第三章 約束の答えを、ずっと待ってたんだ
あの夏、聞こえなかった言葉の答え合わせです。
岩場から砂浜に戻って、二人は腰を下ろした。
砂が少し濡れていた。朝の波が届く場所と届かない場所の境目あたりに、並んで座った。波と空の間で、並んで座った。
まるで高校の最後の夏に戻ったみたいだった。
でも全然違った。
あのときは夕方だった。今は朝だ。あのときは二人とも、まだ何も知らなかった。言えないことがあって、言わないまま夏が終わろうとしていた。今は全部を話した後だ。知った後に、ここにいる。同じ海岸で、同じように並んで座っているのに、あのときとは全部が違う。
波が来て、引いた。
また来て、引いた。
「一個だけ、ずっと聞けなかったことを聞いていい?」
蓮は言った。
「何?」
「あの夏の海で、結衣が何か言いかけた。夏が終わる前に、って言って、でも何を言ったか聞こえなかった」
結衣がまばたきした。
「覚えてるの?」
「夢で見た。でも夢の中でも、聞こえなかった」
夢の話をするのは変かもしれない、と思った。でも今日という日に、この場所で、正直に言いたかった。夢で何度も聞こうとして、聞こえなかった。それほどずっと、気になっていた。
結衣は波を見た。
しばらく黙っていた。
波が二回来て、引いた。砂浜が濡れて、乾きかけた。
「言いたかったことは」
結衣はゆっくり言った。
「好きだよ、ってこと」
蓮は波を見たまま、動かなかった。
好きだよ。
その四文字が、波の音の中に落ちた。消えずに、砂浜に残った。
「言えなかったんだよね、あのとき。蓮が東京に行くって決まってたから。言ったら引き止めてることになる気がして。でも言わないままじゃ伝わらないし、どうしようって思って、結局言えなかった」
「……言えばよかった」
蓮は言った。
「言えばよかった」
結衣も繰り返した。
同じ言葉を、二人が言った。後悔を確かめるみたいに。でも責め合っているわけじゃなかった。ただ、そうだったよね、という確認だった。
「でも言えなかった。で、メールで書いた。でも読んでもらえなくて。電話して、出てもらえなくて」
「ごめん」
「もうそれはいい」
結衣は言った。
「全部、いい。ちゃんと今日、言えたから」
全部、いい。
その言い方が、いつもと同じだった。怒っていない。恨んでいない。ただ、今日言えたから、いい。過去を閉じる言い方じゃなくて、今日を大事にする言い方だった。
「俺も、好きだった」
蓮は言った。
「あの夏も、今も」
言いながら、その言葉の形について考えた。
好きだった、と言うしかなかった。過去形と現在形が混ざった言葉だった。あの夏も好きだった。今も好きだ。でも「今も好きだ」と言える状況が、この朝の海岸にはない。それでも言いたかった。今も、という部分を、消したくなかった。
「知ってる」
「なんで知ってる」
「だって帰ってきたじゃない」
結衣は笑った。
「五年経っても、帰ってきた。好きじゃなかったら、帰ってこないよ」
蓮は少し笑った。
そういう理屈だったのか、と思った。でも結衣の言い方は正しかった。帰ってきたのは、帰りたかったからだ。帰りたかったのは、この場所に、この人に、会いたかったからだ。それが好きということだ。
*
蓮は海を見た。
水平線の向こうに、雲が出ていた。夏の雲。どこまでも白い雲が、水平線の上に積み上がっていた。あの雲の向こうに何があるのか、今日も分からない。でも何かがある。
「約束を果たしたら」
蓮は言った。
「結衣はどこへ行くんだろう」
「どこかな」
結衣は空を見た。
「遠くじゃないと思う。どこかにいる感じ」
「どこかにいる」
「うん。完全にいなくなることは、ない気がする。ただ、見えなくなるだけで」
「見えなくなる」
「でも、いる」
結衣は言った。
「蓮の近くに、ずっといる」
ずっといる。
その言葉が、波の音より静かに届いた。
見えなくなっても、いる。聞こえなくなっても、いる。触れられなくても、いる。そういう「いる」だった。証明できない。確認できない。でも、いる。
蓮はそれを聞いて、目が熱くなった。
泣くまいと思った。
でも堪えるほどのものが来なかった。抵抗する間もなく、静かに、目から流れた。拭わなかった。海の前で泣くのは、悪くない気がした。波が来るたびに砂浜が濡れるみたいに、ただそこにある感情だと思った。
「泣いてる」
結衣が言った。
「泣いてない」
「泣いてるよ」
「……ちょっとだけ」
結衣が小さく笑った。
「蓮って、昔から泣き虫だったよね」
「泣き虫じゃない」
「カニに挟まれて泣いてた」
「それは痛かったから仕方ない」
また二人で笑った。
波の音の中で笑った。笑いながら、蓮はまた少し泣いた。今度は手の甲で拭いた。結衣が横でまだ笑っていた。そういう人だった。泣いている人の隣で、笑いながら一緒にいてくれる人。責めない。心配しすぎない。ただ隣にいる。
波が来た。今度は少し大きくて、二人の座っている場所の近くまで来た。白い泡が広がって、砂に吸い込まれた。
*
「もうすぐかな」
結衣が言った。
「何が?」
「終わる時間が」
蓮は結衣を見た。
今朝より、さらに薄くなっていた。
岩場にいたときより、砂浜に戻ってきてから、少しずつ変わっていた。輪郭が、光に溶け始めていた。朝の光と結衣の境界が、どこにあるのか分からなくなってきた。白い光の中に、白い結衣がいる。
でも笑顔は変わらなかった。
声は変わらなかった。
「まだいて」
蓮は言った。
思わず出た言葉だった。覚悟を決めたはずだった。送り出すと決めたはずだった。それでも出た。まだいて、という言葉が。
結衣は怒らなかった。困った顔もしなかった。
「いるよ」
結衣は言った。
「今はまだ、ここにいる」
今はまだ。
その「まだ」が、蓮には大事だった。今はまだいる。それだけで十分だった。今この瞬間、ここにいる。声がある。笑顔がある。隣にいる。
波が来た。
足元を濡らした。
冷たかった。朝の海の冷たさが、足の裏から体に上がってきた。
蓮はその冷たさを、ちゃんと感じようとした。
この感触を、忘れたくなかった。朝の海の冷たさ。砂の感触。潮の匂い。波の音。隣にいる結衣の気配。全部を、体の中に入れておきたかった。
記憶は薄れる。結衣が言っていた通り、時間が経つと薄くなる。でも薄くなるまでの間、できるだけ鮮明に持っていたかった。
「結衣」
蓮は言った。
「うん」
「好きだよ」
今度は過去形じゃなかった。
「うん」
結衣は言った。
「私も」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
波が来た。引いた。また来た。引いた。
朝の海が、続いていた。
たった四文字の答えが、五年かかって届きました。「ずっといる」と、「まだいて」。どちらも本当で、どちらも言ってよかった言葉です。




