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きみがいた夏は、もう終わらない  作者: Noct


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第四章 花火の音が、嘘みたいに遠い

お盆の夜。浴衣と提灯と、人混みのあいだを歩きます

 お盆の夜。

 日が落ちてから、空気が少しだけ緩んだ。昼間の熱気が地面から抜けていって、代わりに夜の湿度が来た。涼しいとは言えない。でも昼とは違う種類の空気だった。夜の夏の空気。どこかに潮の匂いが混じっていた。

 花火大会は、海沿いの広場で行われる。毎年同じ場所で、毎年同じ時間に始まる。蓮が子供の頃から変わらない夏の行事だ。小学生のとき、父に肩車してもらって見た。中学のとき、友人たちと自転車で行った。高校のとき——あの夏が最後だった。それ以来、汐崎の花火を見ていなかった。

 結衣と待ち合わせたのは神社だった。

 夜の神社は昼と雰囲気が違う。昼間は静かで、光が穏やかで、時間が止まったみたいな場所が、夜になると提灯の明かりで別の顔を持つ。橙色の光が石畳を染めて、木々の影が濃くなる。お盆の夜だから、参拝する人の姿もあった。浴衣を着た人たちが何人か参道を歩いていた。線香の煙が上がっていた。

 鳥居をくぐって参道に入ったとき、蓮は足を止めた。

 結衣が、参道の中ほどに立っていた。

 浴衣を着ていた。

 紺地に白い花柄の浴衣。提灯の光の中で、その白い花がやわらかく光っていた。髪を少し上げていた。うなじが見えていた。

 五年前に見たことがある柄だった気がした。あの夏も、結衣は浴衣を着ていた。同じ柄だったかどうか、記憶は定かじゃない。でも記憶の中の結衣と、今の結衣が、また重なった。

 重なった、というより——同じだった。

「きれいだな」

蓮は言った。

 言ってから少し照れた。唐突すぎたかもしれない、と思った。でも見た瞬間に出てきた言葉だったから、どうしようもなかった。

 結衣は「ありがとう」と言った。

 頬が少し赤かった。提灯の光のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。蓮にはどちらか分からなかったが、どちらでもよかった。

 *

 二人で海へ向かった。

 神社から海までは、坂を下って、商店街を抜けて、さらに十分ほど歩く。夜道を並んで歩いた。結衣の浴衣が、歩くたびに揺れた。

 人が多かった。

 浴衣の人、カップル、家族連れ、小さな子供を連れた親。屋台の明かりが道沿いに並んでいた。焼きそばの匂い、綿飴の甘い匂い、線香花火の煙の匂い。夏の祭りの匂いが全部混ざっていた。海沿いの道が人で溢れていた。

 蓮は気づいた。

 結衣の横を、人がすり抜けていく。

 混んでいる道なのに、結衣にぶつかる人がいない。ぶつかりそうになっても、ぶつからない。意識的によけているのか、それとも何か別の理由があるのか、蓮には判断できなかった。ただ、人混みの中で、結衣の周りだけが少し空いていた。

 駄菓子屋で結衣に気づかなかったおばあさんのことを思い出した。

 参拝客が誰も結衣に気づかなかった日のことを思い出した。

 蓮は何も言わなかった。

「混んでるね」と言った。

「毎年こんな感じ」

結衣は言った。

「でも蓮と来ると、また違う感じがする」

「どんな感じ?」

「……本当にいる感じ」

 その言葉を、蓮は聞き流せなかった。

 本当にいる感じ。

 一人のときはそうじゃなかった、ということだ。人混みの中にいて、でも本当にはいない感じ。それが、蓮と来ると変わる。

「一人のときは?」

「一人のときは、ここにいるのに、いない感じがしてた」

 声が静かだった。

 屋台の喧噪の中で、その声だけが別の場所から来た声みたいだった。ここにいるのに、いない。存在が、自分自身に感じられない感覚。蓮には経験がなかった。でも想像するだけで、その孤独の質が伝わってきた。

 *

 砂浜に出た。

 波の音が大きくなった。人がまばらになった。砂が足に纏わりついた。夜の砂浜は昼と色が違う。暗い中で、波が白く光っている。

 二人で砂浜に腰を下ろした。膝を立てて、並んで座った。空には星が出ていた。花火が始まる前の、静かな夜空。

「始まるまで、少し時間ある?」

蓮は言った。

「うん、まだ」

「結衣に聞きたいことがある」

 波が来た。砂浜の端を濡らして、引いていった。

「何?」

 蓮は少し深呼吸した。

 夜の空気を吸って、吐いた。ここまで来て言わなければ、もう言えない気がした。あと数日で帰省が終わる。東京へ帰る。この夏が終わる。その前に、聞かなければならない。

「俺、気づいてるんだよ。ちゃんとは言葉にできてないけど、何かがおかしいって。結衣が、普通とは違うって」

 結衣が砂を見た。

 膝の前の砂を、指先でそっと触れた。砂が指に沿って動いた。

「知りたくない?」

「言いたくなければ言わなくていい。でも、俺は知りたい」

 波が来て、砂浜の端を濡らして、返っていった。

 しばらく、波の音だけがあった。

「知ったら」

結衣が言った。

「どうする?」

「どうするかは、知ってから考える」

「逃げない?」

「逃げない」

 結衣が顔を上げた。蓮を見た。

 その目が、長い時間をかけて蓮を測るみたいな目だった。本当に逃げないか、確かめている目だった。言葉じゃなく、蓮の目の奥を見ている目だった。

 蓮は視線を外さなかった。

 そのとき。

 ドン、という音が来た。

 低く、腹に響く音。海の向こうの空に、光が広がった。

 一拍遅れて、赤い花火が夜空に咲いた。

 散った。

 光の粒が夜に溶けていった。

 結衣が空を見た。

「始まった」

「結衣」

「後で話す」

結衣は言った。声が穏やかだった。

「今は、見たい」

 *

 蓮は空を見た。

 次の花火が上がった。今度は青かった。丸く広がって、音が腹に響いた。さっきより大きかった。空の中心で開いて、光の糸が四方に伸びた。

 花火は続いた。

 一発ごとに空が色を変えた。赤、青、金色、緑。白い閃光が走って、それから色が広がる。波の音と花火の音が混ざって、砂浜全体が鳴っているみたいだった。

 遠くで歓声が上がった。子供が笑う声がした。

 蓮は隣の結衣を見た。

 結衣は空を見ていた。

 花火の光が顔に当たるたびに、色が変わった。赤く、青く、金色に。その度に表情が違う顔に見えた。光の色が変わるたびに、別の感情が顔に乗るみたいだった。

 その横顔が、今まで見た中で一番きれいだった。

 そして今まで見た中で、一番寂しかった。

 きれいさと寂しさが、同じ顔に同時にあった。それはたぶん、花火のせいだけじゃなかった。結衣自身が、そういう人だった。きれいで、寂しい。閉じ込められたビー玉みたいに。

 花火を見ながら、結衣の目に何かが光った。

 涙ではないかもしれない。花火の光が目に映っているだけかもしれない。でも蓮には、涙に見えた。こらえているわけじゃない、ただそこにある、という感じの光だった。

「結衣」

「きれいだね」

結衣は言った。空を見たまま言った。

「やっぱり花火は、一人で見るより、誰かと見る方がいい」

「うん」

「蓮と見られてよかった」

 その言葉の重さが、花火の音の中で落ちてきた。

 「やっぱり」という言葉。また見よう、じゃなくて、見られてよかった、という過去形。

 来年も一緒に見よう、じゃない。今年、見られてよかった。

 その言い方が。

 その言い方だけが。

 蓮の胸の奥に、冷たい予感として落ちた。

 花火の音が大きくなった。クライマックスが近づいている。一発ずつだったのが、連続して上がり始めた。ドン、ドン、ドン。間隔が短くなって、空が絶えず色を帯びた。

 蓮は結衣の手を見た。

 砂の上に置かれた手。膝の横で、砂に少し埋もれている。

 触れようとして、止まった。

 触れたら何かが変わる気がした。触れることで、今夜の何かが確定してしまう気がした。

 今夜は、このままでいたい気がした。

 隣に結衣がいて、花火が上がっていて、波の音がしている。それだけで十分な夜だと思いたかった。

 花火が続いた。

 音が夜空に響いた。光が散って、消えた。また上がった。また散った。

 クライマックスの連続音が、砂浜を揺らした。

 蓮はその音を聞きながら、「見られてよかった」という結衣の声が、花火の音よりずっと大きく、耳の奥で鳴り続けていた。

 まるで花火の音が、嘘みたいに遠かった。

「本当にいる感じがする」。一人のときは、いても、いないようだったのだと。過去形で言われた「見られてよかった」と、触れられなかった手。

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