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黒霜検分役の席

 送付帳の写しへ新しい紙を重ねたところで、裁縫部屋の扉に乾いた音が三つ続いた。


 まだ朝の冷えが床板へ残っている。小炉の火も細く、机に広げた紙の端だけがわずかに反っていた。リゼットが顔を上げると、戸口に立っていたのは出納係の若い書記だった。肩で息をしていて、手には封を切っていない帳面を抱えている。


「兵站と出納の会議へお越しください。止める布をいま決めないと、昼の荷車が出せません」


 呼ばれ方が、昨日までと違った。繕い手としてではない。帳場の順を決める側として、名指しされている。


 リゼットは乾き切った写し紙を重ね、細紐で留めた。南祭室の欠け布から取った半巡の写しは、もうただの手元資料ではない。ここ数日で、現場の布も記録も、その順ひとつで止まるか動くかが変わると分かった。


「すぐに参ります」


 出納会議の部屋は、領主館の北側廊下を折れた先にあった。磨かれた木机は冷えていて、窓際には朝の薄い光が差している。その机の上へ、外套地の束、受領帳、封蝋つきの請求書、そして灰色にくすんだ肩当て布が並べられていた。


 部屋にはヨナス、兵站係長、工房のまとめ役、それに倉庫番の老人がすでに揃っている。視線が一度にこちらへ向き、けれど誰も「なぜ彼女がここへ」という顔をしなかった。そのことの方が、リゼットには新しかった。


 机の奥、窓を背にして立っていたアレクシスが顔を上げる。


「来たか」


 短い声と同時に、彼は自分の右隣の椅子へ視線を向けた。


「そこへ。今日の黒霜絡みは、検分役の判断で進める」


 兵站係長がすぐに頷き、倉庫番も何も言わず一歩だけ席をずらした。席を譲られたことより、その動きに迷いがなかったことの方が胸へ響く。


 リゼットが椅子へ手を掛けると、木肌の冷たさが指先に移った。冷たいのに、借り物の席には感じなかった。


「いま朝の荷へ回す予定だった冬外套の肩当てから、黒霜に近い噛みが見つかりました」


 兵站係長が肩当て布を広げる。厚い羊毛の裏へ、灰色の返し糸が潜っていた。


「王都から先月入った補修分です。倉庫で積み替えるまでは気づきませんでした」


 リゼットは手袋を外し、布の継ぎ目へ指先を滑らせた。冷えが残る位置は右肩寄り。伝令外套ほど深くはないが、返しの入り方が明らかに不自然だ。背へ溜めるべき熱が、肩へ戻る前に斜めへ逃がされている。


「同じです」


 思わず出た声に、工房のまとめ役が身を乗り出した。


「伝令外套と?」


「はい。礼拝堂の欠け布にあった肩返しを、もっと浅く縮めてあります。まだ噛みが弱いから、布は保っています。でもこのまま峠道へ出せば、寒気の強い夜に一気に黒霜へ変わります」


 倉庫番が苦い顔をした。


「全部止めるとなると、今夜の薬草庫向けが遅れます」


「全部は止めません」


 机に並ぶ受領帳へ目を落としながら、リゼットは言った。


「この肩当てが混じっているのは、王都仕入れの七番箱と九番箱だけです。肩へ渡す補修布の束が同じ印でまとめられています。他の箱は領内の織り直し分なので動かせます」


 兵站係長がすぐに帳面をめくる。


「七番と九番……確かに仕入れ印が違う」


 ヨナスが請求書の束から一枚を抜き出し、机の中央へ置いた。封蝋は灰に銀を混ぜた色で、南祭室の控え札に残っていた蝋の滲み方とよく似ている。


「王都サヴォア針工房からの納品書です」


 その名を見た瞬間、胸の内で何かが小さく固まった。南祭室の送付帳にあった経由先。欠けた原布が通った工房だ。


 リゼットは納品書の端を押さえ、肩当て布の裏と見比べた。表には飾りのない実務布なのに、見えない縫い代の奥でだけ、王都礼装に使う裏飾りの癖が混じっている。見せ物の飾りではない。知っている者だけが選ぶ縫い方だ。


「この工房は、肩へ熱を返す順を知っています」


 部屋の空気が少しだけ変わる。


「礼拝堂の布を見たことがあるか、記録を読んだか、そのどちらかです。ただ似せただけではこうはなりません」


 工房のまとめ役が腕を組んだ。


「なら王都仕入れは全部外しますか」


 リゼットは首を振る。


「外すのは肩当てと返し糸だけで足ります。表地まで止めると荷が遅れます。領内で織った替え布を肩へ回し、王都分は記録ごと別箱へ。倉庫で混ぜないでください」


「半日で組み替えられるか」


 アレクシスの問いに、工房のまとめ役は一度だけ肩当て布を見てから答えた。


「検分役殿の印があれば、昼までに」


 その一言が、まっすぐこちらへ向く。確認ではない。必要な手順として求められていた。


 リゼットは息を吸い、写し紙を机へ出した。南祭室で取った肩返しの半巡。その端へ、いま見た肩当て布の流れを簡単に書き足す。


「この順で黒い噛みが入ります。七番と九番はここが同じです。倉庫に残っている肩当て束も、この曲がり方をしているものだけ止めればいい」


 兵站係長は写し紙を覗き込み、すぐ隣の書記へ声を飛ばした。


「止め札を作れ。七番箱、九番箱、肩当て束の検分待ち」


 書記が走り書きで控えを取る。部屋の中の動きが、一瞬で変わっていく。


 アレクシスはその様子を見てから、請求書の束をひとつリゼットの前へ押した。


「支払いも同じ判断でいいか」


 その問いかけ方に、胸の奥が小さく鳴った。外套をほどくかどうかではない。金と物の流れまで、自分の判断へ重ねている。


「はい。七番と九番の支払いは留めてください。代わりに領内織りの肩当てへ回す分だけ先に出せば、昼の荷は落ちません」


 ヨナスが頷き、兵站係長もすぐに追随する。


「では、その形で組み直します」


 けれど書記だけは羽根ペンを止めたまま、ためらうようにリゼットを見た。


「確認欄は、誰のお名前で立てましょう」


 いままでなら、ヨナスかアレクシスの名を書いたはずだ。短い沈黙が落ちる。


 その沈黙の中で、リゼットは自分の鼓動を聞いた。置いてもらった席へ座るだけなら、ここで黙っていても回る。誰かが代わりに決め、書き留め、必要なら守ってくれるだろう。


 でも、それでは足りないと、もう知っている。


 昨日、伝令外套をほどいたときから。実務の手が帳場より先にこの部屋へ自分を呼んだときから。


「私の名で」


 声は震えなかった。


 部屋の全員がこちらを見る。リゼットは机の上へ指先を置いたまま、続けた。


「黒霜に関する一次判断は、私が引き受けます。置いていただいた役目のままではなく、これからは私の仕事として」


 言葉にした途端、喉の奥に残っていた薄い冷えがほどけた。怖くないわけではない。けれど、もうそれを誰かの許しの形でしか持てない場所には戻りたくなかった。


 先に動いたのはアレクシスだった。


「聞いたな」


 低い声が、部屋の端まで届く。


「今日から黒霜案件の出納と倉出しは、検分役の確認を前提に組め。判は昼までに作らせる。それまでの控えは俺の印を添える」


「承知しました」


 返事は重なって、迷いがなかった。兵站係長も倉庫番も、もう誰の席なのかを確認し直さない。


 ヨナスが書記へ顎を引く。


「欄外に新設しなさい。黒霜検分役確認」


 羽根ペンが、今度はためらわず紙を走った。


 そのとき、廊下の向こうで早い足音が止まった。扉を叩く音は控えめだったが、切迫した息遣いがその前に届く。


「失礼します。王都から急使です」


 若い従者が封書の束を抱えて入ってきた。その一番上に乗っていた長封筒を見た瞬間、リゼットの目が止まる。灰銀の封蝋。サヴォア針工房の納品書と同じ混ぜ方だ。


「兵站の照会か?」


 ヨナスが受け取ろうとしたが、従者は首を振った。


「宛先はハルヴェイン公爵家出納室。ですが、肩返し見本に関する至急照会、と」


 部屋の空気がまた変わった。


 公爵が封書を受け取り、そのまま封を割る。割れた蝋の乾いた音が、妙に大きく聞こえた。


 中には二枚の紙が入っていた。一枚は工房名義の照会状。もう一枚は、もっと上質な便箋で、ヴァレント家衣装部の副印が押されている。


 彼は先に工房からの文面へ目を通し、すぐにそれを机の中央へ置いた。


「読むか」


「はい」


 リゼットは紙を引き寄せた。


 文面はひどく丁寧だった。王都サヴォア針工房は、過去の冬礼装補修に用いた肩返し見本の一部で、予期せぬ布不調が続いていること。ヴァレント家衣装部および王都西礼拝室の掛布に、灰黒の硬化と熱戻り不全が見られること。ついては、北辺側に関連帳面または見本裂が残っているなら、至急返送もしくは閲覧の機会を願いたいこと。


 丁寧なのに、お願いの形をしていない。もう一行下へ目を落とす。


『なお、回収のための者をすでに北街道へ立たせております』


 指先がわずかに冷えた。


 追いすがるように、二枚目の便箋を開く。こちらはさらに露骨だった。


『肩返し見本はヴァレント家礼装の意匠管理に関わるため、外部保管のままにすべきではありません。特に送付帳や補修控えが残っている場合、早急な確保を求めます』


 末尾の署名は個人名ではなく、ヴァレント家衣装部の副印だけ。それでも十分だった。向こうは何を回収したいのか、もう隠していない。


「実害が出ていますね」


 兵站係長が低く言う。


「礼装だけではありません。礼拝室の掛布まで」


「見えない働きを抜いたからです」


 リゼットは二枚の紙を並べた。礼拝布として、熱を返すための半巡。それを肩の見本として抜き、さらに逆へ噛ませた。だから着る布だけでなく、祈りの布まで同じ崩れ方を始めている。


 灰青の目が視線だけで先を促す。


「どう見る」


「工房もヴァレント家も、どこが崩れたか正確に知っています。肩返し見本という名まで出してきた」


 リゼットは送付帳の写しを思い出しながら言った。


「しかも、帳面の存在まで前提にしています。ただ布が傷んだから照会したのではありません。こちらに何が残っているかを、確かめに来ています」


 ヨナスが眉間を深く寄せた。


「館の外へ漏れた可能性が?」


「いえ」


 リゼットは首を振った。


「南祭室から抜いた側が二片だったことも、肩返しとして使ったことも、向こう自身が知っていたからです。自分たちで持ち出し、使い、壊した。だから回収したいんです」


 彼が便箋を指で一度だけ叩いた。


「返すのは返書だけでいい」


 短い言葉に、部屋の中の空気が定まる。


「急使はどこに」


「北門で返答待ちです」


 従者の答えに、アレクシスは即座に言った。


「待たせろ。帳面も写しも外へ出さない。出納室は今日から王都照会の控えを別綴じにする」


「承知しました」


 ヨナスが従者へ指示を飛ばし、書記も新しい控え札を引き寄せた。さっき作られたばかりの欄へ、今度は王都照会の項目が増える。


 目の前で紙の流れが組み替わっていく。その中心へ、自分の判断欄が置かれている。


 リゼットは便箋の端を押さえたまま、ふと気づいた。ヴァレント家衣装部の副印の横に、薄く付いた灰色の擦れがある。封をする前、誰かが急いで別の紙を重ねた跡だ。工房の照会状と衣装部の要求は、最初から別々に作られたものではない。


「公爵様」


「何だ」


「この二通、同じ机で書かれています」


 全員の視線が便箋へ落ちる。


「蝋の灰が同じだけでなく、紙の端に肩当て布の繊維が付いています。工房と衣装部は、いまも同じ場所で損傷布を見ているはずです」


 つまり、焦っているのは片方ではない。礼装と工房の両方が、同じ不調を押さえきれなくなっている。


 王都側の綻びが、ようやく噂ではなく形を持った。


 アレクシスの灰青の目が静かに細くなる。


「なら次は、来る使者に何を知っていて、何を隠したいのか話させる」


 その声に、胸の奥がゆっくり熱を持った。追うだけではない。向こうから手を伸ばしてきたのなら、その手つきごと見ることができる。


 兵站係長と倉庫番が荷の組み替えへ急いで出て行き、書記も控えを抱えて走った。残ったのはヨナスとアレクシス、それにリゼットだけだ。


 静けさが戻ると、会議机の木肌の冷えがまた指先に触れた。けれどさっきと違って、それはよそよそしい冷たさではなかった。


 少し間を置いて、彼は席を立たずに問う。


「言葉にして後悔したか」


 何を指すのかは分かっていた。私の名で、と言ったこと。引き受けると言ったこと。


 リゼットは小さく首を振る。


「怖さはあります。でも、もう置いていただいた仕事のままではいたくありません」


 南祭室の写し紙、伝令外套、さっきの会議机、欄外へ増えた自分の役目。どれも借りた温もりというより、いま自分が通した手順の跡だった。


「ここでほどくのは、私が選びたいんです」


 言い切ると、アレクシスは少しだけ目を伏せた。考えるような間のあと、彼は机の上に残った空の欄を指先で示す。


「なら次からも、その席は空けておく」


 甘い響きはない。ただ事実を置く言い方だった。だからこそ、胸の内へ静かに落ちる。


 ヨナスが咳払いをひとつし、封書の控えをまとめながら口を開く。


「北門の急使ですが、三日以内に北街道の継駅まで工房側の者が来るそうです。返書はそこで受け取る手筈だとか」


 三日。


 早すぎる。向こうは照会を出す前から、回収へ動いていたことになる。


 リゼットは工房名義の文面をもう一度見た。丁寧な文字の下、回収の者を立たせたという一行だけが妙に急いでいて、筆圧が紙の裏まで抜けている。


 帳面を見たいのではない。先に押さえたいのだ。


 南祭室の欠け布も、送付帳も、こちらが追うための手順も。


 なら次に来るのは、ただの使いでは済まない。


 会議机の上で、黒霜検分役確認と書かれた新しい欄が、まだ乾かない墨で鈍く光っていた。


 そのすぐ隣に置かれた王都からの照会状は、返事を待つ穏やかな手紙には見えない。こちらの調査へ指を掛けてくる、最初の接触だった。

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