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きみがいた夏は、もう終わらない  作者: Noct


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20/21

第六章 夏が終わる。それでいい、と思えた夜

一人になった砂浜から始まります。

 結衣がいなくなった後、蓮はしばらく砂浜に残っていた。

 どのくらい経ったか分からなかった。五分かもしれないし、二十分かもしれない。時間を確認しようとしなかった。確認する必要がなかった。

 一人になった砂浜は、静かだった。

 波の音だけがあった。朝の光が水面に揺れていた。遠くで鳥が鳴いていた。人の声はしなかった。誰もいない砂浜は、広かった。さっきまで隣に誰かがいたのに、今は一人だった。

 でも不思議と、孤独じゃなかった。

 空気が違う気がした。

 朝の空気が、少し柔らかくなった気がした。何かが変わった。変わったのに、欠けていない。結衣がここにいた、という事実が、空気の中に残っている感じがした。形は消えた。でも、あった、という痕跡が残っている。砂浜に足跡が残るみたいに。波が来れば消えるが、来るまでの間はそこにある。

 蓮は砂の上に座った。

 膝を立てて、波を見た。

 泣くかと思ったが、もう涙は出なかった。叫んだときに、全部出し切った気がした。胸の中で渦を巻いていたものが、声になって海に出ていった。出た後、静かになった。

 胸の中も、静かだった。

 何かが、終わった。

 でもその「終わった」は、喪失じゃなかった。

 何かがなくなった感じじゃない。何かが完成した、という感じだった。長い間未完成だったものが、今日ようやく完成した感じ。ラムネ瓶のビー玉みたいに閉じ込められていたものが、瓶ごと完成した感じ。割れたわけじゃない。出てきたわけでもない。完成したのだ。瓶の中にいるまま、ビー玉のまま、完成した。

 空が高くなっていた。

 雲が白くて、空が青くて、海がきらきらしていた。

 夏だった。

 完全な、夏だった。

 これほど夏らしい朝を、蓮はこれまで見たことがなかった気がした。あるいは見ていたのに、気づいていなかっただけかもしれない。この二週間、結衣と過ごした時間が、景色の見え方を変えていたのかもしれない。

 蓮はしばらく、その夏の中に座っていた。

 波が来た。足元を濡らした。冷たかった。

 蓮はその冷たさを受け取りながら、ここにいることを感じた。

 *

 実家に戻ったのは、十時前だった。

 坂を登りながら、神社の前を通った。

 鳥居の前で、足が自然に止まった。見上げると、境内が夏の光の中にあった。石畳が見えた。古い木が見えた。拝殿の屋根が見えた。

 風鈴の音がした。

 ちりん、と。

 まだ鳴っていた。

 蓮は少し目を細めて、その音を聞いた。風が来て、また鳴った。ちりん。その音が、来るたびに何かを運んでくるみたいだった。

 蓮は鳥居の前で一礼した。

 それから、坂を登った。

 *

 母が玄関で待っていた。

 中から聞こえたのか、外に出てきていた。エプロンをつけたまま、玄関の前に立っていた。

「海、行ってきたの?」

「うん」

「表情が、いつもと違う」

「そう?」

「うん」

母は蓮の顔をしばらく見た。細かく確認するみたいに見た。

「ちゃんとお別れできた?」

「うん」

 一言だったが、それで伝わったと思った。母の顔が、ゆっくりとほぐれた。

「よかった」

と母は言った。

 母の目が少し赤かった。泣いていたのかもしれない。蓮が出かけてから戻るまでの時間、何を思っていたか。蓮には想像しかできないが、母なりにこの夏を持っていたんだと思った。

「結衣ちゃんのお母さん、今でもこの町にいるよ」

母は言った。

「たまに、神社に行くって言ってた」

「そっか」

「会っていく?」

 蓮は少し考えた。今すぐ行く準備が、心の中にできていない気がした。でもいつか行きたい、という気持ちは確かにあった。

「今日は、いい。でもまた帰ってきたとき、挨拶させてほしい」

「うん。それがいいわね」

 母が頷いた。それで十分だった。

 荷物を取ってから、縁側に出た。

 庭が夏の光の中にあった。草が緑で、露がまだ残っていた。古いブランコが、草の向こうに見えた。錆びた鎖と、割れかけた座板。

 でも今日のブランコは、少し違って見えた。

 誰かがついさっきまで乗っていたみたいな、そういう見え方。揺れてはいない。でも揺れた後の静けさがある気がした。動いていないのに、動いていた記憶を持っているみたいな。

 蓮はしばらく庭を見ていた。

 子供の頃、この庭で遊んだ。結衣と水風船を投げ合った。母に叱られた。二人でブランコに乗った。交代で漕いで、どちらが高く上がれるか競った。結衣の方が高く上がれた。蓮は悔しくて、もっと漕いだ。それでも負けた。

 風が吹いた。

 草が揺れた。

 ブランコが、ほんの少し動いた。

 鎖が揺れて、座板が動いた。誰も乗っていないのに、揺れた。風のせいだった。夏の風が庭を抜けて、ブランコを揺らした。

 それだけのことだった。

 でも蓮は、ありがとう、と心の中で言った。

 言葉にしなかった。声にしなかった。ただ、心の中で言った。

 風が通り過ぎた。

 ブランコが、また静かになった。

 *

 午後、新幹線に乗った。

 ホームに出ると、夏の熱気がまとわりついて来た。二週間前に降り立った駅。あのときも熱かった。でも今日の熱気は、少し違う温度に感じた。

 帰る熱気と、来る熱気は、同じ温度でも違う感じがする。

 窓側の席に座った。

 新幹線が動き出した。汐崎の駅が後ろへ流れた。商店街が見えた。坂道が見えた。一瞬だけ、神社の屋根が見えた気がした。見えたかどうか分からないくらい速く、過ぎた。

 山が見えた。

 来たときと同じ山。変わらない山の形。裾野の緩やかな曲線と、頂上付近の岩肌。

 でも今日の景色は、来たときと少し違って見えた。

 来たときは「変わらない」と思った。変わらないことが不思議で、時間が違う速度で流れているみたいだと思った。

 今日は「ここにある」と思った。

 山はここにある。変わらないからここにある。この町はここにある。神社は、海は、砂浜は、岩場は、みんなそこにある。二週間後も、来年も、五年後も、そこにある。

 結衣がいた場所も、そこにある。

 形はなくても、あった、という事実はなくならない。石畳の上に座っていたこと。石段に並んで空を見上げたこと。ラムネの瓶を光にかざしたこと。花火の光の中で笑っていた横顔。砂浜で手を伸ばして、触れた冷たさ。

 全部、なくならない。

 蓮の中にある。これからもある。

 新幹線が速度を上げた。

 山が後ろへ流れた。田んぼが広がった。川が見えた。空が広かった。

 夏の空が、どこまでも続いていた。

 汐崎の空と、今見えている空が、どこかで繋がっていた。空はひとつだから。

 蓮はその空を見ながら、来年の夏のことを思った。

 また帰ってこよう、と思った。

 海を見に。神社に行って、風鈴の音を聞いて、岩場でカニを探して、夕方に花火が上がるのを待って。結衣が好きだったヒグラシの声を聞いて、ラムネを一本買って、石段に座って。

 一人でも、来よう。

 結衣はどこかにいるから。

 どこかで待っているから、じゃない。

 どこかにいるから。

 それで十分だった。

 空が続いていた。夏が続いていた。

 窓の外を、夏が流れていった。

喪失ではなく、完成。ラムネ瓶のビー玉みたいに、瓶の中にいるまま。風が揺らしたブランコに、蓮は声に出さず「ありがとう」を渡しました。

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