第四章 行ってらっしゃい、と言えなかったあの朝
ここだけ、語り手が変わります。結衣の声で、あの朝を。
ここだけ、結衣の声で書く。
*
蓮が東京に行った朝のことを、私はよく覚えている。
夢みたいに薄れていく記憶がある一方で、いくつかのことははっきりと覚えている。光の色とか、空気の温度とか、自分の足が地面を踏んでいた感触とか。あの朝のことは、そういう種類の記憶だった。
あの朝、私は早く目が覚めた。
まだ暗かった。布団の中で、天井が見えないまま横になっていた。カーテンの隙間から、街灯の光が少しだけ入っていた。鳥が鳴いていなかった。まだそういう時間だった。
蓮の出発は朝の八時で、タクシーを呼ぶのが七時半だと聞いていた。
聞いていた、というのは、前の日に蓮から教えてもらったからじゃない。蓮のお母さんが誰かに話しているのを、偶然聞いたのだった。七時半にタクシー、と言っていた。それを覚えていた。
六時に家を出た。
誰にも言わなかった。親には「少し外の空気を吸ってくる」と言って、自転車に乗った。朝の空気は冷たかった。夏の終わりの朝は、昼間の熱気が嘘みたいに涼しい。その冷たさの中を、自転車で走った。
蓮の家まで、自転車で十分かからない。
坂を上って、表通りを行って、住宅街に入ると蓮の家が見えてくる。何百回と通った道だった。目を閉じても行けるくらい知っている道。でもあの朝は、一踏み一踏みを意識しながらペダルをこいだ。
でも、玄関まで行けなかった。
角を曲がったところで止まった。
ブレーキをかけて、自転車を止めた。
蓮の家の前に、タクシーが来ていた。もう来ていた。予定より早かった。まだ七時前だったのに。
蓮が荷物を運び出していた。大きいリュックを背負って、もう一つ手に持って、玄関から出てきた。お母さんが玄関に立っていた。お父さんも外に出ていた。
蓮が振り返って、タクシーのトランクに荷物を積んだ。
私は角の陰から見ていた。
行こうと思った。
自転車から降りて、走って、呼び止めようと思った。「行ってらっしゃい」と言おうと思った。あるいは「好きだよ」と言おうと思った。どちらかを言おうと思った。何度も決意した。今だ、と思った。
でも足が動かなかった。
何が怖かったのか、自分でもよく分からない。泣いてしまいそうで怖かったのかもしれない。泣いたら、蓮が困るから。あるいは「好きだよ」と言ったら、蓮の出発に影を落とすから。東京へ行く蓮の背中に、重いものを背負わせたくなかったのかもしれない。
でも本当は、ただ怖かっただけかもしれない。
言葉にすることが、怖かっただけかもしれない。
蓮がお母さんに何か言った。
笑っていた。明るい顔で何か言った。お母さんが笑った。お父さんが頷いた。三人でしばらく話していた。
そのまま蓮がタクシーに乗った。
ドアが閉まった。
タクシーが動き出した。
私は角の陰から、タクシーが遠ざかるのを見ていた。止まれなかった。追いかけられなかった。大声で名前を呼ぶこともできなかった。ただ見ていた。タクシーが角を曲がって、見えなくなるまで、ただ見ていた。
見えなくなってから、その場所に立っていた。
どのくらいそうしていたか分からない。五分だったかもしれないし、もっと長かったかもしれない。朝の冷たい空気の中で、自転車のハンドルを握ったまま立っていた。
「行ってらっしゃい」を言えなかった。
蓮には聞こえなかった。
*
家に帰ってから、メールを送った。
「行ってらっしゃい」と書いた。
本当は他のことも書きたかった。好きだよ、ということ。ずっと応援してるということ。帰ってきたとき、また会おうということ。色々書きたかったけど、書きすぎると重くなると思って、短くした。
それでも書いた。
一個だけお願いがあると書いた。帰ってきたとき、一緒に海を見てほしいと書いた。蓮が約束してくれたから、私もちゃんと待てる気がする、と書いた。
送った後、返信を待った。
返信は来なかった。
翌朝、電話した。
三回かけた。全部、出なかった。
三回目が繋がらなかったとき、それ以上かけるのをやめた。蓮には蓮の朝があって、出発の朝は忙しいのだと分かっていた。待てばいい、と思った。落ち着いたら連絡してくれると思った。
それが、最後になった。
*
あの秋のことも、覚えている。
覚えている、というのは正確じゃないかもしれない。断片的に残っている、という方が近い。
十月の終わり。自転車で坂を下りていた。
その日は曇っていた。汐崎の秋の空は、曇ると鉛色になる。重たい雲が低く垂れていた。落ち葉が道に積もっていた。少し濡れていた。
ブレーキをかけたとき、タイヤが滑った。
その後のことは、あまりよく分からない。
音がして、衝撃があって、それから何もなかった。
気がついたら、夏の中にいた。
最初は何が起きたか分からなかった。秋だったのに、夏だった。汐崎の神社だった。蝉が鳴いていた。石畳が夏の光の中にあった。
時間が経つにつれて、少しずつ分かってきた。
夏の終わりに、私はここに留まっていた。
なぜここにいるのか考えたとき、約束のことを思った。
蓮が言った言葉。また帰ってきたら、一緒に海を見よう。あの言葉が、私をここに繋いでいた。果たされていない約束が、私をここに留めていた。終われなかった。約束が終わっていないから。
怖くはなかった。
寂しかったけど、怖くはなかった。
蓮が帰ってくることを、信じていたから。信じていた根拠なんてなかった。蓮が来年帰ってくるかどうかも、五年後に帰ってくるかどうかも、分からなかった。でも信じていた。
何年かかっても、帰ってきてくれると思っていた。
そして蓮は、帰ってきた。
五年かかったけど、帰ってきた。
*
蓮が今日、隣に座っている。
波の音が聞こえる。朝の海の匂いがする。砂が少し冷たい。空が広い。水平線が、昨日より遠く見える気がする。
私はここにいる。今はまだ、ここにいる。
蓮が泣いていた。
拭いながら、笑っていた。困った顔をしながら、でも笑っていた。泣いていることを認めたくなくて、でも拭いながら笑っている、そういう顔。
あの夏の蓮も、そんな顔をしていた気がする。意地を張りながら、でも笑っていた。
その顔が、あの夏の蓮とも、今の蓮とも重なった。
どちらも蓮で、どちらも好きだった。
五年前に好きだった蓮と、今日隣に座っている蓮が、一本の線で繋がっている。その線が、この海岸で、今日完成する気がした。
行ってらっしゃい、と言えなかったあの朝を、今も覚えている。
角の陰で、タクシーが遠ざかるのを見ていた。声が出なかった。足が動かなかった。
でも今日は言える。
ちゃんと言える。
今日という朝に、この海の前で、蓮の隣で。
言える。
角の陰で見送った背中と、出なかった声。言えなかった言葉は、言えるまで残るのかもしれません。信じる根拠のない信頼ほど、まっすぐなものはありません。




