第六章 きみがいなかった日々を、俺は生きてきた
知らされなかった五年と、生きてきた五年。縁側の朝から始まります。
翌日、蓮は一人で実家にいた。
神社へ行く前に、少し考えたかった。
昨夜、砂浜で結衣から聞いた。事故のこと、秋のこと、五年前のこと。帰省してから積み上がってきた違和感が、昨夜全部の形を持った。分かってしまった。分かった後、どうするかをまだ整理できていない。
縁側に出て、庭を見た。
朝の庭だった。夏草が露に濡れていた。蜘蛛の巣が光を受けて輝いていた。あの古いブランコが、今日も錆びたまま草の向こうにあった。
五年間、結衣を知らないまま生きてきた。
大学で友達を作った。バイトをした。恋をした。うまくいかなくて、終わった。就職した。最初の半年は何度も失敗した。上司に怒られた。少しずつ仕事を覚えた。東京の地図が頭に入った。好きな店ができた。行きつけのラーメン屋ができた。眠れない夜があって、何でもない朝があって、それが積み重なって今の自分になった。
その全部を、結衣は知らない。
逆に言えば、結衣がいなかった五年間が、自分の中に積み重なっている。重さがある。厚みがある。その厚みを、昨夜初めて実感した。
生きてきた、ということ。時間が経った、ということ。
それは喜ばしいはずのことなのに、今日は少し、罪悪感として感じた。なぜ自分だけ進んでいたのか、という。なぜ自分だけ、秋になって、冬になって、また春になれたのか、という。
理不尽な罪悪感だと分かっている。
蓮は何も悪くない。何も知らなかった。知らなかったのは、知らせてもらえなかったからで、それも誰かを責めることじゃない。分かっている。でもそういう感情は、理屈では消えない。理屈で消えるなら、最初から罪悪感なんて生まれない。
蓮は縁側に腰を下ろして、庭を見ていた。
露が乾いていった。朝の光が強くなっていった。
*
縁側に出ると、しばらくして母が来た。
庭に水をやっていた。ホースを持って、夏草の根元に水を当てていた。蓮が来たのに気づいて、ホースを置いた。
母の顔を見た。
昨夜と同じ顔だった。知っていて、言えなかった人の顔。ずっとそれを持ってきた人の顔。
「話す?」
母が言った。
「話したかったんだと思う、お母さんは」蓮は言った。
「でも言えなかった」
「……ごめんね」
「怒ってない」
蓮は言った。
「ただ、知りたかった」
怒る気にはなれなかった。怒りが湧く場所が、見つからなかった。誰かを責めることで楽になれるなら、そうしたかった。でも責められる人間が、この話にはいなかった。
母がゆっくり縁側に腰を下ろした。蓮も横に座った。
庭の草に、さっきの水がまだ光っていた。
「結衣ちゃんが事故に遭ったのは、蓮が東京に行った年の十月だった」
母は言った。
「自転車で坂を下りてたところに、車が来て」
「ひどかった?」
「最初は軽傷だって言われてた」
母は少し間を置いた。
「でも三日後に、急に」
母が言葉を止めた。
鳥が鳴いていた。庭の木の向こうで、朝の鳥が鳴いていた。
「急に、意識が戻らなくなって。そのまま、十一月に」
蓮は庭を見た。
十一月。
秋の終わり。蓮が東京で新しい生活に馴染み始めた頃だった。大学の友人ができて、サークルに顔を出して、初めての一人暮らしに慣れてきた頃。東京の冬が来る前の、まだ秋の名残りがある頃。
その同じ時間に、結衣は逝っていた。
蓮が東京の街を歩いていたとき、結衣は汐崎の病院にいた。蓮が友人と飯を食っていたとき、結衣の家族は病院にいた。蓮が眠っていたとき、結衣の命が終わった。
同じ時間が、全然違う場所で流れていた。
「なんで言わなかったの」
蓮は聞いた。
責めているのではなかった。声に怒りはなかった。ただ、本当に知りたかった。理解したかった。なぜこの五年間、誰も何も言わなかったのかを。
「……言ったら、蓮が帰ってくると思って」
母は言った。
「大学辞めて、帰ってくると思って。それが怖かった」
「俺のために?」
「結衣ちゃんのためでもある」
母は続けた。
「結衣ちゃんのお母さんが、そう言ってたから。蓮くんには知らせないでほしい、って」
「結衣のお母さんが」
「蓮くんが戻ってきても、もう会えないんだから、って。それより東京でちゃんとやってほしい、って。結衣ちゃんの気持ちを、そういう形で伝えたかったんだと思う」
蓮は目を閉じた。
結衣のお母さんが、そう言った。
結衣の気持ちを、そういう形で。
蓮が戻ってきても会えない。だから知らせない。だから東京でちゃんとやってほしい。それが結衣の気持ちだと、結衣のお母さんは思った。
結衣の笑顔が浮かんだ。
「蓮は、ちゃんと生きてたじゃない」
という声が浮かんだ。
昨夜、砂浜で言った言葉。責めるでも嘆くでもなく、ただそれだけを確認した言葉。
結衣も、同じことを思っていた。
自分のことで蓮を呼び戻したくなかった。蓮の時間を、自分のために止めたくなかった。だから電話が繋がらなくても、メールを読んでもらえなくても、それ以上追いかけなかった。
そういう人だった。
そういう人だと知っていたのに、蓮は何も知らなかった。
「神社で会ってるんでしょ」
母が言った。
「蓮が来てから」
「うん」
「よかった」
母は言った。声が少し揺れた。
「会えてよかった。きっと結衣ちゃんも、ずっと待ってたんだと思うから」
ずっと待ってた。
その言葉が、朝の空気の中に広がった。
五年間。汐崎の夏の中に、ずっといた。スマホも持たず、誰にも会わず、毎日神社にいた。待っていた。蓮が帰ってくるのを。約束を覚えていてくれるのを。
帰ってきてくれた、と結衣は言った。ちゃんと、帰ってきてくれた、と。
「お母さん」
蓮は言った。
「結衣のお母さんは、今」
「元気にしてる」
母は言った。
「この町で、ちゃんと暮らしてる。結衣ちゃんのこと、大事に持ってる人だから」
蓮は頷いた。
いつか会いに行こうと思った。今すぐじゃなくていい。でも、会いに行こうと思った。
*
母が席を外した後、蓮は一人で縁側に残った。
庭の草が、風に揺れていた。ブランコが、揺れていなかった。錆びた鎖は、風の中でも動かなかった。
きみがいなかった日々を、俺は生きてきた。
それは事実だ。変えられない事実だ。五年間、結衣がいないまま時間が過ぎた。蓮は進んだ。結衣は進めなかった。その非対称が、この世界の事実だ。
でも。
でも、この夏、きみに会えた。
それもまた、事実だ。
五年かかったけれど、蓮は帰ってきた。結衣はここにいた。花火を一緒に見た。ラムネを飲んだ。石段に座って、空の話をした。ヒグラシの声を聞いた。雨の中で手を振った。
その全部が、嘘じゃない。
どんな形であれ、起きたことだ。
蓮は庭を見た。
朝の光が、草の露に当たって光っていた。一つ一つの露が、小さな鏡みたいに空を映していた。見る角度によって、映るものが変わる。同じ露なのに、光の当たり方で全然違う色に見える。
この夏をどう見るかも、きっとそういうことだと蓮は思った。
失ったことを見るか。
会えたことを見るか。
両方が本当で、どちらかが嘘じゃない。でも蓮は、会えたことの方を、大事にしたいと思った。
会えた夏だった。
結衣がいた夏だった。
それを、蓮はこれから先の時間の中に、ちゃんと持っていきたいと思った。
進めた人と、進めなかった人の非対称。理不尽な罪悪感は、理屈では消えません。それでも、露は見る角度で色が変わります。蓮は、会えた夏のほうを大事にすると決めました。




