回収役の荷札
北門の詰所から人が走ってくる足音は、館の北廊下を折れる前から切れていた。
昼前の薄い光が窓硝子へ張りつき、石床には雪靴の湿りが細く残っている。リゼットが裁縫部屋の扉を開けると、使いの衛兵は肩で息をしながら一礼した。
「王都側の回収役が着きました。損傷布も持参しています。北門で、検分役殿の立ち会いを求めています」
来るのは三日以内のはずだった。予定より早い。その早さだけで、返書を受け取るためではないと分かる。
机の端に置いていた送付帳の写しへ布を掛け、リゼットは手袋を取った。ヨナスがすでに廊下へ出ており、少し後ろからはアレクシスの足音も近づいてくる。
「現物を伴ってきたなら、門で見ます」
答えると、衛兵は露骨に安堵した顔をした。誰に回すべきか迷う時間そのものが惜しいのだろう。黒霜が絡むと、布一枚でも便と支払いと人の手を止める。だからこそ、先に呼ばれる順がもう変わっている。
北門の詰所は、外気と炭火の匂いが半端に混ざる場所だった。湿った雪靴の跡、槍の石突きが擦った床の筋、その奥に、王都から来た男が立っている。
灰茶の外套に旅布の煤をつけた中年の男だった。足元には細長い木箱と、羊毛で包んだ平たい束がある。男は一礼の角度だけは丁寧で、目だけが忙しく部屋の中を測っていた。
「サヴォア針工房より参りました。北辺へご負担を掛けるつもりはありません。礼を失する前に、回収すべき見本と帳面の所在だけ確認できれば」
柔らかな物言いなのに、返す前提で来ている声だった。
ヨナスが応じるより先に、アレクシスが詰所へ入る。外気を含んだ濃紺の外套が扉際でわずかに鳴った。
「確認は彼女がする」
短い声とともに、灰青の視線がリゼットへ落ちる。
「答えも、布に触れる順も、黒霜検分役へ通せ」
男の口元が一瞬だけ固まった。公爵へ直接話を通せば押し切れると見ていたのだろう。その小さな崩れ方が、かえって助かった。
リゼットは木箱より先に、羊毛で包まれた平たい束へ目を向けた。
「損傷布を」
「こちらです」
男は慎重に包みをほどいた。出てきたのは二枚だった。ひとつは銀糸の残る細幅の肩掛け布。もうひとつは、祭礼用らしい淡灰の掛布の端裂れだ。どちらも一見すれば汚れと冬の湿りにしか見えない。けれど、近づくと違う。熱が戻らない布の沈み方をしていた。
リゼットは肩掛け布へ指先を触れた。表はまだ柔らかいのに、裏の返しだけが鈍く重い。掛布の端裂れには、灰黒の硬化が糸目に沿って薄く走っている。
肩掛け布の縁は、旅の間に擦れたにしては整いすぎていた。運搬用の粗布で包み直した痕があるのに、肝心の裏の返しだけは折り目を避けるように守られている。傷んだ布を持ってきたというより、見せる場所を選んで運んできた包み方だった。
「王都西礼拝室と、ヴァレント家礼装部屋のものです」
男が説明を継ぐ。
「ともに突然、冷えを抱えて硬くなりました。肩返し見本と無関係とは考えにくく」
その言葉の最後だけ、妙に滑った。無関係ではないと知っている者の舌だ。
リゼットは掛布の端を少し持ち上げ、裏の折り返しへ目を凝らした。縫い代の奥に、灰青の細糸で小さな印が入っている。
指先で端を撫でると、麻布の節より先に補い糸の油が引っかかった。礼拝布に使う古い麻はもっと乾いて鳴る。これは新しい糸を急いで伏せたときの湿りだ。しかも硬化を隠すため、表からは見えない折り返しへだけ浅く針を入れている。
「この掛布、八日以内に補い縫いが入っています」
男がまばたきを止めた。
「……分かるのですか」
「糸がまだ乾き切っていません。礼拝布の古い麻に対して、補いの細糸だけ油が新しい。しかも」
肩掛け布の裏もめくる。こちらの縫い代にも同じ印があった。三つの短い返しを縦へ並べ、その下に肩を示すような曲がりがひとつ。
「同じ工程記号です。返肩三刻」
口にした瞬間、男の喉が小さく動く。
工房の内側でしか使わない印なのだろう。見慣れた者なら、もっと早く隠したはずだ。
「西礼拝室の掛布と、ヴァレント家の肩掛けが、いまも同じ手順で補修されています。昔の見本が残っていただけなら、この印は新しすぎます」
ヨナスの目が鋭くなる。
「工房と衣装部は、現在進行で同じ損傷布を回しているわけですか」
「誤解です」
男はすぐに言い募った。
「あくまで応急の照合でして、実務責任は別に」
「なら木箱も開けてください」
リゼットが遮ると、男は初めてあからさまにためらった。
「こちらは返送用の書式だけです。工房印の入った受領紙と、往路の控えで」
木箱の角に積もった紙埃は、旅の揺れだけでは付き方が合わない。細い箱のくせに片側だけ沈んでおり、内側に布ではない重みが寄っている。
「その箱、書式だけなら底が深すぎます」
リゼットは肩掛け布を机代わりの台へ置き、男を見た。
「返肩三刻の印が入った布を持ち込みながら、関連帳面の回収だけを求めるのは不自然です。同じ埃が箱の留め金にも入っています。布と一緒に扱ったものが中にある」
男の視線が揺れ、すぐにアレクシスへ逃げた。だが返る声は短かった。
「開けろ」
詰所の空気がそこで定まる。
衛兵がひとり前へ出て留め金を外すと、木箱の中には羊皮紙だけではなく、小さな革袋が三つ、空欄の受領証、そして薄布に巻かれた札束が収まっていた。
革袋のひとつからこぼれたのは銀貨だった。買い戻しの金だ。受領証の記入欄には、見本裂、送付帳写し、補修控え、別保管帳と並んでいる。
しかも記入欄の下には、受取人の名だけでなく、保管責任の移転先を書く欄まであった。ただ戻すための受領紙ではない。誰の手を通って、どこで回収線を断ったかまで後から整えられる書式だ。紙の端には灰銀の蝋が欠けて付いており、第6話で届いた工房と衣装部の照会状と同じ混ぜ方をしていた。
返書だけで済ませる気ではなかった。
さらに薄布を開いたヨナスが、無言で一枚の荷札を抜き出す。上質紙の札には、工房印の横へ別の副印が重ねて押されていた。ヴァレント家衣装部の印に似ているが、さらに小さく、礼拝室管理を示す細い線が加わっている。
「西礼拝室裏倉」
ヨナスが読み上げる。
「第二棚、保全箱」
リゼットは荷札を受け取り、裏を見た。角にだけ、さっきの工程記号が入っている。返肩三刻。しかも受渡先の欄には、布ではなく箱そのものの保全札だと書かれていた。
「探しているのは帳面だけではありません」
リゼットは男へ向き直る。
「西礼拝室裏倉の第二棚にある保全箱と、こちらに残っている写しを照らし合わせたいんですね。見本裂がいまどの段まで崩れているか、帳面を消す前に確かめたい」
「そのような意図は」
「ではなぜ、保全箱の荷札を回収役が持っているんですか」
問い返すと、男は一瞬だけ答えを失った。
その沈黙で十分だった。
肩掛け布をもう一度裏返す。返肩三刻の印の横、縫い代のさらに奥に、削りきれなかった朱の線が残っている。工房印ではない。衣装部側の補修番付だ。
「こちらはヴァレント家礼装部屋から直接回った布です。西礼拝室の掛布と同じ補修線に載せられている。見本裂の働きを礼装と礼拝布の両方へ流して、どちらも崩し始めているんです」
外気が強まったのか、詰所の扉がかすかに鳴る。
男の額に、いまさら旅の汗が浮いた。
「……王都では、早急な保全が必要なのです」
「保全ではなく、先回りでしょう」
口にした声は思ったより静かだった。
「送付帳と補修控えが残っていれば、誰がどの順で肩返しを持ち出して、どこまで今も使っているかが読めます。だから回収役を早めた」
アレクシスが腕を組む気配が横で止まる。
「それで」
低い声が、判断を促した。
リゼットは荷札と空欄の受領証を並べた。買い戻しの金、返肩三刻の印、第二棚の保全箱。向こうが困っている実害は、もう目の前の布で足りている。隠したいのは、その実害がどこへ繋がるかだ。
いまここで箱を返せば、王都側は失敗した補修線ごと帳面を畳み直せる。けれど押さえるなら、南祭室の送付帳写しと繋ぐ最初の綻びになる。怖さより先に、手順が見えた。何を守るべきかが分かったとき、指先の迷いは薄くなる。
「木箱と持参布は預かってください。返肩三刻の印が入った時点で、黒霜検分の対象です。受領証もこちらで写しを取ります」
男が息を呑む。
「それでは王都側の保全が」
「先に壊した側の都合ですね」
言い切ったあと、胸の奥が少しだけ熱くなった。怒鳴ったわけではない。ただ順を外さずに、こちらの基準で返しただけだ。
アレクシスはすぐに衛兵へ向いた。
「聞いたな。箱は別室で封じろ。彼女の写しが終わるまで、回収役は北門詰所から出すな」
「はっ」
返書を急かす声も、異議も挟ませない短さだった。けれど命じた内容は、布も木箱も写し終えるまでリゼットの判断下に置くということだ。門の衛兵がその意味を取り違えず動く気配に、館の内側で通ったはずの役目が、もう北門の石床まで届いていると分かった。
衛兵たちが動き、男の立つ位置が半歩だけ狭まる。公爵が圧を掛けたのではない。黒霜検分役の判断が、そのまま門の手順へ組み込まれたのだ。
ヨナスが荷札をもう一枚めくったところで、紙の間から細い切れ端が落ちた。帳面の背へ挟んでいたらしい、紙片より少し厚い布札だ。
そこには返肩三刻ではなく、次の保管先だけが急ぎ書きで記されている。
『第二棚欠員時、灰函は東回廊写し台へ』
東回廊写し台。
西礼拝室の裏倉だけではない。見本裂か帳面の写しを置き換えるための場所が、王都側にもうひとつある。
ヨナスが紙片を指先で押さえたまま、低く言う。
「保全箱が空なら、写し台へ移す手順まで決めていると」
「ええ」
リゼットは頷いた。
「向こうはもう、隠す順まで固めています。ならこちらは、消される前提で写しと照合線を守らないといけません」
男の顔色が、そこで初めて完全に落ちた。第二棚と東回廊写し台。その二つの言葉が出た時点で、ただの回収役では済まなくなったのだと分かったのだろう。
詰所の小窓の外では、昼の荷車が石畳をきしませている。便は今日も動く。その音を聞きながら、リゼットは掛布の硬い端へもう一度触れた。奪われた熱はまだ戻らない。けれど、どこで順を狂わせたかは前よりずっと見える。
王都側が押さえたいのは、見本裂ではなく手順そのものだ。
西礼拝室裏倉の第二棚。東回廊写し台。
次に見るべき帳面と箱の所在が、とうとう布の裏から名を持って現れた。




