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魔物探偵事務所~白衣の死神~  作者: 星野翔


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第12章 罪深き双の掌

翌朝の薄冷たい朝光が、静まり返った駆魔公安本部を照らし出していた。


総司令室の最高権力を象徴するその椅子は、今や完全に空席となっていた。

レイブンは「竜の島」における狂竜王の暴走と大敗の責任を一手になぞり、正式な辞職請願を提出して故郷へと引退していったのだ。


次いで、静寂に包まれた軍事会議室へと踏み込んだクラウドの表情に、迷いの色は一筋もなかった。

昨夜、無数の流星の下でディアンナが口にした――《他者を守るために命を奪い、自責の念に苦しむあなたは見たくない》という言葉が、今も彼の耳朶に優しく焼き付いている。


彼は胸元に輝いていた最高栄誉の勲章を外し、数々の激戦をともに潜り抜けた白袍の隊服をその手で脱ぎ捨てる。そして、かつての机の上にそれを綺麗に重ね置いた。

さらに彼は、いまも地下の医療室で懸命に魔化器官の移植を受けているキンレオンを、自身の特別突撃隊隊長の後任として力強く推挙した。


彼は決然と背を向ける。

半生の青春と、無数の血を捧げたその巨大な大殿を、彼は二度と振り返ることなく、大股で去っていった……。


裏庭をかすめる初夏の微風のなか、柔らかな朝の光が自宅の玄関前にあたたかく落ちていた。


重い、しかしどこか晴れやかな足取りで家路についたクラウドの目に飛び込んできたのは――。

生まれたばかりの我が子、コルヴォスをその腕に抱きしめ、庭のベンチで待ち構えていたディアンナの姿だった。


愛する父親の帰宅に気づいたのだろう。

小さなコルヴォスの瞳が、瞬時に星のように輝きを増す。彼は愛らしい小さな手を精一杯に振り、ディアンナの腕のなかでキャッキャと両手をいっぱいに伸ばして、父親からの抱っこを無邪気にねだってきた。


ディアンナは、この世で最も温かな笑みを浮かべ、柔らかな声をかける。


「おかえりなさい、クラウド。ほら見て……コルヴォスが、あなたに抱っこしてほしいみたいよ」


「ああ……」


クラウドの胸のなかに、形容しがたいほどの深い慈愛が満ちていく。

彼は一身の疲弊と、長年身に纏ってきた公安の警戒を完全に解き放ち、我が子をその腕に受け止めようと、幅広くてゴツゴツとした大きな手をそっと差し出した。


だが――。

その指先が、我が子の柔らかい肌に触れようとした、まさにその刹那。


脳裏の底の底で、あの悪夢のような記憶が激しく爆ぜた。

胸をかきむしるような、毒怨に満ちた少年の叫び声が響き渡る。


(父さんを返せ……っ! この死神……! 殺人鬼――っ!!)


あのスラムの少年の、血を吐くような慟哭と、あの夜の濃密な血の匂い。

それが一瞬にして彼を呑み込み、彼の眼に映る「差し出そうとした自身の両手」を――いつしか、粘稠で滾る生臭い鮮血に染まりきった醜い魔物の手へと、歪めて見せつけた。


「くっ……やめろ……っ!!」


クラウドの額に青筋が浮き上がり、その頑健な身体がガタガタと激しく震え出した。

彼はまるで蛇にでも噛まれたかのように弾かれ、差し出していた両手を引っ込めると、自分の背後へと強く隠す。そして、荒い息を吐き出しながら、自責と底知れぬ恐怖にその瞳を大きく歪ませた。


――たった今、己の手で奪った命の記憶と、消せない罪に塗れた手で。

この世界で最も無垢で、最も美しい新しい命に触れることなど、耐えられるはずがなかった。


「クラウド……? 一体どうしたの?」


夫の突然の蒼白な横顔と、その怯えたような瞳に気づき、ディアンナが不安そうに問いかける。


クラウドは肺の腑まで深く息を吸い込み、胸のなかで暴れる動揺を、その強靭な意志で強引に押し殺した。

彼はゆっくりと首を垂れ、痛みを孕んだ掠れ声で、しかしはっきりと告げる。


「今度にしてくれ……ディアンナ。俺が……この身体の奥深くに染みついた罪と血の匂いを、綺麗に、完全に洗い流せたら……その時に、この手で思いきり抱いてやる」


顔を上げた彼の瞳には、ここ数年の苦闘のなかで見たこともないほど、どこまでも晴れやかで、そして深い愛に満ちた笑みが浮かんでいた。


「今日、駆魔公安に正式な辞任届を出してきた。……もう、何も気にする必要はない。家族三人で、遠い田舎へ帰ろう。どこかの広大な草原で、牛や馬を飼ってのんびり暮らすんだ」


ディアンナは目元をわずかに赤く染めながらも、それ以上に甘く美しい笑みを咲かせた。

彼女はコルヴォスの小さな手にそっと触れながら、愛おしそうに呟く。


「本当ですか……? もし途中で嘘だったら……私、絶対に承知しませんからね」


「俺が、いつお前を嘘つき呼ばわりしたんだ」


愛おしい妻の笑顔を見つめるクラウドの右眼から、かつての冷たさは完全に消え失せ、その声には溢れんばかりの底抜けの愛おしさが宿っていた。


ふと、彼は自宅の窓から、遠くに見える公安本部の方角へと視線を向ける。

そして、わずかに眉をひそめて尋ねた。


「そういえば……できるなら明日にもこの街を発ちたいんだが。……お前の『最高研究所』の方の引き継ぎや後始末は、もうすべて済んだのか?」


「研究所」の名が出た瞬間、ディアンナの表情からパッと明るさが引き去り、代わりに重苦しい影が深く差し込んだ。


彼女はわずかに唇を噛み締め、クラウドの頑丈な身体へとそっと身を寄せると、周囲を警戒するように声を潜める。


「実はね……少しだけ、厄介な難題が残っているの。ラボで秘密裏に進めていた『赤色飛龍』の魔核と、その人工培養技術の開発に、つい先日成功したのだけれど……」


数年前、レイブンをあわや死の淵に追いやった狂竜王の暴走と、竜の島を壊滅寸前にまで追い込んだあの惨劇を思い出し、彼女の華奢な肩が微かに震える。


「あの時の狂竜王の失敗データを徹底的に分析して、ようやく分かったのよ……竜種の魔力活性はあまりに強大すぎて、制御性が極めて低いわ。もしこんなものが、良からぬ人々の手に渡ったりすれば……いつ、あの時以上の破滅的な反動を引き起こしてもおかしくないの」


クラウドの鋭い眼光が、一瞬にして凍りつくような色に変わった。

「そんな危険な代物、もし高層部の連中が知れば……」


「クラウド……私に、考えがあるの」


ディアンナは泉のように澄んだ瞳で夫をまっしっかりと強く見つめた。

そこには、母親としての不安と、組織の闇に立ち向かう一世一代の賭けに出るための固い決意が同居していた。


「……私の言うこと聞いて、怒らないでね」


夫が優しく、すべてを受け入れるように頷くのを確認すると、彼女は――公安全体を根底から揺るがすほどの、驚天動地の決意を口にした。


「あの『赤色飛龍』の魔核と、そのすべての核心資料を……今夜、私が密かに持ち出して、残らず完全に破壊しようと思うの」


彼女の声にはもはや一切の躊躇も迷いも挟ませぬ、強固な鉄の意志が宿っていた。


「あれは……私が自分の手で生み出してしまった技術だもの……。あんなものを高層部に利用させて、これ以上『殺戮のためだけの化け物』を量産させるなんて……私には、耐えられないわ!」


妻のあまりに大胆不敵で、しかし気高い宣言を聞いても。

クラウドに驚愕の色や、それを叱責するような言葉は微塵もなかった。


目の前にいる、優しく、そして誰よりも強靭な魂を持つ妻を見つめるうち、彼の胸には深い誇りと、どうしようもないほどの愛おしさがこみ上げてくる。

彼は温かなその手で、ディアンナの冷たくなっていた手をしっかりと優しく包み込んだ。


「馬鹿な無茶を言うな……そんな危険な真似、お前がやる必要はない。俺にすべて任せればいい」


彼は妻の髪をそっと撫で、言い聞かせるように優しく囁く。


「お前は家で、コルヴォスの面倒をしっかりと見て、ただ待っていればいいんだ。俺が……この手ですべてを綺麗に片付けてくる。そしてすべてが終わったら……二人を連れて、必ず故郷の牧場へ帰る」


正義と愛のために、再びその身を死地へと投じる覚悟を決めた夫の瞳を見つめ、ディアンナの心は熱い涙が溢れ出そうになるほど深く溶かされていった。


「ありがとう……クラウド……」


西の空から、夕陽の黄金色の余暉がゆっくりと二人を優しく包み込んでいく。

クラウドは片腕でディアンナのしなやかな腰をぐっと抱き寄せ、深々とその胸元へと引き寄せると――そのまま彼女の両唇へと、自身の唇を重ね合わせた。


温かな光と影のなかで、深く永遠を誓うように交わされる接吻。

その空気には、訪れる未来への純粋な憧れと、何者にも引き裂けない確かな愛が満ちて――あらゆる世界の陰霾を、ただひととき、窓の外へとしっかりと切り離していくのだった。

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