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きみがいた夏は、もう終わらない  作者: Noct


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14/21

第七章 この夏を終わらせることが、愛だとしたら

帰省の最終日の前日。終わらせるという選択について、話します。

 十五日目。帰省の最終日の前日。

 朝から空が高かった。

 夏の終わりに近づくと、空の質が変わる。同じ青でも、深さが違う。入道雲の輪郭が少しだけ緩んで、空気が一ミリだけ澄んでくる。感覚的なものだから、誰かに説明できるわけじゃない。でも蓮には、今日の空が昨日の空と違う色をしているように見えた。

 神社へ向かった。

 坂を登りながら、明日のことを考えた。明日の午後には新幹線に乗る。東京へ帰る。二週間の帰省が終わる。職場の人間に「おかえり」と言われて、また毎日同じ時間に電車に乗る生活が始まる。

 この夏に起きたことを、東京へ持って帰る。

 どうやって持って帰るのかは、まだ分からなかった。でも持って帰るしかない。起きたことは、消えない。

 鳥居をくぐった。

 *

 結衣はいた。

 参道の中ほどに立っていた。いつもの場所。でも今日の結衣は、いつもより少し違って見えた。

 透けている、というより、輪郭が柔らかい。

 木漏れ日の中に立っているせいかもしれない。光と影の境界に立っているせいかもしれない。でも蓮には、存在が少し薄い気がした。昨日よりも、一昨日よりも。砂浜で話したあの夜から、何かが動き始めている感じがした。終わりに向かって、少しずつ動いている。

「来た」

結衣が言った。

「来た」

蓮は答えた。

 二人で石段に座った。いつもの場所。今日で何度目だろうと蓮は思った。帰省してから毎日来て、毎日この石段に座った。最初の日から今日まで、ここがあった。この場所だけが変わらなかった。

「明日、帰るね」

蓮は言った。

「うん」

結衣は言った。

「帰る日、来たね」

 来た、という言い方だった。来てしまった、でも、もうすぐ来る、でもなく、来たね、と。予測していたことが、予測通りに来た、という静かな受け取り方。

「結衣」

蓮は言った。

「海、まだ行ってない」

「……行こう?」

「行きたい。明日の朝、一緒に海を見て、それから俺は帰る」

 結衣は蓮を見た。

 何かを確かめるような目だった。蓮が本当に分かっているかを、確かめている目だった。海へ行くことが何を意味するか、蓮が理解した上で言っているかを。

「行ったら」

結衣は言った。

「終わるよ」

「うん」

「怖くない?」

 蓮は少し考えた。

 嘘をつきたくなかった。怖くない、と言えたら楽だった。でも怖かった。怖くないはずがなかった。

「怖い」

「それでも行く?」

「行く」

「……なんで?」

 結衣の声が、少し揺れた。責めているんじゃない。本当に知りたくて、聞いている声だった。

 蓮は石段に目を落とした。石畳の模様を見ながら、言葉を探した。

「終わらせることが」

蓮はゆっくり言った。

「結衣を自由にすることだと思うから」

 結衣が蓮を見た。

「五年間、約束のせいでここにいた。それって、俺のせいでもある。俺が約束して、読まれなかったメールに気づかないで、電話も取らないで、それで結衣をここに縛り付けた」

「蓮のせいじゃない」

「でも」

蓮は続けた。

「俺が約束を果たせば、結衣は行けるだろ。次のところへ」

 次のところ。

 どこなのかは分からない。どんな場所なのかも。でも確かにそこがある。夏の外にある場所。秋があって、冬があって、また春になる場所。結衣がまだ行けていない場所。

 結衣は何も言わなかった。

 風が来た。木の葉が揺れた。

「行きたくない?」

蓮は聞いた。

「行きたくない、って言ったら?」

「それでも、行かせたい」

「冷たいな」

「冷たくない」

蓮は言った。

「ここにいる結衣より、次のところにいる結衣の方が、俺は好きだから」

 結衣がまばたきした。

「好き、って」

「好きだよ。昨日も言った」

「……言ったね」

「だから、好きな人を縛り付けたくない」

蓮は言った。

「約束を果たして、ちゃんと送り出したい」

 送り出したい、と声に出してみると、その言葉が自分の中でも初めて本物になった気がした。頭で理解していたことが、言葉にすることで体の中に降りてきた。

 これが、今の蓮にできることだ。

 結衣のためにできる、最後のことだ。

 結衣はしばらく黙っていた。

 膝の上で手を組んで、石畳を見ていた。木の葉が揺れた。風が来た。夏の終わりの、少し涼しい風。昼間でも、今日は少し違う温度があった。

「蓮」

「うん」

「私も、蓮のことが好きだよ。ずっと」

「うん」

「でも蓮が進んでいくのを、ちゃんと見たい。次の秋も、冬も、来年の春も。ここからは見えないけど、どこかから見てる」

「見ててくれ」

 声が少し掠れた。

 掠れたまま、でも蓮は続けた。

「どこにいても、見ててくれ」

「うん」

結衣は笑った。

 今日の笑顔が、今まで見た中で一番完全な笑顔だった。

 完全、というのは、何も欠けていないという意味じゃない。悲しみも寂しさも含んでいる。切なさも、後悔も、時間への惜しさも、全部含んでいる。それでも全部が一つになった笑顔。バラバラだったものが、ようやく一枚の絵になった笑顔。

「見てる」

 その三文字が、石段から空へ向かって上がっていくみたいだった。

 *

 二人でしばらく、並んで座っていた。

 何も話さなかった。

 話す必要がなかった。全部はもう話した。言うべきことは言った。残っているのは、この時間だけだ。

 蓮は空を見た。

 夏の空が、高かった。

 入道雲が白く立っていたが、今日は少し遠かった。空の端の方にあって、真上は青一色だった。澄んだ青。この夏で一番澄んだ青かもしれないと、蓮は思った。

 この空の向こうに、結衣が行く。

 どんな場所なのか分からない。でも秋のある場所だ。冬のある場所だ。季節が巡る場所だ。結衣がまだ知らない季節が待っている場所だ。

「夏の終わりの空、きれいだね」

結衣が言った。

「うん」

「蓮は、秋になったら何する?」

「仕事、する」

蓮は言った。

「あとは、分からない」

「食べ物は?」

「秋の食べ物?」

「うん。秋においしいもの」

 蓮は少し笑った。

「松茸、食べたいけど高いな。芋とか栗とか」

「栗、好きだった」

結衣は言った。

「モンブランが好きで」

「モンブラン」

「うん。コンビニのやつでもおいしい」

「今年の秋、食べる」

蓮は言った。

「結衣の分も」

 結衣が蓮を見た。

 また笑った。今度の笑顔は、さっきより軽かった。重さが抜けた笑顔。

「食べてね」

「食べる」

 それだけの約束だったが、蓮には大事な約束だった。

 秋になったら、モンブランを食べる。結衣の分も。それだけのことで、結衣がどこかにいる気がする。見ていてくれる気がする。

「結衣」

蓮は言った。

「明日、ちゃんと来てくれよ」

「来るよ」

結衣は言った。

「最後まで、ちゃんといる」

 最後まで。

 その言葉の重さを、蓮は胸に収めた。

 終わらせることが、愛だとしたら。

 蓮はそれを選ぶ。迷わずに。怖くても。

 怖くても、愛する人を自由にすることの方が、引き止め続けることより、ずっと大事だから。

 木の葉が鳴った。

 夏の風が、境内を抜けていった。

引き止めることだけが、愛ではない。怖くても送り出すと決めた、蓮の声が掠れていました。モンブランの約束は、小さくて、大事な約束です。

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