第七章 きみがいた夏は、もう終わらない
秋が来て、冬が来て、また夏が巡ります。
秋になった。
東京の秋は、急に来る。
予告なく来る。昨日まで夏だったのに、今日の朝に一枚羽織らないと寒い、という日が突然やってくる。先週まで半袖だったのに、今朝は長袖が必要だった。街の木が色を変え始めていた。イチョウが黄色くなって、街路樹が橙色になって、落ち葉が道に積み始めた。
蓮はいつもの道を歩いていた。
会社への道。毎朝歩く道。改札を出て左に曲がって、横断歩道を二つ渡って、ビルの間を抜ける。帰省する前も歩いていた道。帰省から戻ってきた日も歩いた道。
仕事が再開した。上司に怒られた。新しい案件を引き継いだ。毎日が再開した。
でも何かが、帰省の前と違った。
うまく言葉にできない。同じ道を歩いている。同じ電車に乗っている。同じ仕事をしている。でも毎日の密度が少し変わった気がした。
今朝の空気の匂いに気づく。風の温度に気づく。落ち葉が風に揺れる音に気づく。コンビニのコーヒーの湯気が朝の光に透けるのに気づく。電車の窓から見える雲の形に気づく。
そういうことが、増えた。
気づくことが増えた。
汐崎で覚えた何かが、東京の毎日に混ざっていた。結衣が空を見ていた目が、蓮の中に少し残っていた。
*
ある朝、コーヒーショップに寄った。
いつもは素通りする店だった。でもその日は何となく入った。特に理由はなかった。ただ、入ろうと思った。
カウンター席に座って、窓の外を見ながらコーヒーを飲んだ。
窓の外に、銀杏の木があった。葉が半分くらい黄色くなっていた。緑と黄色が混ざって、移行の途中にある色をしていた。まだ夏じゃなくて、でも完全に秋でもない、その中間の色。
風がやって来るたびに、葉が揺れた。
その揺れ方が、なんとなく結衣を思わせた。
理由は分からない。葉の揺れ方が結衣に似ているわけじゃない。結衣は葉っぱじゃない。でもそう感じた。風に揺れて、光を透かして、静かにそこにある感じが、何かを思わせた。
結衣はどこかにいる、と思った。
見えないけど、どこかにいる。
その確信が、悲しくなかった。温かかった。
どこかにいる、ということが、寂しさじゃなくて温かさとして感じられる日が来るとは、汐崎から帰ってきた日には思っていなかった。でも今日は温かかった。
コーヒーが冷めないうちに飲んだ。苦かった。
でも今日はその苦さが好きだった。
*
その週の金曜日の夜、蓮はふと花火の半券のことを思い出した。
財布の奥に入れたままだったのを、洗濯の前にポケットを確認したときに見つけた。
取り出して見た。
薄い紙の半券。「第四十二回夏祭り花火大会」と書いてあった。日付が入っていた。あの夜の日付。花火が上がって、砂浜に座って、結衣が「蓮と見られてよかった」と言った夜の日付。
二枚、重なっていた。
一枚は蓮が使った分。もう一枚は、結衣の分。
二枚買ったのは、蓮だった。当たり前のように二枚買った。一緒に行くから、二枚。でも結衣は半券を持っていかなかった。いや、持てなかったのかもしれない。そういう形のものを持っていくことが、結衣にはできなかったのかもしれない。
だから二枚とも、蓮のところに残った。
蓮は二枚重ねて、財布に戻した。
来年も持っていこう、と思った。
再来年も。その次の年も。
汐崎の夏に帰るたびに、この二枚を持っていこうと思った。
*
十一月になった。
この月が、結衣が逝った月だということを、蓮は母から聞いて知っていた。十一月。秋の終わり。木が葉を全部落として、冬の準備を始める月。
十一月のある夜、蓮は窓を開けた。
秋の夜の空気が入ってきた。冷たくて、澄んでいた。昼間の空気より何倍も澄んでいた。夜の冷たさが、空気から余分なものを取り除いているみたいだった。
星が見えた。
東京では少ない星が、今夜はいくつか見えた。汐崎ほどじゃない。でも確かに見えた。点が、夜空に散っていた。
蓮は星を見ながら、結衣のことを考えた。
考える、というより、思い出す、というより、ただ感じた。感じる、という言い方が一番近かった。胸の中に何かが来る感じ。暖かい何かが来る感じ。
近くにいる感じがした。
どこかにいる、という感じが、今夜は特に強かった。
十一月だから、かもしれない。
この月のことを、結衣も知っているかもしれない。知っていて、今夜は少し近くにいるのかもしれない。そんなことを思った。
「ただいま」
と声に出した。
部屋に一人しかいないから、誰にも聞こえない。でも言いたかった。帰ってきたとき、誰かに向かって言いたかった。「また帰ってきたよ」という意味で。今日も一日が終わって、ここに戻ってきたという意味で。
返事はなかった。
でも、風が来た。
開けた窓から、冷たい秋の風が入ってきた。
カーテンが揺れた。
静かに、ゆっくり揺れた。
それだけだった。
それで、十分だった。
蓮は窓を閉めないまま、少しの間そこに立っていた。秋の冷たさが部屋に入ってきた。でも閉めなかった。もう少しだけ、この空気の中にいたかった。
*
冬になって、春になって、また夏が来た。
蓮は約束通り、帰省した。
また来た、と思った。汐崎の空気を吸ったとき、またここに来た、と思った。潮の匂いがした。蝉が鳴いていた。坂があった。商店街があった。変わらない山があった。
神社に行った。
坂を登って、鳥居をくぐった。参道の石畳を歩いた。砂利を踏む音がした。去年と同じ音がした。
境内は変わらなかった。石畳も、古い木も、参道の並びも。
でも今年は、去年とは別の目で見た。去年は結衣がいた。結衣がここに立っていた。その記憶がある目で、今日は見た。記憶の中の結衣と、今の空っぽの石畳が、同じ場所に重なって見えた。
拝殿の軒先を見た。
風鈴があった。
去年と同じ、ガラスの風鈴。薄い青が入った透明なガラス。白い短冊。
風が吹いて、鳴った。
ちりん。
その音が、去年の朝と同じだった。最終日の朝、海へ行く前に鳥居をくぐったとき、最後に聞いた音と同じだった。一年経っても、同じ音がした。
蓮は少し笑った。
「来たよ」
と言った。
参道に向かって言った。誰もいない石畳に向かって言った。
風鈴が、また鳴った。
ちりん。
返事、と思った。
勝手な思い込みかもしれない。風が来たから鳴っただけかもしれない。でも今日はそれでよかった。返事だと思って、よかった。
*
海へ向かった。
一人で歩いた。商店街を抜けて、坂を下りて、潮の匂いが濃くなってきた。
去年の夏、結衣とここを歩いた。花火の夜、浴衣姿で歩いた。最後の朝、並んで歩いた。その記憶が、足の下の道に重なった。
砂浜に出た。
去年の朝と同じ砂浜。同じ砂。同じ波の音。同じ水平線。でも今年は夏の盛りだから、朝の光より強い光が砂に当たっていた。去年より人が少し多かった。でも同じ海だった。
蓮は靴を脱いだ。
裸足で砂浜に出た。砂が熱かった。夏の昼間の砂の熱さ。去年の朝は冷たかった。今年は熱い。同じ砂が、こんなに違う温度を持つ。
波打ち際まで歩いた。
波が来て、足を濡らした。冷たかった。夏の海なのに、波は冷たかった。去年の結衣が言っていた言葉が聞こえた気がした。「冷たい」と言っていた声が。
でもそれは記憶の中の声だ。
幻聴じゃない。ただの、大切な記憶。記憶は薄れる、と結衣は言っていた。でも今日は薄れていなかった。声の高さも、言い方も、ちゃんとそこにあった。
蓮は水平線を見た。
どこまでも続く海を見た。
去年の朝、ここに立って叫んだ。好きだった、と叫んだ。声が海に出ていって、消えた。でも出した。
今日は叫ばなかった。
叫ばなくても、伝わっている気がした。毎日の中で感じている。コーヒーショップの窓から見た銀杏の揺れ方で感じた。十一月の夜に窓を開けて感じた。カーテンが揺れたとき感じた。
伝わっている。どこかに届いている。
胸の中に、何かが満ちてくる感じがした。
悲しみでも、喜びでも、懐かしさでもない。
あえて名前をつけるなら、そう。
夏だった。
きみがいた夏が、今も自分の中にある。それは終わっていない。終わらない。結衣がいなくなっても、あの石段の時間は消えない。ラムネを光にかざした午後は消えない。花火の横顔は消えない。砂浜で触れた冷たい手の感触は消えない。
全部、蓮の中にある。
波が来て、足元を濡らした。返って、また来た。
蓮はその繰り返しをしばらく受けていた。受け止めて、また次の波を待った。波は必ず来る。来て、返って、また来る。その繰り返しが続く。
海の向こうに、雲が一つあった。
白い、夏の雲。入道雲になりかけたような、もくもくとした形の雲。去年も同じような雲があった。汐崎の夏の空にはいつも、そういう雲がある。
どこかから、風鈴の音がした。
聞こえるはずのない場所なのに、確かに聞こえた。神社はここから見えない場所にある。風鈴の音が届く距離じゃない。
でも聞こえた。
ちりん、と。
蓮は空を見上げた。
青くて、高くて、遠かった。
汐崎の空は、東京の空より少し広かった。ビルがなくて、遮るものがなくて、空が全部見える。水平線から真上まで、ひとつながりの青。その青の中に、白い雲が一つあった。
きみがいた夏は、もう終わらない。
そう思ったら、自然に口角が上がった。
一人で、笑っていた。
砂浜に一人で立って、海を見て、誰にも頼まれていないのに笑っていた。
波が来た。
足元を濡らして、返った。
また来た。
夏が、続いていた。
水平線の向こうまで、夏が続いていた。
どこかで結衣がいる夏が、蓮の中でこれからも続いていた。
二枚の半券と、風鈴の「返事」。悲しみとしてではなく、温かさとして、「どこかにいる」ことを感じられる日が来ました。夏は、まだ蓮の中で続いています。




