第3章 英雄と怪物の血色投影
一、決裂の夜:外された勲章
作戦室内は死んだような静寂に包まれ、高層幹部の冷酷無情な声だけが、冷たく空気中にこだましていた。
クラウドは両目を閉じ、深く息を吸い込む。
再び開いたその瞳の奥にあった組織への失望や迷いは、すでに跡形もなく消え失せていた。残されたのは、万年氷河のごとき極致の冷酷と、揺るぎない決意だけだ。
彼はゆっくりと手を伸ばし、胸元で銀白色の光を放つ繊細な勲章を撫でた。
それは駆魔公安における最高の栄譽であり、彼とレイブンが幾度もの生死を賭けた死闘の末に勝ち取った栄光だった。だが、今の彼の目には、スラム街の貧民の血で濡れた汚らわしい鉄くずにしか映らなかった。
『ビリッ――!!』
クラウドは片手で力任せに引きちぎり、誰もが憧れるその勲章を無理やり剥ぎ取る。
『カチャン……』
澄んだ冷たい金属音が、静まり返った室内に響き渡った。
クラウドは、長官の目の前に広がる豪華なマホガニーの机の上に、その勲章をそっと置いた。彼は背筋を真っ直ぐに正すと、長官に向かって微かに一礼し、波一つ立たない静謐な口調で告げた。
「長官……本日をもって、辞職させていただきます。今まで、お世話になりました」
「おい……クラウドっ! お前――っ!」
長官の顔色が劇的に変わり、猛然と目を見開く。彼は机を叩いて立ち上がり、獣のような咆哮をあげた。
「自分が何を言っているのか、分かっているのか!? 駆魔公安を去って、お前が一体何になれると言うんだ――っ!?」
傍らにいたレイブンは、その醜態を冷ややかに見据え、力なく長いため息をついた。
彼は大きな手で煩わしそうにボサボサの髪をかきむしると、眼鏡を押し上げ、激怒と動揺を隠せない長官の視線の前で、ゆっくりと立ち上がる。
『カチャン……』
二つ目。最高峰の錬金専門家たる証の勲章もまた、レイブンの手によって無造作に机の上に投げ出された。それは、クラウドの勲章のすぐ隣へと転がり落ちる。
「すみませんね、長官」
レイブンの口元に、世を拗ねたような冷笑が浮かんだ。
だがその瞳の奥には、クラウドと全く同じ、眩いばかりの熱い炎が燃え盛っていた。
「こいつは昔から猪突猛進でしてね。僕が隣で監視しててやらないと、今日の晩飯にすらありつけないかもしれないんです。だから――僕も、一緒に辞めさせてもらいますよ」
「レイブンっ! お前まで狂ったというのか……!?」
長官は全身を激しく震わせた。その怒号は、作戦室の天井を突き破らんばかりだった。
だが、二人の若き戦士は、背後の咆哮にもはや一切耳を貸さなかった。
クラウドは壁に立てかけられていた重型錬金大鎌を、逆手に力強く握り直す。薄暗い光の中で、その刃先が身を切るような冷気を放った。
レイブンは紫青色の雷光を散らす電光杖を片手で引っ提げ、二人は肩を並べて振り返る。
そして――雨の降る夜の大門へと、大街道を大股で歩み出した。
迷いも、後退も、ない。
安全で豪奢な指揮部を背にし、身を切る狂風と冷雨を全身に受けながら、二人は城南のスラム街という、漆黒で万の鬼が哭泣する深淵へとまっすぐに飛び込んでいった……。
二、英雄と怪物の面影
『ズバッ――!!』
漆黒のスラム街の路地裏で、鮮血が豪雨のように夜空を切り裂いた。
その夜。
クラウドとレイブンは、狂暴な食屍鬼の群れの渦中で背中合わせに立っていた。
鎌影は雷光のごとく閃き、紫電は荒海のごとく広がる。二人は疲労も忘れ、狂ったように斬り結び、足元には怪物の死体がすでに山と積まれていた。
クラウドが荒い息を吐き、顔の血汚れを拭った、その瞬間。
彼の右眼球が、猛然と収縮した――。
混乱する街角の瓦礫の陰から、巨躯を誇る見覚えのある漆黒の影が、壁際に蹲る一組の母子に向かって一歩、また一歩と歩み寄っていたのだ。
あの分厚く狂暴な血気、あの鋼鉄のごとき皮膚と毛皮……。
それは毎夜、彼の左側にある空洞で激痛を放つ眼窩の中に浮かび上がり続ける悪夢――高階魔物「ブラッドウルフ」だった!
(奴だ……っ! かつて俺の左眼を奪った、あの忌々しい怪物……!)
クラウドの瞳に、長年蓄積された狂おしいほどの怒りと、正義の執念が爆発した。
今回の自分は、もはやあの日のような弱く無力な子どもではない。天下に名を轟かす、公安の「白衣の死神」なのだから!
『シュッ――!!』
クラウドの姿は一筋の白い雷光と化し、空気を引き裂く爆音が響いた瞬間、すでに魔物の懐へと肉薄していた。
手にした錬金大鎌は闇を切り裂く血色の弧光となり、天地を滅ぼすほどの凄まじい破壊力を纏って振り下ろされる――!
『バシャッ――!!』
悲鳴を上げる隙すら与えず。
あの巨躯を誇るブラッドウルフは、一刀のもとに真っ二つに切り伏せられた。
巨体がぬかるんだ石畳の上に重々しく倒れ込み、温かな鮮血が、泥だらけの通りを赤く染め上げていく。
クラウドは長く息を吐き出し、鎌の刃から血を振り払うと、背筋をピシリと伸ばして振り返った。
彼は、救世主たる高潔で温和な笑みを浮かべ、壁際で生きた心地のしない母子に向かって優しく声をかける。
「もう怖がらなくていい……。魔物『ブラッドウルフ』は、俺が斬り伏せた。もう安全だ」
しかし。
彼の想像していた感謝も、住民たちの歓声も、訪れることはなかった。
物陰で。
全身泥まみれの幼い少年が、地面で二つに引き裂かれた狼人の遺骸を、穴があくほど見つめていた。
彼の瞳孔が急速に開き、堪えきれなくなった涙が決壊したように溢れ出す。秋風に揺れる落ち葉のように激しく身体を震わせ、少年は突然、胸をかきむしるような絶叫をあげて泣き叫んだ。
「父さん……父さん、やめてよ……っ!!」
クラウドの脳内で「ドカン」と激しい音が響き、口元に張り付いていた救世主の笑みが、瞬時に凍りついた。全身に、電流が走ったような衝撃が駆け抜ける。
少年は狂ったように駆け寄ると、クラウドの――狼人の血に染まった純白の戦袍を、死に物狂いで掴みしめた。
汚れきった幼い手に絶望の力を込め、雨のように狂乱して彼を殴りつけながら、自傷に近い悲痛な叫びを絞り出す。
「父さんを返せよ……! 父さんを返してよっ……! あの人は魔物なんかじゃない……僕の、自慢の父さんなんだ……っ! この死神……! 人殺し、殺人鬼――っ!!」
傍らでは、母親がぐったりとした子の頭を抱きしめ、無残に引き裂かれた狼人の遺体の前で崩れ落ちるように膝をついていた。彼女の口から漏れるのは、声なき慟哭だった。
そして――二つに裂かれた狼人の遺体の周囲には、山と積まれた食屍鬼の死骸が散らばっていた。
……もし、この狼人が命を賭して、身を挺してここを守っていなければ。
このスラムの住民で、生き残った者など一人もいなかったはずなのだ。
『カチャン……』
クラウドの手から、重厚な錬金大鎌が力なく滑り落ち、泥水の中に音を立てて転がった。
彼は首を垂れ、「父親」の血で染まった自分の両手を見つめる。
そして、自分の服の裾にしがみつき、絶望のあまり地面に泣き崩れる少年の小さな背中を見つめた。
その瞬間。
彼の左眼にある、とうに完治したはずの空洞の傷跡から――あの日の、えぐられるような激痛が生々しく蘇った。
自分は「光の英雄」であり、悪を滅ぼす正義の騎士なのだと、疑いもなく信じ込んでいた。
だが、この少年の瞳に映る自分は――二人の平穏な日常に突如として押し入り、実の父親を惨殺した、血塗れの死神でしかなかったのだ。
後方から息を切らして追いついたレイブンは、その惨たらしい光景を目にし、青ざめた唇を激しく震わせた。
手にしていたはずの電光杖はもはや掲げることもできず、彼の全身は、鉛のような深い沈黙へと底なしに落ち込んでいった。
空の雨はますます激しさを増し、地上のあらゆる血痕を洗い流していく。
だが――この世界に刻まれてしまった最悪の罪悪と、残酷な皮肉だけは、どれほどの雨をもってしても、決して洗い流すことはできなかった。




