第五章 海の向こうまで、叫べるくらい好きだった
胸の奥に、ずっとあったものを、海に向かって出します。
空が高くなっていた。
夏の朝の空は、時間が経つにつれて色が変わる。夜明けの青から、白みがかった青へ、そして昼に近づくにつれて深い青になる。今はちょうど、その途中だった。白と青の間にある色。名前がない色。一日の中でこの時間だけにある色。
波が続いていた。
一定のリズムで来て、返っていた。朝の海は昨日の夜より穏やかで、波の音が低かった。遠くで鳥が鳴いていた。砂浜には、まだ二人しかいなかった。
蓮は結衣を見た。
かなり薄くなっていた。
輪郭が、はっきりと光に溶けている。隣に座っているのに、後ろの海が少し透けて見える。光と結衣の境界が、もうほとんど分からない。白い朝の光の中に、白い結衣がいる。
でも目は変わらなかった。
最初の日から変わらない、澄んだ目。八日目に気づいた違和感も、花火の夜の涙も、砂浜で全てを話したときの静かな声も、全部あの目の中にあった。今日もそこにあった。
「蓮」
結衣が言った。
「うん」
「そろそろかもしれない」
「分かる?」
「なんとなく。軽くなってきた感じがして」
「軽く」
「うん。ずっと何かを持ってた感じが、少しずつなくなってきてる」
結衣は波を見た。
「悪くない感じだよ。重いものを、ちゃんと置けるみたいで」
重いものを、ちゃんと置ける。
五年間持っていたものだ。果たされていない約束を、ずっと持っていた。それを今、置いていこうとしている。蓮が来たから。約束が果たされたから。
蓮は砂を握った。
湿った砂が、指の間からこぼれた。さらさらと落ちて、また砂浜に戻った。握っても握っても、形を保てない。砂というのはそういうものだ。でも確かに手に触れた。その感触だけは残った。
「結衣」
「うん」
「好きだ」
「知ってる」
「知ってても言う」
「うん」
結衣は笑った。
「嬉しい」
嬉しい、という言葉が、朝の海の前で澄んでいた。うれしい、という音の柔らかさが、波の音と混ざって、砂浜に広がった。
「五年間、知らなくてごめん」
「いい」
「よくない」
「いいよ」
結衣は言った。
「蓮がいなかった五年間も、蓮は生きてたんだから。それでいい」
それでいい。
結衣はいつもそう言う。怒らない。責めない。それでいい、と言う。その言い方が、蓮には今日も重かった。許されているのに、許されるほど何もしていない気がして。でも結衣の「いい」は本物だった。言葉の奥に、本当にそう思っている何かがあった。
蓮は立ち上がった。
砂が足についた。波打ち際に向かって歩いた。足が海水に浸かった。冷たかった。朝の海の冷たさが、足首から上がってきた。波が来るたびに、さらに濡れた。
振り返ると、結衣が砂浜から見ていた。
薄くなっていても、笑っていた。
その笑顔を見ながら、蓮は海を向いた。
*
水平線が遠かった。
どこまでも続いていた。空と海の境目が、真っすぐに引かれていた。あの線の向こうに何があるのか、今日も分からない。でもあの向こうまで、届かせたいものがあった。
胸の中に、ずっと溜まっていたものがあった。
五年間の、知らなかった時間。メールを読まなかった後悔。電話を取らなかった後悔。「好きだ」と言えなかった時間の全部。「またね」と言ったまま帰って、それきりになった夏の全部。
言葉にしたことなかった。誰かに話したこともなかった。自分の中で、形のないまま溜まっていた。
それが今、胸の奥から上がってきた。
蓮は息を吸った。
深く、深く吸った。
潮の匂いが、肺の奥まで入ってきた。夏の朝の海の匂い。汐崎の匂い。
それから、叫んだ。
「好きだった!」
声が海に出ていった。波の音に混ざって、広がって、消えた。
でも出した。ちゃんと出した。
胸の中から出した。言葉にして、声にして、海に向かって出した。
「ずっと好きだった! 気づくのが遅くてごめん! メール読まなくてごめん! 電話出なくてごめん!」
声が続いた。
波が来た。声と交差した。波が返った。声がまた出た。
恥ずかしくなかった。誰かに聞かれることも怖くなかった。ただ出したかった。この海の前で、この朝に、全部出したかった。
「でも会えてよかった! この夏に会えてよかった!」
声が掠れた。
それでも続いた。
最後に、もう一回。
息を吸って。
「結衣! 好きだ!」
声が、海の上を走った。
水平線まで届くはずがない。でも届いた気がした。どこか遠い場所まで、あるいはどこか近い場所まで、ちゃんと届いた気がした。
*
振り返った。
結衣が立っていた。
砂浜に立って、蓮を見ていた。
涙を流していた。
笑いながら、泣いていた。困った顔でも、悲しい顔でもなかった。笑っていた。笑いながら、涙が流れていた。その顔が、今まで見た中で一番結衣だった。
「聞こえた」
と口が動いた。
声は聞こえなかった。波の音が大きかったから。でも確かに、そう言った。口の形で分かった。蓮には分かった。
聞こえた。
蓮は砂浜に戻った。
砂が足に絡んだ。それでも歩いた。結衣の前に立った。
手を伸ばした。
迷わなかった。花火の夜に迷ったように、今日は迷わなかった。伸ばした。
結衣の手に触れた。
冷たかった。
朝の海より冷たかった。でも確かに触れた。触れている感触があった。ここにある、という感触が、手のひらに伝わってきた。
薄くなっていても、ここにいた。
まだいた。
「ありがとう」
結衣は言った。
「来てくれて。帰ってきてくれて。好きって言ってくれて」
一つずつ言った。丁寧に、一つずつ。
「ありがとう」
蓮も言った。
「待っててくれて。会わせてくれて。笑っててくれて」
笑っててくれて、と言いながら、また目が熱くなった。
この夏、結衣はずっと笑っていた。石段に座って笑っていた。ラムネを飲んで笑っていた。てんとう虫の話をして笑っていた。ヒグラシの声を聞きながら笑っていた。花火の光の中で笑っていた。砂浜で真実を話しながら笑っていた。
その笑顔が、蓮の夏を作っていた。
結衣の手が、少し透けてきた。
触れているのに、向こうが見え始めた。でもまだ触れていた。まだそこにいた。
「行ってらっしゃい」
結衣が言った。
その言葉が、朝の空気に溶けた。
あの朝、言えなかった言葉。角の陰から見ていて、足が動かなくて、声が出なくて、言えなかった言葉。タクシーが遠ざかるのを見ながら、言えなかった言葉。
今日、ちゃんと言えた。
蓮の目から、また涙が落ちた。
砂浜に落ちて、砂に吸い込まれた。
「行ってきます」
蓮は言った。
「また帰ってくる」
「うん」
結衣は笑った。
「待ってる。どこかで」
どこかで、という言葉が、さっきとは違う意味を持っていた。神社のどこかじゃない。汐崎のどこかじゃない。もっと広い、どこかで。
波が来た。
大きい波だった。
さっきまでの波より大きくて、足元を深く濡らした。波が返って、また来た。砂浜全体が揺れるみたいだった。
蓮は目をつむらなかった。
ちゃんと見ていた。見ていようと決めていた。最後まで、ちゃんと見ていようと。
結衣の輪郭が、朝の光に溶けていった。
少しずつ、少しずつ。
境界が消えて、光と結衣が一つになっていった。
笑顔が、最後まであった。
消えていく最後の瞬間まで、笑っていた。
波が返った。
砂浜に、蓮一人になった。
朝の光が、広くなった気がした。
「聞こえた」という口の形。触れた手は冷たく、でも確かにそこにありました。あの朝言えなかった「行ってらっしゃい」を、ようやく言えた朝です。




