第五章 だって蓮は、もうあの夏の人じゃないから
話すと決めた夜です。波の音だけが、続いています。
花火が終わった後、二人は砂浜に残っていた。
最後の花火が上がって、音が消えて、光が散り切ったあとも、蓮は立ち上がらなかった。結衣も立ち上がらなかった。二人並んで、砂の上に座ったまま、夜の海を見ていた。
人が帰り始めた。
砂浜にいた人たちが、少しずつ減っていった。子供を抱いた父親が通り過ぎた。浴衣の女性が二人、笑いながら歩いていった。屋台の明かりが遠ざかっていった。声が遠ざかっていった。
やがて、波の音だけが大きくなった。
夜の海は暗くて、波打ち際だけが白く光っていた。打ち寄せるたびに白い泡が広がって、引いていく。その繰り返しだけが、夜の海に動いていた。空には星があった。花火の煙が少し残っていて、星の輪郭がわずかにぼやけていた。
「話すね」
結衣が言った。
「うん」
「……どこから話せばいいんだろ」
「どこからでもいい」
結衣が膝を抱えた。
浴衣の裾が砂についていた。膝を抱えて、少し体を小さくして、波を見ながら話し始めた。
ゆっくりと。一言ずつ確かめるように。
「私ね、五年前の夏からここにいるんだよ」
「五年前の夏」
「うん。蓮が東京に行った夏。あの夏からずっと、ここにいる」
「ここって、この町?」
「この町の、夏の中に」
結衣は言った。
「秋にはなれない。冬にもなれない。夏の中だけにいる」
波が来た。砂浜を濡らして、返った。
蓮は波を見ながら、結衣の言葉を受け取っていた。受け取りながら、頭の中でゆっくりと整理していた。五年前の夏からここにいる。秋にはなれない。夏の中だけ。
「それって」
「おかしいよね」
結衣は言った。
「自分でも、おかしいと思う。でも、そういうことなんだよ」
おかしいと思う、と自分で言える。それは自分の状況を外から見られているということだ。感情に流されているわけじゃない。ただ、そういうことなんだ、と知っている。
「なんで夏の中だけに?」
結衣は少し間を置いた。
波の音が一回、二回。
「約束が、残ってたから」
「海の約束」
「うん。蓮と一緒に海を見るって。それが終わってなかったから、終われなかった」
波が来た。砂浜を濡らして、返った。
「終われなかった」
蓮は繰り返した。
その言葉が、頭の中に沈んでいった。
終われなかった。約束が残っていたから。果たされていない約束があったから、次へ行けなかった。
「それって」
「蓮は分かってるよね」
結衣は静かに言った。
「なんとなく、分かってるんでしょ」
蓮は答えなかった。
分かっていた。
分かっていて、言葉にしたくなかった。言葉にすれば確定する。確定したら、この夏が変わる。結衣との時間が、違う意味を持ってしまう。それが怖くて、ずっと言葉にしないでいた。
でも。
「五年前に」
蓮はやっと言った。
「何があったの」
結衣が波を見た。
浴衣の袖が風に揺れた。
「……事故だよ」
波を見たまま言った。
「蓮が東京に行った、その年の秋に。自転車で、車と」
蓮は動けなかった。
秋。
蓮が東京へ出発したのが夏の終わりで、秋になって、新しい生活が少しずつ動き出していた頃。大学の授業が始まって、知らない街を少しずつ覚えていた頃。汐崎のことを、だんだん考えなくなっていた頃。
「ひどい事故じゃなかったんだよ」
結衣は続けた。
「でも、頭を打って。そのまま」
波の音だけが続いた。
砂浜に、風が来た。夜の潮風が髪を揺らした。蓮はそれを感じながら、体が動かなかった。
「俺は知らなかった」
蓮はやっと言った。
「知らせなかったから」
「誰が」
「お母さん、かな。蓮が東京でちゃんとやり始めた頃だったから。知らせたら、蓮が帰ってきちゃうって思ったんじゃないかな」
そうか、と蓮は思った。
全部繋がった。
母が「元気そうだった?」と聞いて、話を止めたこと。縁側で「聞きたくないんでしょ」と言ったこと。「聞いたら、どうなる」という問いに答えなかったこと。全部、知っていたからだった。知っていて、蓮が自分で気づくのを待っていた。
「結衣」
蓮は言った。
声が少し揺れた。
「ごめん」
「蓮は何も悪くないよ」
「でも」
「でも何も」
結衣は蓮を向いた。
「蓮は、ちゃんと生きてたじゃない。東京で、ちゃんと」
蓮は結衣の顔を見た。
笑っていた。
いつもの笑顔だったが、今夜の笑顔は少し違った。今まで隠れていたものが、全部出てきたみたいな笑顔だった。隠す必要がなくなったから、全部見せている笑顔。
「でも」
蓮は言った。
「結衣は」
「私は、ここにいられてよかった。蓮が帰ってきてくれるまで、ここにいられて」
「……それは」
言葉が続かなかった。
よかった、と結衣は言った。五年間ここにいることが、よかった。待てたことが、よかった。蓮が帰ってきたから、よかった。
その「よかった」を、どう受け取ればいいのか。
「ねえ蓮」
結衣が言った。
「怒らないでほしいんだけど」
「何が」
「私が言うことに」
「言ってみて」
結衣が波を見た。
少しの間があった。波が二回来て、返った。
「……だって蓮は、もうあの夏の人じゃないから」
蓮は息をのんだ。
「あの夏の蓮と、今の蓮は、違う。五年分、蓮は生きてきた。仕事して、色んな人に会って、色んなことを経験して。私はそれを何も知らない」
「知らなくていい」
「でも」
結衣は続けた。静かに、でも確かな声で。
「私が知ってる蓮と、今の蓮が、少しずつずれてる。それが、悲しいとか寂しいとかじゃなくて」
「じゃあ何?」
「……当たり前のことだなって、思って」
結衣は言った。
「蓮が変わったのは、蓮がちゃんと生きてきた証拠だから。それを悲しんだら、おかしい」
蓮は何も言えなかった。
当たり前のことだ、と結衣は言った。五年間の変化を、置いていかれたことを、悲しまない。蓮が変わったのは蓮が生きた証拠だから、それを悲しんだらおかしいと言う。
どうしてそんなふうに言えるのか。
どうしてそんなふうに、受け取れるのか。
「でも」
結衣の声が少し揺れた。
初めてだった。
今夜、初めて結衣の声が揺れた。
「あの夏の蓮のことが、好きだったんだよ。ずっと」
波が来た。
今度は少し大きい波で、砂浜を長く濡らした。泡が広がって、二人の座っている場所の手前まで来て、引いていった。
「俺も」
蓮は言った。
「ずっと、結衣のことが好きだった」
言いながら、喉が痛かった。
好きだった。過去形で言うしかない言葉だった。今も、という言い方をしたかった。でも今も、と言える状況じゃないことを、二人とも分かっていた。
「知ってた」
結衣は言った。
「なんで」
「なんとなく」
結衣は笑った。
「でも言えなかったよね、二人とも」
「うん」
「不器用だよね」
「そうだな」
二人で少し笑った。
笑って、また波を見た。
笑えることが、不思議だった。こんな話をしているのに、笑える。でも笑えた。結衣と話していると、どんな話でも最後に笑える場所がある。それは昔からそうだった。
夜の海は暗かった。
でも遠くに、灯台の光が見えた。
一定のリズムで点滅していた。消えて、光って、消えて、光って。どんな夜でも、嵐の夜でも、そのリズムは変わらない。
「灯台って」
蓮は言った。
「いつも同じリズムで光るんだな」
「うん」
結衣は灯台を見た。
「目印だから。変わったら、迷子になるから」
「……そうだな」
蓮は灯台を見ながら、結衣のことを思った。
結衣はここにいた。五年間、ここにいた。変わらないまま、ここにいた。それは灯台みたいだった、と蓮は思った。蓮が戻ってこられるように、同じ場所で光っていた。
「結衣」
「うん」
「帰ってきてよかった」
結衣は少しの間、黙っていた。
それから「うん」と言った。
一言だけだったが、その一言に全部が入っていた。
波が続いた。灯台が光り続けた。夏の夜が、静かに深くなっていった。
変わったことを、悲しまない。置いていかれた側の、静かな優しさでした。灯台の光は、迷わないように同じリズムで光ります。




