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きみがいた夏は、もう終わらない  作者: Noct


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19/21

第五章 海の向こうまで、叫べるくらい好きだった

胸の奥に、ずっとあったものを、海に向かって出します。

 空が高くなっていた。

 夏の朝の空は、時間が経つにつれて色が変わる。夜明けの青から、白みがかった青へ、そして昼に近づくにつれて深い青になる。今はちょうど、その途中だった。白と青の間にある色。名前がない色。一日の中でこの時間だけにある色。

 波が続いていた。

 一定のリズムで来て、返っていた。朝の海は昨日の夜より穏やかで、波の音が低かった。遠くで鳥が鳴いていた。砂浜には、まだ二人しかいなかった。

 蓮は結衣を見た。

 かなり薄くなっていた。

 輪郭が、はっきりと光に溶けている。隣に座っているのに、後ろの海が少し透けて見える。光と結衣の境界が、もうほとんど分からない。白い朝の光の中に、白い結衣がいる。

 でも目は変わらなかった。

 最初の日から変わらない、澄んだ目。八日目に気づいた違和感も、花火の夜の涙も、砂浜で全てを話したときの静かな声も、全部あの目の中にあった。今日もそこにあった。

「蓮」

結衣が言った。

「うん」

「そろそろかもしれない」

「分かる?」

「なんとなく。軽くなってきた感じがして」

「軽く」

「うん。ずっと何かを持ってた感じが、少しずつなくなってきてる」

結衣は波を見た。

「悪くない感じだよ。重いものを、ちゃんと置けるみたいで」

 重いものを、ちゃんと置ける。

 五年間持っていたものだ。果たされていない約束を、ずっと持っていた。それを今、置いていこうとしている。蓮が来たから。約束が果たされたから。

 蓮は砂を握った。

 湿った砂が、指の間からこぼれた。さらさらと落ちて、また砂浜に戻った。握っても握っても、形を保てない。砂というのはそういうものだ。でも確かに手に触れた。その感触だけは残った。

「結衣」

「うん」

「好きだ」

「知ってる」

「知ってても言う」

「うん」

結衣は笑った。

「嬉しい」

 嬉しい、という言葉が、朝の海の前で澄んでいた。うれしい、という音の柔らかさが、波の音と混ざって、砂浜に広がった。

「五年間、知らなくてごめん」

「いい」

「よくない」

「いいよ」

結衣は言った。

「蓮がいなかった五年間も、蓮は生きてたんだから。それでいい」

 それでいい。

 結衣はいつもそう言う。怒らない。責めない。それでいい、と言う。その言い方が、蓮には今日も重かった。許されているのに、許されるほど何もしていない気がして。でも結衣の「いい」は本物だった。言葉の奥に、本当にそう思っている何かがあった。

 蓮は立ち上がった。

 砂が足についた。波打ち際に向かって歩いた。足が海水に浸かった。冷たかった。朝の海の冷たさが、足首から上がってきた。波が来るたびに、さらに濡れた。

 振り返ると、結衣が砂浜から見ていた。

 薄くなっていても、笑っていた。

 その笑顔を見ながら、蓮は海を向いた。

 *

 水平線が遠かった。

 どこまでも続いていた。空と海の境目が、真っすぐに引かれていた。あの線の向こうに何があるのか、今日も分からない。でもあの向こうまで、届かせたいものがあった。

 胸の中に、ずっと溜まっていたものがあった。

 五年間の、知らなかった時間。メールを読まなかった後悔。電話を取らなかった後悔。「好きだ」と言えなかった時間の全部。「またね」と言ったまま帰って、それきりになった夏の全部。

 言葉にしたことなかった。誰かに話したこともなかった。自分の中で、形のないまま溜まっていた。

 それが今、胸の奥から上がってきた。

 蓮は息を吸った。

 深く、深く吸った。

 潮の匂いが、肺の奥まで入ってきた。夏の朝の海の匂い。汐崎の匂い。

 それから、叫んだ。

「好きだった!」

 声が海に出ていった。波の音に混ざって、広がって、消えた。

 でも出した。ちゃんと出した。

 胸の中から出した。言葉にして、声にして、海に向かって出した。

「ずっと好きだった! 気づくのが遅くてごめん! メール読まなくてごめん! 電話出なくてごめん!」

 声が続いた。

 波が来た。声と交差した。波が返った。声がまた出た。

 恥ずかしくなかった。誰かに聞かれることも怖くなかった。ただ出したかった。この海の前で、この朝に、全部出したかった。

「でも会えてよかった! この夏に会えてよかった!」

 声が掠れた。

 それでも続いた。

 最後に、もう一回。

 息を吸って。

「結衣! 好きだ!」

 声が、海の上を走った。

 水平線まで届くはずがない。でも届いた気がした。どこか遠い場所まで、あるいはどこか近い場所まで、ちゃんと届いた気がした。

 *

 振り返った。

 結衣が立っていた。

 砂浜に立って、蓮を見ていた。

 涙を流していた。

 笑いながら、泣いていた。困った顔でも、悲しい顔でもなかった。笑っていた。笑いながら、涙が流れていた。その顔が、今まで見た中で一番結衣だった。

「聞こえた」

と口が動いた。

 声は聞こえなかった。波の音が大きかったから。でも確かに、そう言った。口の形で分かった。蓮には分かった。

 聞こえた。

 蓮は砂浜に戻った。

 砂が足に絡んだ。それでも歩いた。結衣の前に立った。

 手を伸ばした。

 迷わなかった。花火の夜に迷ったように、今日は迷わなかった。伸ばした。

 結衣の手に触れた。

 冷たかった。

 朝の海より冷たかった。でも確かに触れた。触れている感触があった。ここにある、という感触が、手のひらに伝わってきた。

 薄くなっていても、ここにいた。

 まだいた。

「ありがとう」

結衣は言った。

「来てくれて。帰ってきてくれて。好きって言ってくれて」

 一つずつ言った。丁寧に、一つずつ。

「ありがとう」

蓮も言った。

「待っててくれて。会わせてくれて。笑っててくれて」

 笑っててくれて、と言いながら、また目が熱くなった。

 この夏、結衣はずっと笑っていた。石段に座って笑っていた。ラムネを飲んで笑っていた。てんとう虫の話をして笑っていた。ヒグラシの声を聞きながら笑っていた。花火の光の中で笑っていた。砂浜で真実を話しながら笑っていた。

 その笑顔が、蓮の夏を作っていた。

 結衣の手が、少し透けてきた。

 触れているのに、向こうが見え始めた。でもまだ触れていた。まだそこにいた。

「行ってらっしゃい」

結衣が言った。

 その言葉が、朝の空気に溶けた。

 あの朝、言えなかった言葉。角の陰から見ていて、足が動かなくて、声が出なくて、言えなかった言葉。タクシーが遠ざかるのを見ながら、言えなかった言葉。

 今日、ちゃんと言えた。

 蓮の目から、また涙が落ちた。

 砂浜に落ちて、砂に吸い込まれた。

「行ってきます」

蓮は言った。

「また帰ってくる」

「うん」

結衣は笑った。

「待ってる。どこかで」

 どこかで、という言葉が、さっきとは違う意味を持っていた。神社のどこかじゃない。汐崎のどこかじゃない。もっと広い、どこかで。

 波が来た。

 大きい波だった。

 さっきまでの波より大きくて、足元を深く濡らした。波が返って、また来た。砂浜全体が揺れるみたいだった。

 蓮は目をつむらなかった。

 ちゃんと見ていた。見ていようと決めていた。最後まで、ちゃんと見ていようと。

 結衣の輪郭が、朝の光に溶けていった。

 少しずつ、少しずつ。

 境界が消えて、光と結衣が一つになっていった。

 笑顔が、最後まであった。

 消えていく最後の瞬間まで、笑っていた。

 波が返った。

 砂浜に、蓮一人になった。

 朝の光が、広くなった気がした。


「聞こえた」という口の形。触れた手は冷たく、でも確かにそこにありました。あの朝言えなかった「行ってらっしゃい」を、ようやく言えた朝です。

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