第二章 もう一度だけ、あの場所へ連れていってほしい
朝の海を、裸足で歩きます。
海に着いた。
朝の海は、静かだった。
夜から昼へ変わる途中の、まだ世界が動き出す前の静けさ。波は穏やかで、白い泡が砂浜の端まで来て、静かに引いていく。沖の方までよく見えた。水平線が、空と海の境目にくっきりと引かれていた。その線が今日は真っすぐで、揺れていなかった。
朝の光が水面に当たって、きらきらと揺れていた。
夕方の光とは違う輝き方だった。夕方の光は橙色で、海が燃えているみたいに見える。朝の光は白くて、海が目を覚ましたばかりみたいに見える。同じ海が、光の色によってこれほど違う顔を持つ。
砂浜には人影がなかった。
足跡もほとんどない。夜の波に洗われた砂が、真っさらな状態で広がっていた。一番乗りに近い感じがした。誰のものでもない朝の海。結衣の言っていた「海が全部自分のもの、みたいな感じ」が、ここへ来てすぐに分かった。
結衣が砂浜に出た。
立ち止まって、靴を脱いだ。サンダルを手に持って、裸足で砂を踏んだ。
「冷たい」
と言った。
驚いたような声だった。
「朝の砂は冷たいんだな」
「夕方は熱いのにね。同じ砂なのに」
同じ砂が、朝は冷たくて夕方は熱い。昼間の太陽を吸収するから夕方は熱い。夜の間に冷えるから朝は冷たい。それだけのことなのに、結衣が言うと何か別の話みたいに聞こえた。
同じものが、時間によって全然違う顔を持つ。
結衣も、そういうことを言っているのかもしれなかった。
結衣が波打ち際に向かって歩いた。裸足で砂を踏みながら、少しずつ海に近づいた。蓮も靴を脱いで、後を追った。砂が足の指の間に入った。朝の砂の、冷たい感触。
波が来た。
足元を濡らした。
海水は冷たかった。夏なのに、朝の海は冷たかった。夏の海は温かいものだと思っていたのに、朝来ると全然違う。体が一瞬だけ驚いて、すぐに慣れた。
「気持ちいい」
結衣が言った。
「うん」
「来てよかった」
「来てよかった」
二人が同じ言葉を言って、少し笑った。
示し合わせたわけじゃない。でも同じ言葉が出た。同じ場所に立って、同じ海を見て、同じことを思った。その偶然が、今朝の二人には自然だった。
波が来るたびに、足が砂に沈んだ。波が返るたびに、砂が足の下を流れて、また少し沈んだ。その繰り返しが心地よかった。流されているのか、沈んでいるのか、根を下ろしているのか、分からない感覚。でも悪くなかった。
*
「ねえ蓮」
結衣が言った。
「うん」
「もう一個だけ、お願いしてもいい?」
「何でも」
即答した。考えなかった。何でも、と言った。この朝、この場所で結衣が何を言っても、断れないと思った。断りたくないと思った。
「あの岩場まで、連れていってほしい」
蓮は少し先を見た。
砂浜が途切れて、黒い岩が海に張り出している場所。岩場。潮が引くと、岩の間に潮溜まりができる。子供の頃、あの岩の上で魚を探した。岩の隙間に指を突っ込んで、蟹を捕まえようとした。
結衣と一緒に行ったことがある。何度も行った。
「行こう」
蓮は言った。
*
砂浜を歩いた。
砂が足に絡んで、歩きにくかった。でかい荷物を持っているわけじゃないのに、砂浜を歩くのは体力がいる。足を上げるたびに砂が抵抗する。それでも悪くなかった。この抵抗が、今朝の歩き方には合っていた。
岩場が近づいた。
黒い岩が朝の光を受けて、表面が濡れたように光っていた。潮溜まりがいくつかあって、中に小さな生き物が見えた。海藻が揺れていた。岩の隙間に、小さな貝がついていた。
結衣がしゃがんだ。
一番大きな潮溜まりを覗き込んだ。
「カニ」
結衣が言った。
「ちっちゃい」
蓮も覗いた。確かにいた。小さな蟹が、岩の影でじっとしていた。透明に近い体で、目だけが黒かった。
「子供の頃もこういうの見てたな」
「見てた。蓮が捕まえようとして、岩に挟んで泣いてた」
「泣いてない」
「泣いてたよ」
結衣が笑った。
「指を挟まれて、痛い痛いって。私が貝殻で掻き出してあげた」
「……覚えてる」
蓮は言った。
「そういえば、そんなことがあった」
言いながら、記憶が戻ってきた。
あの夏、あの岩場で。蟹を捕まえようとして指を挟まれた。痛くて声が出た。結衣が近くにいた貝殻を使って、蟹をそっと外してくれた。泣いてない、と言いたいが、確かに少し泣いていたかもしれない。
「ちゃんと覚えてたんだ」
「今思い出した」
「今思い出したのか」
結衣はまた笑った。
「都合がいいな」
「都合よくない。本当に今思い出した」
こういう軽口が、最初の日から変わらなかった。石段に座って、てんとう虫の話をしていたときから。昨夜、砂浜で真実を話したあとも、こういう会話ができた。重い話の隣に、軽い笑いがある。それが二人の間の、ずっとある何かだった。
*
結衣が立ち上がった。
岩場の先端に向かって歩き始めた。蓮もついていった。岩の上を歩くのは、足の置き場所を確認しながら歩く。濡れた岩は滑る。子供の頃は何も考えずに走っていたのに、大人になると慎重になる。
岩場の先端に出た。
海が広がった。
砂浜から見るより、ずっと広く見えた。岩場の分だけ海に張り出しているから、水平線が遠かった。空と海の境目が、砂浜から見るより一回り遠くにあった。空も広かった。朝の空が、頭の上から水平線まで、ひとつながりに広がっていた。
「きれい」
結衣が言った。
声が、少し違った。
いつもの「きれいだね」じゃなかった。断定した言い方だった。きれい、と。それ以上の言葉がない、という感じの言い方。
「うん」
蓮は空と海の境目を見た。水平線。あの線の向こうに何があるのか、今日も分からない。でも何かがある。結衣が言った「次のところ」も、あの向こうかもしれない。そう思った。
「蓮」
「うん」
「ありがとう。連れてきてくれて」
「お礼を言うのは俺の方だ」
「なんで?」
「会えたから」
蓮は言った。
「また会えたから」
結衣がゆっくり蓮を向いた。
その顔が、今朝よりさらに少し薄かった。
輪郭が朝の光と混ざって、境界が分からなくなってきていた。それが怖かった。でも目は同じだった。最初の日から変わらない、澄んだ目。ここにある、という目。
「私もありがとう」
結衣は言った。
「帰ってきてくれて」
帰ってきてくれて。
その「くれて」が、今日は違う重さで届いた。五年間待っていた人の、最後の「くれて」だった。ありがとう、という言葉の中に、五年分の時間が入っていた。
蓮は何か言おうとした。
でも波が来た。
岩に当たって、飛沫が上がった。白い水しぶきが二人の足元を濡らした。潮の匂いが濃くなった。
言葉より先に、波が来た。
それでよかった、と蓮は思った。言葉にならないことは、波が代わりに言ってくれる。
二人は並んで、しばらく海を見ていた。
波が来た。飛沫が上がった。潮の匂いがした。
朝の海が、静かに続いていた。
同じ砂が、朝は冷たく、夕方は熱い。カニと貝殻の記憶に、言葉より先に波が来ました。ここでは、波が言葉の代わりをしています。




