第七章 この夏を終わらせることが、愛だとしたら
帰省の最終日の前日。終わらせるという選択について、話します。
十五日目。帰省の最終日の前日。
朝から空が高かった。
夏の終わりに近づくと、空の質が変わる。同じ青でも、深さが違う。入道雲の輪郭が少しだけ緩んで、空気が一ミリだけ澄んでくる。感覚的なものだから、誰かに説明できるわけじゃない。でも蓮には、今日の空が昨日の空と違う色をしているように見えた。
神社へ向かった。
坂を登りながら、明日のことを考えた。明日の午後には新幹線に乗る。東京へ帰る。二週間の帰省が終わる。職場の人間に「おかえり」と言われて、また毎日同じ時間に電車に乗る生活が始まる。
この夏に起きたことを、東京へ持って帰る。
どうやって持って帰るのかは、まだ分からなかった。でも持って帰るしかない。起きたことは、消えない。
鳥居をくぐった。
*
結衣はいた。
参道の中ほどに立っていた。いつもの場所。でも今日の結衣は、いつもより少し違って見えた。
透けている、というより、輪郭が柔らかい。
木漏れ日の中に立っているせいかもしれない。光と影の境界に立っているせいかもしれない。でも蓮には、存在が少し薄い気がした。昨日よりも、一昨日よりも。砂浜で話したあの夜から、何かが動き始めている感じがした。終わりに向かって、少しずつ動いている。
「来た」
結衣が言った。
「来た」
蓮は答えた。
二人で石段に座った。いつもの場所。今日で何度目だろうと蓮は思った。帰省してから毎日来て、毎日この石段に座った。最初の日から今日まで、ここがあった。この場所だけが変わらなかった。
「明日、帰るね」
蓮は言った。
「うん」
結衣は言った。
「帰る日、来たね」
来た、という言い方だった。来てしまった、でも、もうすぐ来る、でもなく、来たね、と。予測していたことが、予測通りに来た、という静かな受け取り方。
「結衣」
蓮は言った。
「海、まだ行ってない」
「……行こう?」
「行きたい。明日の朝、一緒に海を見て、それから俺は帰る」
結衣は蓮を見た。
何かを確かめるような目だった。蓮が本当に分かっているかを、確かめている目だった。海へ行くことが何を意味するか、蓮が理解した上で言っているかを。
「行ったら」
結衣は言った。
「終わるよ」
「うん」
「怖くない?」
蓮は少し考えた。
嘘をつきたくなかった。怖くない、と言えたら楽だった。でも怖かった。怖くないはずがなかった。
「怖い」
「それでも行く?」
「行く」
「……なんで?」
結衣の声が、少し揺れた。責めているんじゃない。本当に知りたくて、聞いている声だった。
蓮は石段に目を落とした。石畳の模様を見ながら、言葉を探した。
「終わらせることが」
蓮はゆっくり言った。
「結衣を自由にすることだと思うから」
結衣が蓮を見た。
「五年間、約束のせいでここにいた。それって、俺のせいでもある。俺が約束して、読まれなかったメールに気づかないで、電話も取らないで、それで結衣をここに縛り付けた」
「蓮のせいじゃない」
「でも」
蓮は続けた。
「俺が約束を果たせば、結衣は行けるだろ。次のところへ」
次のところ。
どこなのかは分からない。どんな場所なのかも。でも確かにそこがある。夏の外にある場所。秋があって、冬があって、また春になる場所。結衣がまだ行けていない場所。
結衣は何も言わなかった。
風が来た。木の葉が揺れた。
「行きたくない?」
蓮は聞いた。
「行きたくない、って言ったら?」
「それでも、行かせたい」
「冷たいな」
「冷たくない」
蓮は言った。
「ここにいる結衣より、次のところにいる結衣の方が、俺は好きだから」
結衣がまばたきした。
「好き、って」
「好きだよ。昨日も言った」
「……言ったね」
「だから、好きな人を縛り付けたくない」
蓮は言った。
「約束を果たして、ちゃんと送り出したい」
送り出したい、と声に出してみると、その言葉が自分の中でも初めて本物になった気がした。頭で理解していたことが、言葉にすることで体の中に降りてきた。
これが、今の蓮にできることだ。
結衣のためにできる、最後のことだ。
結衣はしばらく黙っていた。
膝の上で手を組んで、石畳を見ていた。木の葉が揺れた。風が来た。夏の終わりの、少し涼しい風。昼間でも、今日は少し違う温度があった。
「蓮」
「うん」
「私も、蓮のことが好きだよ。ずっと」
「うん」
「でも蓮が進んでいくのを、ちゃんと見たい。次の秋も、冬も、来年の春も。ここからは見えないけど、どこかから見てる」
「見ててくれ」
声が少し掠れた。
掠れたまま、でも蓮は続けた。
「どこにいても、見ててくれ」
「うん」
結衣は笑った。
今日の笑顔が、今まで見た中で一番完全な笑顔だった。
完全、というのは、何も欠けていないという意味じゃない。悲しみも寂しさも含んでいる。切なさも、後悔も、時間への惜しさも、全部含んでいる。それでも全部が一つになった笑顔。バラバラだったものが、ようやく一枚の絵になった笑顔。
「見てる」
その三文字が、石段から空へ向かって上がっていくみたいだった。
*
二人でしばらく、並んで座っていた。
何も話さなかった。
話す必要がなかった。全部はもう話した。言うべきことは言った。残っているのは、この時間だけだ。
蓮は空を見た。
夏の空が、高かった。
入道雲が白く立っていたが、今日は少し遠かった。空の端の方にあって、真上は青一色だった。澄んだ青。この夏で一番澄んだ青かもしれないと、蓮は思った。
この空の向こうに、結衣が行く。
どんな場所なのか分からない。でも秋のある場所だ。冬のある場所だ。季節が巡る場所だ。結衣がまだ知らない季節が待っている場所だ。
「夏の終わりの空、きれいだね」
結衣が言った。
「うん」
「蓮は、秋になったら何する?」
「仕事、する」
蓮は言った。
「あとは、分からない」
「食べ物は?」
「秋の食べ物?」
「うん。秋においしいもの」
蓮は少し笑った。
「松茸、食べたいけど高いな。芋とか栗とか」
「栗、好きだった」
結衣は言った。
「モンブランが好きで」
「モンブラン」
「うん。コンビニのやつでもおいしい」
「今年の秋、食べる」
蓮は言った。
「結衣の分も」
結衣が蓮を見た。
また笑った。今度の笑顔は、さっきより軽かった。重さが抜けた笑顔。
「食べてね」
「食べる」
それだけの約束だったが、蓮には大事な約束だった。
秋になったら、モンブランを食べる。結衣の分も。それだけのことで、結衣がどこかにいる気がする。見ていてくれる気がする。
「結衣」
蓮は言った。
「明日、ちゃんと来てくれよ」
「来るよ」
結衣は言った。
「最後まで、ちゃんといる」
最後まで。
その言葉の重さを、蓮は胸に収めた。
終わらせることが、愛だとしたら。
蓮はそれを選ぶ。迷わずに。怖くても。
怖くても、愛する人を自由にすることの方が、引き止め続けることより、ずっと大事だから。
木の葉が鳴った。
夏の風が、境内を抜けていった。
引き止めることだけが、愛ではない。怖くても送り出すと決めた、蓮の声が掠れていました。モンブランの約束は、小さくて、大事な約束です。




