の話だ、と頭では分かっていた。でも夢で聞いたその言葉が、記憶の中の何かと繋がっていた。夢が作り出したものなのか、本当にあの夏に結衣が言ったことなのか、境界が曖昧だった。
蓮は起き上がって、窓を開けた。
夏の空気が入ってきた。すでに熱を持っていた。今日も暑くなる。
「夏が終わる前に」という言葉が、朝の空気の中でも消えなかった。
*
神社へ行くと、結衣が珍しく遠くを見ていた。
いつもは境内の中を見ている。木を見たり、石畳を見たり、雲を見たり。でも今日は鳥居の方を向いていた。境内の外、鳥居の向こうの空を、じっと見ていた。
「何見てる?」
「あっちの空」
結衣が指差した。
「入道雲が崩れかけてる。夕立が来るかもしれない」
蓮も鳥居の向こうを見た。
確かに、南の空に大きな雲があった。朝は白く立っていた雲が、午後に向かって崩れ始めていた。てっぺんが広がって、もこもことした輪郭が乱れてきていた。あの雲が流れてくれば、夕方には雨になる。
「雨、嫌い?」
「嫌いじゃない。でも夕立はすぐ終わるから、少し寂しい」
「すぐ終わるから寂しい?」
「うん。激しくて、きれいで、でもあっという間に終わる。なんか、花火みたいで」
花火、という言葉が出た。
蓮はその言葉を受け取りながら、
「花火大会、今年もあるのかな」
と聞いた。
「あるよ」
結衣はすぐ答えた。
「今年も、お盆の夜にある」
迷いなく答えた。汐崎の花火大会は毎年お盆の夜にある。それは変わらない。結衣は今年の花火大会のことを知っていた。
「行ったことある?最近」
「……うん」
結衣は少し間を置いた。
「でも一人で見るのは寂しかった」
「一人で」
「蓮がいなくなってから、ずっと一人だったから」
その言葉が、さらっと出た。
でも重さは軽くなかった。
さらっとした声で、重い言葉を言った。意識せずに言った感じだった。言いながら傷ついているわけでも、訴えているわけでもなく、ただそういう事実として言った。
蓮がいなくなってから、ずっと一人。
五年間、花火を一人で見ていた。
人が大勢集まる夜に、一人でいた。どこに立って見ていたのか。誰かの隣で見ることなく、どんな顔で見ていたのか。花火が上がるたびに、どんなことを考えていたのか。
蓮には想像しかできなかった。でも想像するだけで、胸の奥に何かが積み上がっていった。
「一緒に行こう」
蓮は言った。
「今年」
言葉が出てから、自分で少し驚いた。考えて言ったわけじゃなかった。でも言ってよかったと思った。
結衣が蓮を見た。
今日の目が、少し潤んでいた。
泣いているわけじゃない。でも普段より目が輝いていた。透明度が増したみたいな目だった。
「行く?」
「行く。一緒に」
「……うん」
結衣は言った。
「行きたい」
また「行きたい」だった。
でも今日の「行きたい」は、最初に結衣が言ったときとも、海の約束のときとも、少し違った。もっと近かった。もっと切実だった。待っていた言葉をようやく受け取った、という感じの重さがあった。
花火を一緒に見に行こう。
それだけの約束が、結衣にとってどれほどの意味を持つのか。蓮にはその全部は分からなかった。でも、言ってよかった、という確信だけはあった。
*
遠くで雷が鳴った。
低い音で、一回だけ。夕立が来る前の、地面を揺らすような音。
「急いで帰りな」
結衣が言った。
「濡れるから」
「結衣は?」
「私は大丈夫」
「大丈夫って、濡れるだろ」
「濡れても、私は大丈夫なんだよ」
その言い方が、また少し変だった。
普通じゃない言い方。濡れても大丈夫な理由を言わない。言わなくても分かっているかのような言い方。あるいは、その理由を蓮にはまだ言えないということ。
「早く」
と言って、手を振った。
いつもの笑顔だった。でも今日の笑顔には、さっきまでの潤んだ目の名残りがあって、輪郭が少しだけ柔らかかった。
蓮は迷った。
一歩、踏み出しかけた。濡れても大丈夫ってどういう意味か、と聞こうとした。でも空がまた光って、今度はさっきより近い雷が来た。
「行って」
結衣が言った。
蓮は走った。
参道を駆けて、鳥居をくぐって、坂道に出た。
鳥居をくぐったとき、振り返った。
結衣は同じ場所に立っていた。手を振っていた。
参道の石畳に、最初の雨粒が落ちるのが見えた。一粒、二粒。石畳に濃い点が増えていった。
それから一気に来た。
雨が境内を白く染めた。
結衣の姿が、雨の中で見えなくなった。
蓮は走りながら振り返った。もう一度見ようとした。でも雨が強くて、鳥居の向こうは白い幕になっていた。
坂を下りながら、蓮は夢の言葉を思い出していた。
夏が終わる前に、言いたいことがある。
あの夢は、五年前の記憶が形を変えたものだろうか。それとも、今の蓮が無意識に作り出したものだろうか。
どちらであっても、結衣は確かにあの夏、何かを言おうとしていた。
言えなかった何かが、今もどこかにある。
雨の音が、蓮の耳を満たしていた。
夕立は激しかった。
でも結衣が言った通り、あっという間に止みそうな雨だった。
声の消えた夢と、「濡れても大丈夫」という言葉。花火を一緒に見る、ただそれだけの約束が、誰かにとっては五年ぶんの重さでした。




