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きみがいた夏は、もう終わらない  作者: Noct


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12/21

第五章 だって蓮は、もうあの夏の人じゃないから

話すと決めた夜です。波の音だけが、続いています。

 花火が終わった後、二人は砂浜に残っていた。

 最後の花火が上がって、音が消えて、光が散り切ったあとも、蓮は立ち上がらなかった。結衣も立ち上がらなかった。二人並んで、砂の上に座ったまま、夜の海を見ていた。

 人が帰り始めた。

 砂浜にいた人たちが、少しずつ減っていった。子供を抱いた父親が通り過ぎた。浴衣の女性が二人、笑いながら歩いていった。屋台の明かりが遠ざかっていった。声が遠ざかっていった。

 やがて、波の音だけが大きくなった。

 夜の海は暗くて、波打ち際だけが白く光っていた。打ち寄せるたびに白い泡が広がって、引いていく。その繰り返しだけが、夜の海に動いていた。空には星があった。花火の煙が少し残っていて、星の輪郭がわずかにぼやけていた。

「話すね」

結衣が言った。

「うん」

「……どこから話せばいいんだろ」

「どこからでもいい」

 結衣が膝を抱えた。

 浴衣の裾が砂についていた。膝を抱えて、少し体を小さくして、波を見ながら話し始めた。

 ゆっくりと。一言ずつ確かめるように。

「私ね、五年前の夏からここにいるんだよ」

「五年前の夏」

「うん。蓮が東京に行った夏。あの夏からずっと、ここにいる」

「ここって、この町?」

「この町の、夏の中に」

結衣は言った。

「秋にはなれない。冬にもなれない。夏の中だけにいる」

 波が来た。砂浜を濡らして、返った。

 蓮は波を見ながら、結衣の言葉を受け取っていた。受け取りながら、頭の中でゆっくりと整理していた。五年前の夏からここにいる。秋にはなれない。夏の中だけ。

「それって」

「おかしいよね」

結衣は言った。

「自分でも、おかしいと思う。でも、そういうことなんだよ」

 おかしいと思う、と自分で言える。それは自分の状況を外から見られているということだ。感情に流されているわけじゃない。ただ、そういうことなんだ、と知っている。

「なんで夏の中だけに?」

 結衣は少し間を置いた。

 波の音が一回、二回。

「約束が、残ってたから」

「海の約束」

「うん。蓮と一緒に海を見るって。それが終わってなかったから、終われなかった」

 波が来た。砂浜を濡らして、返った。

「終われなかった」

蓮は繰り返した。

 その言葉が、頭の中に沈んでいった。

 終われなかった。約束が残っていたから。果たされていない約束があったから、次へ行けなかった。

「それって」

「蓮は分かってるよね」

結衣は静かに言った。

「なんとなく、分かってるんでしょ」

 蓮は答えなかった。

 分かっていた。

 分かっていて、言葉にしたくなかった。言葉にすれば確定する。確定したら、この夏が変わる。結衣との時間が、違う意味を持ってしまう。それが怖くて、ずっと言葉にしないでいた。

 でも。

「五年前に」

蓮はやっと言った。

「何があったの」

 結衣が波を見た。

 浴衣の袖が風に揺れた。

「……事故だよ」

波を見たまま言った。

「蓮が東京に行った、その年の秋に。自転車で、車と」

 蓮は動けなかった。

 秋。

 蓮が東京へ出発したのが夏の終わりで、秋になって、新しい生活が少しずつ動き出していた頃。大学の授業が始まって、知らない街を少しずつ覚えていた頃。汐崎のことを、だんだん考えなくなっていた頃。

「ひどい事故じゃなかったんだよ」

結衣は続けた。

「でも、頭を打って。そのまま」

 波の音だけが続いた。

 砂浜に、風が来た。夜の潮風が髪を揺らした。蓮はそれを感じながら、体が動かなかった。

「俺は知らなかった」

蓮はやっと言った。

「知らせなかったから」

「誰が」

「お母さん、かな。蓮が東京でちゃんとやり始めた頃だったから。知らせたら、蓮が帰ってきちゃうって思ったんじゃないかな」

 そうか、と蓮は思った。

 全部繋がった。

 母が「元気そうだった?」と聞いて、話を止めたこと。縁側で「聞きたくないんでしょ」と言ったこと。「聞いたら、どうなる」という問いに答えなかったこと。全部、知っていたからだった。知っていて、蓮が自分で気づくのを待っていた。

「結衣」

蓮は言った。

 声が少し揺れた。

「ごめん」

「蓮は何も悪くないよ」

「でも」

「でも何も」

結衣は蓮を向いた。

「蓮は、ちゃんと生きてたじゃない。東京で、ちゃんと」

 蓮は結衣の顔を見た。

 笑っていた。

 いつもの笑顔だったが、今夜の笑顔は少し違った。今まで隠れていたものが、全部出てきたみたいな笑顔だった。隠す必要がなくなったから、全部見せている笑顔。

「でも」

蓮は言った。

「結衣は」

「私は、ここにいられてよかった。蓮が帰ってきてくれるまで、ここにいられて」

「……それは」

 言葉が続かなかった。

 よかった、と結衣は言った。五年間ここにいることが、よかった。待てたことが、よかった。蓮が帰ってきたから、よかった。

 その「よかった」を、どう受け取ればいいのか。

「ねえ蓮」

結衣が言った。

「怒らないでほしいんだけど」

「何が」

「私が言うことに」

「言ってみて」

 結衣が波を見た。

 少しの間があった。波が二回来て、返った。

「……だって蓮は、もうあの夏の人じゃないから」

 蓮は息をのんだ。

「あの夏の蓮と、今の蓮は、違う。五年分、蓮は生きてきた。仕事して、色んな人に会って、色んなことを経験して。私はそれを何も知らない」

「知らなくていい」

「でも」

結衣は続けた。静かに、でも確かな声で。

「私が知ってる蓮と、今の蓮が、少しずつずれてる。それが、悲しいとか寂しいとかじゃなくて」

「じゃあ何?」

「……当たり前のことだなって、思って」

 結衣は言った。

「蓮が変わったのは、蓮がちゃんと生きてきた証拠だから。それを悲しんだら、おかしい」

 蓮は何も言えなかった。

 当たり前のことだ、と結衣は言った。五年間の変化を、置いていかれたことを、悲しまない。蓮が変わったのは蓮が生きた証拠だから、それを悲しんだらおかしいと言う。

 どうしてそんなふうに言えるのか。

 どうしてそんなふうに、受け取れるのか。

「でも」

結衣の声が少し揺れた。

 初めてだった。

 今夜、初めて結衣の声が揺れた。

「あの夏の蓮のことが、好きだったんだよ。ずっと」

 波が来た。

 今度は少し大きい波で、砂浜を長く濡らした。泡が広がって、二人の座っている場所の手前まで来て、引いていった。

「俺も」

蓮は言った。

「ずっと、結衣のことが好きだった」

 言いながら、喉が痛かった。

 好きだった。過去形で言うしかない言葉だった。今も、という言い方をしたかった。でも今も、と言える状況じゃないことを、二人とも分かっていた。

「知ってた」

結衣は言った。

「なんで」

「なんとなく」

結衣は笑った。

「でも言えなかったよね、二人とも」

「うん」

「不器用だよね」

「そうだな」

 二人で少し笑った。

 笑って、また波を見た。

 笑えることが、不思議だった。こんな話をしているのに、笑える。でも笑えた。結衣と話していると、どんな話でも最後に笑える場所がある。それは昔からそうだった。

 夜の海は暗かった。

 でも遠くに、灯台の光が見えた。

 一定のリズムで点滅していた。消えて、光って、消えて、光って。どんな夜でも、嵐の夜でも、そのリズムは変わらない。

「灯台って」

蓮は言った。

「いつも同じリズムで光るんだな」

「うん」

結衣は灯台を見た。

「目印だから。変わったら、迷子になるから」

「……そうだな」

 蓮は灯台を見ながら、結衣のことを思った。

 結衣はここにいた。五年間、ここにいた。変わらないまま、ここにいた。それは灯台みたいだった、と蓮は思った。蓮が戻ってこられるように、同じ場所で光っていた。

「結衣」

「うん」

「帰ってきてよかった」

 結衣は少しの間、黙っていた。

 それから「うん」と言った。

 一言だけだったが、その一言に全部が入っていた。

 波が続いた。灯台が光り続けた。夏の夜が、静かに深くなっていった。

変わったことを、悲しまない。置いていかれた側の、静かな優しさでした。灯台の光は、迷わないように同じリズムで光ります。

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