第2章 冷酷なる偽善の名
一、駆魔公安の特招
『ザッ、ザッ、ザッ、ザッ――!』
重く整然としたブーツの足音が、松明の揺らめく光と共に、古びた穀物倉庫を瞬く間に包囲した。
駆魔公安の精鋭部隊が、ついに到着したのだ。隊を率いる隊長は大型の駆魔剣を握りしめ、凄惨な血の海を目にする覚悟を決めていた。だが、部下を率いて倉庫に踏み込んだ瞬間、目の前に広がっていた光景に、訓練され抜いた駆魔師たちはその場で呆然と立ち尽くした。
高階魔物「ブラッドウルフ」の姿はどこにもない。
床には踏み荒らされた数袋の小麦と、広がる血の海だけが残されていた。
そして血の海のただ中で、若きクラウドが昏睡状態のまま倒れていた。その手には血に染まった錬金大鎌が固く握りしめられ、左眼からは見るに堪えない痛ましい血痕が滲み出ている。
その傍らで、顔中を涙でぐしゃぐしゃに濡らしたレイブンは、光を放つ電光杖を必死に構え、その華奢な体で親友の前に立ちはだかっていた。彼は声を詰まらせ、激しくしゃくりあげている。
「な……なんだと……?」
後方にいた隊員たちが息をのんだ。その瞳には、到底信じがたい衝撃が走っている。
「あの高階魔物ブラッドウルフだぞ……! まさか……この子ども二人が追い払ったというのか!?」
大人たちの目には、それはあまりにもあり得ない奇跡に映った。
身寄りのない二人の孤児が、自分たちの手製魔具だけで高階魔物の殺戮を食い止め、それどころか退けてみせたのだ。
指揮をとる公安隊長は、ゆるやかに長剣を収めると、瞳に宿っていた警戒の色を、途方もない衝撃と深い敬意へと変えた。彼は血の海を踏み越えて歩み寄り、威圧的な官僚風を吹かせることもなく、静かに膝をつく。
そして自身のマントを脱ぎ取ると、重傷で痙攣するクラウドの体の上にそっと掛けた。
続いて隊長は振り返り、その分厚く温かな手で、埃と涙にまみれたレイブンの頭を優しく撫でた。
その声には、真摯な愛おしさと称賛が込められている。
「坊主、お前たちは……本当に見事だったぞ」
レイブンは腫れ上がった目を上げ、どこか茫然と、そしてすがるような眼差しで目の前の大人を見つめた。涙が止めどなく頬を伝い落ちる。
が、震える声で絞り出したのは、恐怖ではなく親友への絶望的な叫びだった。
「クラウドが……彼の目が……っ!」
「心配いらん」
隊長は背後の衛生兵に力強く手を振ると、レイブンに向かって優しく微笑みかけた。
「お前の友人は必ず助けてみせる。武器を収めなさい。さあ、私と一緒に来るんだ――」
隊長は立ち上がり、前途洋洋たる二人の少年を、眼光を鋭く光らせて見据えた。
「今日から、駆魔公安がお前たちの家だ。この世界には、お前たちのような英雄が必要なのだ」
その夜。
医療班の急ぎ足と、馬車が立てる車輪の音のなかで。
重傷を負い血を流し続けるクラウドと、目頭を真っ赤にしたレイブンは、ロンドンの駆魔公安本部へと続く道へと、正式に足を踏み出していった。
二、偽善の名の下に
数年が流れた。
歳月と、数百回に及ぶ血戦の洗礼は、かつての衝動的で軽薄だった少年を、駆魔公安で最も精鋭たる中核の戦士へと鍛え上げた。
クラウドは、雪のように純白の駆魔長袍を身に纏い、その左眼には漆黒の眼罩を着用していた。その眼光は、当時の面影を残さないほど冷徹かつ鋭利だった。
彼の隣に立つレイブンは、片手で軽く眼鏡を押し上げる。その一挙動にはすでに幼さが消え失せ、一介の天才錬金専門家としての冷ややかな風格を漂わせていた。
しかしこの日、本部作戦室の空気は、まるで凝固した鉛のように重苦しかった。
巨大なジオラマ領域の前で、華麗な軍服に身を包んだ駆魔公安の高層幹部が、スラム街のエリアをコンコンと指で叩く。
彼は、底冷えのする冷酷な口調で告げた。
「諸君、最も厄介な事態が発生した。『死霊王』オシリスが自ら膨大なスケルトン軍団を率い……城南のスラム街を完全に占拠した」
作戦室内は、死んだような静寂に包まれた。
幹部たちは互いに顔を見合わせ、その瞳にわずかな恐れを浮かべる。
ただ一人、クラウドだけは微塵も怯まなかった。
彼は背筋を正し、一歩前へ踏み出す。澄んだブーツの音が沈黙を切り裂き、その唯一残された瞳には、正義の炎が熾烈に燃え上がっていた。
「長官! 私に部隊を率いさせてください! 正面から食屍鬼どもの注意を引きつければ、スラム街が蹂躙される前に住民を救い出せます!」
長官は、ゆるやかに振り返った。
その冷ややかな瞳でクラウドを品定めするように見つめ、鼻で笑うように首を横に振る。
「ならんよ、クラウド。君とレイブンは、我が公安が手塩にかけて育て上げた最高戦力だ。あのような卑しい場所で犬死にさせるわけにはいかない。今夜……我々は全軍撤退する」
「撤退……!?」
クラウドは、まるで雷に打たれたようにその場に固まった。
かつて人民を守ると誓った目の前の高官を信じられない思いで見つめ、その声は衝撃のあまり激しく震えた。
「じゃあ……スラム街にいる数万の民はどうなるのですか!? 俺たちが撤退すれば、奴らは食屍鬼どもに生きたまま引き裂かれるんですよ!」
クラウドの必死の詰問に直面しても、長官の眼光には欠片の動揺すらなかった。
それどころか、その口元には極めて残酷で、当たり前と言わんばかりの冷笑が浮かんでいた。
「クラウド、理解したまえ。正義というものはな……時に必要な犠牲を伴うものなのだよ」
長官は歩み寄ると、強張ったクラウドの肩をポンポンと軽く叩いた。
そして、低く、泥のように陰湿に囁く。
「あの貧民どもを囮にして死霊軍団を足止めさせてこそ、我々は十分な時間を稼ぎ、安全に撤退できる。これは駆魔公安の戦力を維持するための『大局観』というものだ」
(民を……囮にするだと……?)
(大局観、だと……?)
クラウドは拳を限界まで固く握りしめた。
力が入るあまり、指の関節が真っ白に弾け飛ぶかのようだ。頭のなかで、キィィィンと耳鳴りが激しく響き渡る。
眼前に広がる、荘厳で神聖であるはずの駆魔公安の大殿が――この瞬間、死霊軍団よりも深く歪み、反吐が出るほど邪悪な巣窟へと変貌したように思えた。
傍らにいたレイブンは冷や汗を流し、大慌てでクラウドの震える腕を強く押し抑えた。
極度な怒りのあまり、親友がその場で長官を斬殺するという破滅的な暴走を引き起こすことを、彼は本能的に恐れていた――。




