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きみがいた夏は、もう終わらない  作者: Noct


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17/21

第三章 約束の答えを、ずっと待ってたんだ

あの夏、聞こえなかった言葉の答え合わせです。

 岩場から砂浜に戻って、二人は腰を下ろした。

 砂が少し濡れていた。朝の波が届く場所と届かない場所の境目あたりに、並んで座った。波と空の間で、並んで座った。

 まるで高校の最後の夏に戻ったみたいだった。

 でも全然違った。

 あのときは夕方だった。今は朝だ。あのときは二人とも、まだ何も知らなかった。言えないことがあって、言わないまま夏が終わろうとしていた。今は全部を話した後だ。知った後に、ここにいる。同じ海岸で、同じように並んで座っているのに、あのときとは全部が違う。

 波が来て、引いた。

 また来て、引いた。

「一個だけ、ずっと聞けなかったことを聞いていい?」

蓮は言った。

「何?」

「あの夏の海で、結衣が何か言いかけた。夏が終わる前に、って言って、でも何を言ったか聞こえなかった」

 結衣がまばたきした。

「覚えてるの?」

「夢で見た。でも夢の中でも、聞こえなかった」

 夢の話をするのは変かもしれない、と思った。でも今日という日に、この場所で、正直に言いたかった。夢で何度も聞こうとして、聞こえなかった。それほどずっと、気になっていた。

 結衣は波を見た。

 しばらく黙っていた。

 波が二回来て、引いた。砂浜が濡れて、乾きかけた。

「言いたかったことは」

結衣はゆっくり言った。

「好きだよ、ってこと」

 蓮は波を見たまま、動かなかった。

 好きだよ。

 その四文字が、波の音の中に落ちた。消えずに、砂浜に残った。

「言えなかったんだよね、あのとき。蓮が東京に行くって決まってたから。言ったら引き止めてることになる気がして。でも言わないままじゃ伝わらないし、どうしようって思って、結局言えなかった」

「……言えばよかった」

蓮は言った。

「言えばよかった」

結衣も繰り返した。

 同じ言葉を、二人が言った。後悔を確かめるみたいに。でも責め合っているわけじゃなかった。ただ、そうだったよね、という確認だった。

「でも言えなかった。で、メールで書いた。でも読んでもらえなくて。電話して、出てもらえなくて」

「ごめん」

「もうそれはいい」

結衣は言った。

「全部、いい。ちゃんと今日、言えたから」

 全部、いい。

 その言い方が、いつもと同じだった。怒っていない。恨んでいない。ただ、今日言えたから、いい。過去を閉じる言い方じゃなくて、今日を大事にする言い方だった。

「俺も、好きだった」

蓮は言った。

「あの夏も、今も」

 言いながら、その言葉の形について考えた。

 好きだった、と言うしかなかった。過去形と現在形が混ざった言葉だった。あの夏も好きだった。今も好きだ。でも「今も好きだ」と言える状況が、この朝の海岸にはない。それでも言いたかった。今も、という部分を、消したくなかった。

「知ってる」

「なんで知ってる」

「だって帰ってきたじゃない」

結衣は笑った。

「五年経っても、帰ってきた。好きじゃなかったら、帰ってこないよ」

 蓮は少し笑った。

 そういう理屈だったのか、と思った。でも結衣の言い方は正しかった。帰ってきたのは、帰りたかったからだ。帰りたかったのは、この場所に、この人に、会いたかったからだ。それが好きということだ。

 *

 蓮は海を見た。

 水平線の向こうに、雲が出ていた。夏の雲。どこまでも白い雲が、水平線の上に積み上がっていた。あの雲の向こうに何があるのか、今日も分からない。でも何かがある。

「約束を果たしたら」

蓮は言った。

「結衣はどこへ行くんだろう」

「どこかな」

結衣は空を見た。

「遠くじゃないと思う。どこかにいる感じ」

「どこかにいる」

「うん。完全にいなくなることは、ない気がする。ただ、見えなくなるだけで」

「見えなくなる」

「でも、いる」

結衣は言った。

「蓮の近くに、ずっといる」

 ずっといる。

 その言葉が、波の音より静かに届いた。

 見えなくなっても、いる。聞こえなくなっても、いる。触れられなくても、いる。そういう「いる」だった。証明できない。確認できない。でも、いる。

 蓮はそれを聞いて、目が熱くなった。

 泣くまいと思った。

 でも堪えるほどのものが来なかった。抵抗する間もなく、静かに、目から流れた。拭わなかった。海の前で泣くのは、悪くない気がした。波が来るたびに砂浜が濡れるみたいに、ただそこにある感情だと思った。

「泣いてる」

結衣が言った。

「泣いてない」

「泣いてるよ」

「……ちょっとだけ」

 結衣が小さく笑った。

「蓮って、昔から泣き虫だったよね」

「泣き虫じゃない」

「カニに挟まれて泣いてた」

「それは痛かったから仕方ない」

 また二人で笑った。

 波の音の中で笑った。笑いながら、蓮はまた少し泣いた。今度は手の甲で拭いた。結衣が横でまだ笑っていた。そういう人だった。泣いている人の隣で、笑いながら一緒にいてくれる人。責めない。心配しすぎない。ただ隣にいる。

 波が来た。今度は少し大きくて、二人の座っている場所の近くまで来た。白い泡が広がって、砂に吸い込まれた。

 *

「もうすぐかな」

結衣が言った。

「何が?」

「終わる時間が」

 蓮は結衣を見た。

 今朝より、さらに薄くなっていた。

 岩場にいたときより、砂浜に戻ってきてから、少しずつ変わっていた。輪郭が、光に溶け始めていた。朝の光と結衣の境界が、どこにあるのか分からなくなってきた。白い光の中に、白い結衣がいる。

 でも笑顔は変わらなかった。

 声は変わらなかった。

「まだいて」

蓮は言った。

 思わず出た言葉だった。覚悟を決めたはずだった。送り出すと決めたはずだった。それでも出た。まだいて、という言葉が。

 結衣は怒らなかった。困った顔もしなかった。

「いるよ」

結衣は言った。

「今はまだ、ここにいる」

 今はまだ。

 その「まだ」が、蓮には大事だった。今はまだいる。それだけで十分だった。今この瞬間、ここにいる。声がある。笑顔がある。隣にいる。

 波が来た。

 足元を濡らした。

 冷たかった。朝の海の冷たさが、足の裏から体に上がってきた。

 蓮はその冷たさを、ちゃんと感じようとした。

 この感触を、忘れたくなかった。朝の海の冷たさ。砂の感触。潮の匂い。波の音。隣にいる結衣の気配。全部を、体の中に入れておきたかった。

 記憶は薄れる。結衣が言っていた通り、時間が経つと薄くなる。でも薄くなるまでの間、できるだけ鮮明に持っていたかった。

「結衣」

蓮は言った。

「うん」

「好きだよ」

 今度は過去形じゃなかった。

「うん」

結衣は言った。

「私も」

 それだけだった。

 それだけで、十分だった。

 波が来た。引いた。また来た。引いた。

 朝の海が、続いていた。


たった四文字の答えが、五年かかって届きました。「ずっといる」と、「まだいて」。どちらも本当で、どちらも言ってよかった言葉です。

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