第三部 もう終わらない 第一章 神社の風鈴が、最後の夏を鳴らした
最後の朝です。風鈴は、いつからそこにあったのでしょう。
帰省の最終日の朝が来た。
目が覚めたとき、空はまだ薄明るかった。五時半くらいだろうか。カーテンの隙間から、青白い光が差し込んでいた。夏の夜明けの光だ。昼間の白さとは違う、まだ世界が目を覚ます前の、静かな青。
蓮は布団の中で天井を見ていた。
木目のある天井。子供の頃から見ていた天井。節の形が雲に見えると思っていた節が、今日も同じ場所にあった。この家に帰ってきて最初の夜も、この天井を見た。あの夜から二週間経った。
今日、海へ行く。
結衣と一緒に。約束を果たす。そして結衣を送り出す。
頭の中でそれを並べると、整然として見えた。順序があって、意味があって、まるで計画みたいに見えた。でも胸の中は整然としていなかった。何かが渦を巻いていた。悲しみとも、覚悟とも、愛情とも、後悔とも違う、名前のない感情が。全部が混ざって、でも一つにはならなくて、渦のままそこにあった。
それでいいと思った。
名前をつけなくていい感情もある。
起き上がった。
荷物はほとんど昨日のうちにまとめてある。新幹線は午後二時の便だ。午前中に海へ行って、昼前に戻れば間に合う。着替えながら、窓の外を見た。東の空が、少しずつ色を変えていた。青から橙へ。夜から朝への移行。雲の端が赤みを帯びて、それが少しずつ広がっていく。
毎日繰り返される当たり前のことが、今日は特別に見えた。
最後の朝だから、とは思いたくなかった。でも特別に見えた。
*
神社には、行くつもりはなかった。
直接海へ行こうと思っていた。結衣と待ち合わせる場所は決めていなかったが、昨日「明日、海へ行こう」と言ったとき、結衣は「うん」と言った。それだけで十分な気がした。海へ行けば、結衣はいる。そういう確信があった。
でも坂を下りながら、足が自然に神社の方向へ向いた。
意識して向けたわけじゃなかった。体が覚えていた。二週間、毎日登った坂。毎日通った鳥居。それが最後の日にも、体を引っ張っていった。
引き寄せられるみたいに、鳥居をくぐった。
参道は朝の光の中にあった。
昼間とは違う光の角度だった。東から差し込む朝の光が、参道を横から照らしていた。石畳が露に濡れていた。踏むと、かすかに湿った感触があった。木々の葉が朝の風に揺れていた。葉の揺れる音が、境内に静かに満ちていた。
風鈴の音がした。
ちりん、と。
拝殿の軒先に、一つだけ風鈴が下がっていた。ガラスの風鈴だった。透明なガラスに、薄い青が入っていた。短冊が白かった。風が来るたびに、ちりん、と鳴った。その音が境内に広がって、木々の間に消えた。
いつからあったのか、蓮は知らなかった。
帰省してから毎日来ていたのに、今日初めて気づいた。見えていなかったのか、なかったのか。どちらとも判断できなかった。
あるいは、今日だけある、ということかもしれない。
最後の日だけ、この音が鳴る。そういうことかもしれない。蓮はその考えを、否定しなかった。
*
結衣はいた。
風鈴の下に立っていた。
少し上を向いて、目を閉じていた。風が来るたびに風鈴が鳴って、結衣の髪が揺れた。白い朝の光の中に立っていた。今日の結衣は、光と同じ色をしているみたいだった。
蓮が近づくと、目を開けた。
「来た」
「来たよ」
「早いね」
「眠れなかった」
「私も」
結衣が笑った。
「眠れないって、久しぶりに思った。ちゃんと、ここにいる感じがして」
「ちゃんとここにいるよ」
「うん」
結衣は風鈴を見た。
「この音、好きなんだよね」
「いつからあるの?」
「さあ」
結衣は首を傾けた。
「気がついたらあった」
それがこの神社の答え方みたいだと蓮は思った。いつからあるか分からない。気がついたらあった。結衣自身も、そういう在り方をしていた。いつからそこにいるか分からない。気がついたらそこにいた。
風が来た。
風鈴が鳴った。
ちりん、という音が参道に広がって、木々の葉を揺らして、消えた。
音が消えた後の静けさが、また濃くなった。
「行こうか」
蓮は言った。
「うん」
結衣が歩き始めた。蓮も並んで歩いた。
参道を抜けていくとき、蓮は一度立ち止まって、周りを見た。石畳、古い木、拝殿の屋根、葉の隙間から見える朝の空。二週間、毎日来た場所。
ここで結衣に会った。
石段に並んで、雲の話をした。ラムネを飲んだ。てんとう虫の話を聞いた。ヒグラシの声を一緒に聞いた。夕立が来て、結衣が「早く帰りな」と言って手を振った。
全部、ここにあった。
鳥居をくぐるとき、蓮は振り返った。
風鈴が、また鳴っていた。
ちりん。
最後の夏の音がした。
*
朝の道は静かだった。
人がほとんどいなかった。商店街のシャッターは閉まっていた。朝早い時間で、どの店もまだ開いていない。たまに散歩している老人が通り過ぎた。新聞配達のバイクが一台、遠くで音を立てた。それだけだった。
坂道を下りると、海の匂いがした。
潮の匂い。子供の頃から知っている匂い。汐崎に帰ってきたとき、駅を出ると必ずこの匂いがした。この匂いを嗅ぐたびに、ここに戻ってきたと感じた。今日は特に濃かった。朝の空気が湿っていて、潮が混じって、二週間の全部がこの匂いの中に入っているみたいだった。
「朝の海、好き?」
結衣が聞いた。
「あまり来たことないけど」
蓮は答えた。
「でも今日は好きな気がする」
「夕方と全然違うよ。人がいなくて、海が全部自分のもの、みたいな感じがする」
「贅沢だな」
「うん、贅沢」
結衣が少し笑った。歩きながらの笑顔が、朝の光の中で柔らかかった。影のない笑顔だった。悲しみも寂しさも今日はなくて、ただ柔らかい笑顔だった。
蓮は結衣の横顔を見た。
今日の結衣は、昨日よりさらに少し薄い気がした。
輪郭が、朝の光に溶けているみたいだった。朝の空気と結衣の境界が、どこにあるのか分からないような。でも確かにそこにいた。声があった。笑顔があった。歩く足音がした。砂利を踏む音がした。
まだここにいる。
蓮はそれを確かめながら、並んで歩いた。
海が近づいていた。
波の音が少しずつ大きくなっていった。朝の海の音。夜とも夕方とも違う、朝の海の音。静かで、広くて、始まりの音がした。
「着いたら」
結衣が言った。
「しばらく黙って見ていたい」
「うん」
「蓮も?」
「俺も」
二人で並んで、朝の道を歩いた。
海がすぐそこにあった。
名前をつけなくていい感情もあります。「気がついたらあった」。それは、この神社の答え方であり、結衣の在り方でもありました。




