終章 かなわぬ抱擁
第一幕:無人の罠
深夜。
駆魔公安最高研究所の冷たい回廊に、硬質な金属音――『カチャリ』と、鍵が回転する音が響いた。
クラウドは闇に身を滑らせ、ラボの奥深くへと侵入する。彼は妻の助言に従い、かすかな熾紅の光を放つ「赤色飛龍の魔核」と、分厚い核心機密ファイルを首尾よくその手で回収した。
だが。
目的の品を懐に入れた瞬間、クラウドの背筋に、尋常ではない身を切るような戦慄が走り抜けた。
――妙だ。あまりにも、スムーズすぎる……。
普段であれば厳重な警戒が敷かれ、屈強な歩哨が三歩ごとに立つはずの最高研究所。だが今夜は、駆魔公安の守衛の姿が、ただの一人も存在していなかった。
世界の頂点に立った戦士としての本能が、脳裏で狂ったように警鐘を打ち鳴らす。
これは決して、警備の不注意などではない。――自分をこのラボへとおびき出し、その隙に手薄になった家族を直接狙うための、あまりに致命的な策謀だっ!
(まずい……! ディアンナ……っ! コルヴォス……っ!!)
クラウドの瞳孔が、恐怖に激しく収縮する。
彼は魔核と資料を胸元へ乱暴に押し込むと、研究所の床を蹴り飛ばし、一筋の白い残像と化して城外の自宅へと向かって、狂ったように全速力で疾走した。
第二幕:烈火と母性の長剣
冷たい夜風が吹き荒れ、大気には次第に刺すような焦げ臭さと、肌を焦がす異常な熱気が混ざり始めていた。
狂ったように自宅の敷地へと駆け戻ったクラウドの目に飛び込んできたのは――彼の精神を根底から抉り取る、余りにも凄惨な光景だった。
かつて温かな幸福に満ちていた庭園は、今や滾る烈火に包まれた、血色の惨たらしい廃墟へと変貌し果てていた。
もうもうと立ち上る火柱が天を突き、熾熱の余燼が猛吹雪のように四散する。その炎の庭の中央で――。
ディアンナが左手で襁褓の中のコルヴォスを愛おしそうに自身の胸へと引き抱き、右手で引き抜いた長剣を鋭く構え、異形にして凶暴な殺意を撒き散らす数頭の「狂龍使徒」と、文字通り死闘を繰り広げていたのだ!
『キンッ――!!』
長剣が魔物の鋭利な巨爪に叩きつけられ、眩い火花が夜空に散る。
白袍を纏ったディアンナの口元からは痛々しい血が滲み、その衣服はすでに幾重もの深い傷口によって無惨に引き裂かれていた。それでも彼女は、腕の中で泣きじゃくる我が子を死に物狂いで庇い、一歩たりとも後退しようとはしなかった!
「ガアアァァァッ――!!」
巨躯を誇る狂龍使徒の一頭が、ディアンナの体力が限界に達したその瞬間を逃さず、死角から破空の勢いで襲いかかった。
鋼刀のごとく鋭利で漆黒の五本爪が、すべてを毀滅する破空の勁風を伴い、コルヴォスの柔らかな頭部めがけて容赦なく突き刺さる――!
「――嫌っ……!!」
ディアンナの目頭が裂け、絶叫しながら剣を振るって防ごうとするも、コンマ数秒――到底、間に合わない!
第三幕:肉身の盾
『ドスッ――!!』
天を焦がす満天の火光の中、鮮血が、狂おしいほどの深紅の薔薇のごとく激しく咲き誇った!
時間があたかもこの一瞬において、無限に引き延ばされたかのように感じられた。
躊躇は、微塵もなかった。
一筋の白き影が、人間の限界を超越した極限の速度で空間を引き裂き、二人の間に割り込んだ!
クラウドは両腕を大きく広げ、己の肉身を「大字」の形にして、愛する母子の眼前に死に物狂いで立ちはだかったのだ!
――鋼鉄をも容易く引き裂く、あの五本の漆黒の利爪が。
容赦なくクラウドの胸膛を深く貫通し、その背中へと鋭く突き抜けた。
「ガハッ……ッ!!」
滾り、濃濁した鮮血がクラウドの口から激しく噴出し、周囲の炎と視界を真っ赤に染め上げる。
凄まじい激痛によって意識が暗転しかけるが、彼は奥歯を限界まで噛み締め、自分の胸を背後まで貫く狂龍使徒の腕を、両手でまるで鉄の万力のごとく死に物狂いで掴み取った。
そして、すべてを絞り出すような、天を震わせるヒステリックな咆哮を叩きつける。
「ディアンナ……っ! コルヴォスを連れて……早く、ここから逃げろぉぉぉぉ――っ!!」
第四幕:かなわぬ抱擁
「クラウド――っっ!!!」
ディアンナの目頭が完全に崩壊し、声の限りの絶叫が夜空に哭泣した。
全身を血に染め上げ、自らの肉体を狂気的な盾にして、自分たちへの致命の一撃を身代わりに受け止めた夫の姿を目にし――彼女の心は、文字通り千々に砕け散った。
だが。
その腕の中で、乳を求めて恐怖に泣き叫ぶ我が子コルヴォスの存在が、彼女を現実に引き戻す。
ディアンナは下唇を血が滲むまで強く噛み締め、溢れる血を拭い、涙を無理やり拭い去った。彼女は、夫の無私なる愛と、その命懸けの「最後の遺託」を心に深く刻み込み、我が子を抱いたまま、漆黒の森の奥深くへと死に物狂いで走り出した!
『ドスッ! ドスッ! ズサッ……!!』
背後から、幾多の残酷な利爪と尖棘が、次々とクラウドの肉体を容赦なく貫いていく。
腹部、肩甲骨、大腿部……噴水のように鮮血が四散し、彼の肉体はすでに原形をとどめぬ血の塊へと変貌し果てていた。
だが――。
かつて天下に名を轟かせた「白衣の死神」の足取りは、その場に大山のごとく、死に物狂いで釘付けにされていた。
たとえ両脚の骨が砕けようとも。たとえ内臓が破裂しようとも。
彼は燃え盛る烈火の中に仁王立ちし、その崩壊しかけた残骸の肉体をもって、決して跨ぐことの許されない「鋼鉄の壁」と化し、追撃を試みるすべての使徒を死力で阻み続けたのだ!
「ハッ……ハッ……」
視界が、急速に、混濁していく。
耳の奥には、ディアンナと我が子の遠ざかっていく切実な足音が、確かに響いていた。
クラウドは、燃え盛る烈火のなかに佇んでいた。
彼は妻と子が走り去った方角を遠く見つめ、全身の最後の力をかき集め、すでに血肉が失われかけた右手を震わせながら持ち上げ、誰もいない虚空に向かって、そっと手を伸ばした……。
それは――かつて、早朝の庭で自責と血の汚れゆえに、恐ろしくて引っ込めてしまった手だった。
そして今、彼は、二度と最愛の我が子に触れることが叶わなくなってしまった。
クラウドの口元から鮮血が絶えず垂れ落ち、その唯一残された右眼には、どこまでも優しく、そして晶瑩とした美しい涙が浮かんでいた。
彼は、この世界に遺す最後の言葉を、しゃがれ果てた声で静かに呟く。
「すまない……コルヴォス……」
「父さんは……最後まで……お前を、抱いてやれなかったな……」
『ドドド――ッ!!』
容赦ない烈火が、彼の最後の姿を完全に呑み込んでいく。
そして、あの高大な父親は――右手を虚空に伸ばした異形の姿勢のまま、血と炎の廃墟の中に、まっ直ぐに、仁王立ちし続けていた。
――その魂が消え果てる、最後の瞬間まで。




