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伝令外套の返し糸

 南祭室から持ち帰った写し紙は、まだ机の端で乾き切っていなかった。


 煤の匂いが残る小炉のそばで、リゼットは薄い紙へ重しを渡し直す。欠けた原布の返し糸は、半巡だけ失われている。その半分があるだけで、黒霜がどこから熱を奪うか、前よりはっきり読めるようになっていた。


 そこへ、裁縫部屋の扉が強めに二度叩かれた。


「リゼット殿、先に見ていただきたい布があります」


 ヨナスの声ではない。もっと息の近い、外気をまとった実務の声だった。


 開けると、廊下に立っていたのは兵站係の女官と、雪を肩へ載せたままの若い伝令だった。女官は厚手の肩掛けを両腕に抱え、帳場へ回す前に急いで来たと分かる顔をしている。


「峠の中継塔から戻った伝令です。右肩から腕にかけて冷えが抜けず、外套の継ぎ目も朝から急に重くなりました。アレクシス様は朝議の最中で、ヨナス様も出納へ。けれど待つより先に、黒霜検分役殿へ見せるべきだと」


 その呼び方が、胸の奥へまっすぐ落ちた。


 役目の名を与えられた昨日までは、帳場や工房の誰かを通して自分へ来るものだと思っていた。いまは違う。まだ写し紙も乾かないうちに、実務の順番がこちらへ向いている。


 しかも運ばれてきたのは、飾りでも見本でもない。峠道を越えるための外套だ。ここで遅れれば、山あいの集落へ回す薬も封書も、昼の便ごと鈍る。


「机へ」


 リゼットが言うと、女官も伝令も迷わず部屋へ入った。女官は肩掛けを作業机へ広げ、伝令は右腕をかばいながら一歩下がる。


 肩掛けは厚い羊毛に防寒の銀糸を渡した、騎乗用の外套だった。雪と馬の汗を含んだ湿り気の下で、右肩の継ぎ目だけがひどく冷えている。表の布はまだ保っているのに、裏の渡りが沈み、熱の流れが途中で噛まれていた。


「これを着ていたのは、ずっと右腕が痺れていましたか」


 伝令の青年が目を見開く。


「……はい。手綱を持つ指が、峠を下りるころには動かなくなって」


 右肩から腕。アレクシスの右手へ残る痛みと、同じ流れだ。


 リゼットは写し紙を机の中央へ寄せた。南祭室で写した欠け側の綴じ順は、ちょうど肩へ熱を戻す返しと似た曲線を描いている。黒霜は原布の欠けを、着るための布へ移しかえているのだ。


「次の便は、いつ出ますか」


「昼の鐘のあとすぐです」


 兵站係の女官は振り向きざまに答えた。


「この便が落ちると、峠向こうの薬草庫へ渡す包みが夜まで止まります」


「火で温めた石と、乾いた細糸を。できればこの外套の予備布も欲しいです」


「持ってきます」


 兵站係の女官は即答して駆け出した。指示を疑う間がないほど早かった。リゼットはその背を見送り、胸の内で小さく息をつく。役目の札だけでは、人はここまで素直に動かない。昨日と今朝の仕事が、そのまま次の手へつながっている。


 伝令の外套を裏返す。右肩の継ぎ目には、見覚えのある返し糸が潜っていた。冬祈りの原布から欠けた半巡を、肩当てへ合わせて縮めた形だ。見本として写しただけではない。人が着て動く布へ、どう噛ませれば熱を奪えるかまで考えてある。


「この継ぎ目、誰が直しましたか」


「先月、王都から入った補修布で工房が」


 そこまで答えた伝令が、はっと口をつぐむ。


 リゼットも同じことを思った。礼拝堂から抜かれた欠け側は、ただ流れたのではない。人が着る布へ合わせて転用されている。


 戻ってきた兵站係は、温め石と細糸に加えて、一冊の小さな受領帳まで机へ置いた。


「峠塔の補修印です。必要ならこれも」


「ありがとうございます」


 自然に礼を返しながら、リゼットは受領帳の印へ視線を落とした。西門や診療棟で見たのと同じ、王都仕入れの印。けれど今回の継ぎ目はもっと厄介だ。肩の返しへ沿って噛んでいるぶん、ただ黒い結び目を抜くだけでは腕へ熱が戻り切らない。


 乾きかけの写し紙を灯りへ透かす。欠けた側の半巡は、いったん背へ熱を溜めてから肩へ返す順になっていた。順を奪われたまま着せられたなら、肩から先だけが痺れるのも当然だった。


「右肩の外套、外から押さえます。痛みが増えたらすぐ言ってください」


 伝令が頷く。彼の喉が一度だけ上下した。


 リゼットは針へ細糸を通し、写し紙の順に合わせて肩の裏へ差し入れた。切らない。まず、噛まれた返し糸の下へ新しい道筋を滑らせる。冬祈りの原布なら、ここで熱を戻す。黒霜はそこを逆向きに塞いでいた。


 石で少し温めた布へ針を進めると、黒い重みがひとつ浮いた。肩当ての縁で、墨みたいな冷えがじわりと滲む。


「いた……」


 小さく呟いた直後、扉が開いた。


 入ってきたアレクシスは朝議の途中らしく、外套も取らないまま部屋の空気を見た。机に広がる伝令外套、写し紙、温め石。兵站係と伝令が先にこちらの指示を待っている光景を、一息で確かめたのだろう。


「状況は」


「峠塔の伝令外套です」


 リゼットは手を止めずに答える。


「南祭室で写した欠け側の返しと同じ半巡が、右肩へ縮めて使われています。ここを逆向きに噛まれていて、腕まで冷えが落ちています」


 アレクシスは机の横まで来ると、写し紙と外套の継ぎ目を交互に見た。


「礼拝堂の欠けが、そのまま着る布へ移っているのか」


「その可能性が高いです。ただ、肩の返しは公爵様の右手の痛みと流れが近いので、順を間違えると戻しきれません」


 灰青の目が静かに細くなる。


「必要なら使え」


 そう言って、彼は右手の革手袋を外した。痕を見せつけるためでも、庇護を演じるためでもない。作業に要るなら渡すという、いつもの短い差し出し方だった。


 兵站係が小さく息を呑む気配がする。けれどアレクシスはそちらを見ない。


 リゼットは一拍だけ迷ってから、許可を受け取るように頷いた。差し出された右手の甲へ指先を触れる。冷えは昨日より薄い。だが、外套の留めから手首へ入る流れに、まだ同じ折り返しが残っていた。


「やはり同じです」


 布よりずっと近い熱の下で、その違いがはっきり分かった。


「礼拝堂の欠け側は、背に集めた熱を肩や腕へ戻すための返しでした。公爵様の呪縫も、この外套も、その返しを途中で奪う向きで噛んでいます」


 アレクシスは手を引かないまま問う。


「ほどけるか」


「はい。いまはこの外套から」


 答えると、彼は短く頷いた。


「必要な記録も布も、彼女の判断に合わせろ」


 兵站係へ向けたその一言で、部屋の空気が定まる。検分役として任せるのではない。すでに回っている実務の流れを、そのまま公に通した声だった。


 扉の外で控えていた工房の若い手伝いが、その声を聞いた途端、迷わず控え布の箱を抱えて入ってくる。誰に許可を取り直すでもなく、こちらの机へまっすぐ運んでくる足取りに、館の中で変わり始めた順番が見えた。


 リゼットは呼吸を整え、伝令外套へ意識を戻した。右肩の継ぎ目は二重に潜っている。ひとつ目の黒い噛みを浮かせ、写し紙の半巡に沿って糸を返す。次は逆へ引かず、背から肩へ。肩から袖へ。


 外套の重みが少しずつ変わる。


 黒い結び目は、ほどけるときより浮くときの方が不気味だった。冷えが目に見えるほどではないのに、指の腹だけが遅れて痺れる。リゼットは温め石へ一度触れて指先を戻し、最後のひとかたまりへ針を入れた。


 半巡ぶん、返す。


 ぱきり、と乾いた音がした。肩当ての内側で噛んでいたものが砕け、外套の羊毛が本来の柔らかい重みへ戻る。


「右手を」


 伝令が恐る恐る指を開く。握りしめていた右手が、さっきより素直に曲がった。彼自身が一番信じていない顔で、もう一度、今度は深く握ってみせる。


「動く……」


 その声には、驚きより先に安堵が混じっていた。


「昼の便へ戻れますか」


 兵站係が問うと、伝令はまだ半信半疑のまま右肩を回し、それでも今度ははっきり頷いた。


「行けます。検分役殿に見てもらえて、助かりました」


 リゼットは継ぎ目へ補いの渡し糸を入れる。肩へ戻る熱の道を整えるだけで、布は十分に働く。派手な光は出ない。けれど銀糸が静かに艶を取り戻し、さっきまで湿っていた肩の冷えが薄れていく。


 兵站係が伝令の外套へ掌を当て、目を見張った。


「もう、石みたいじゃない」


「背から戻す順が合ったんです」


 答えながら、リゼットは思う。礼拝堂の原布は、人を温めるために作られていた。それを途中だけ抜き、肩へ縮めて着る布へ回し、さらに逆向きに噛ませた者がいる。見えない場所の働きを知っていた者の手順だ。


 部屋の外で足音が止まり、ヨナスが細長い木箱を抱えて入ってきた。


「南祭室から王都へ出た布の記録を、出納から引き上げてきました」


 執事の視線がまず机の上を見て、それから伝令の右手へ落ちる。


「間に合ったようですね」


 兵站係が、もう説明は不要だと言いたげに一歩脇へ引いた。その動きだけで、リゼットの立つ位置が昨日よりはっきりしたのが分かる。


 ヨナスが木箱から古い送付帳と控え札を取り出す。紙は硬く乾き、端に雪じみのような古い染みが残っていた。


「抜かれた頁の別控えです。通常の祭礼布出納とは別に、見本裂だけをまとめた帳面がありました」


 見本裂。言葉の選び方が嫌だった。使うためではなく、切って持ち出す前提の名だ。


 リゼットは外套の継ぎ目から手を離し、帳面を寄せた。アレクシスも横から紙面へ目を落とす。


 記載は十四年前。冬祈り原布、南祭室保管分より二片。送り先は王都サヴォア針工房経由、ヴァレント家衣装部。


 その下の用途欄を見た瞬間、喉の奥が狭くなった。


「……肩返し見本」


 兵站係が眉を寄せる。


「見本、ですか」


「はい」


 リゼットは指先でその文字をなぞった。礼拝布の修復ではない。冬礼装へ転用するため、肩へ熱を戻す順だけを抜いたと、これではっきり書かれている。


「流れたんじゃありません」


 声は思ったより静かだった。


「欠けた原布は、肩へ返す半巡を選んで持ち出されています。見た目の意匠じゃなく、働きごと」


 ヨナスが次の控え札を広げる。そこには追加の送り先として、ヴァレント家出入りの補修工房名と、冬礼装急仕立ての印が並んでいた。


 アレクシスの目がわずかに冷える。


「意図的だな」


「ええ」


 リゼットは乾き切った写し紙と、たった今ほどいた伝令外套の継ぎ目を並べた。


「しかも、試しただけではありません。肩返しとして人が着る布へ合わせ、その先で黒霜に転じています。公爵様の右手の痛みも、礼拝堂の欠けを着る形へ移した延長にあるはずです」


 昨日までは、王都へ出た原布が戻ってきたのだと思っていた。


 でも違う。


 欠けた原布は奪われただけではない。使い方まで読まれ、着る者の熱を奪う形へ作り替えられていた。


 けれど同時に、胸の内では別のものも定まっていく。礼拝堂の写しを机へ置き、現場の外套へ返す順を通し、必要な布も帳面も先にこちらへ集まる。ここで動いている手順の中に、自分の仕事の場所がもうできている。


 帳面の古い墨は乾ききっているのに、その一行だけが妙に生々しく見える。肩返し見本。そこへ伸ばした誰かの手が、いま領内の布とアレクシスの右手へ届いている。


 アレクシスが送付帳を閉じた。


「次は、その手順を知っていた工房を絞る」


 低い声は短い。けれど、もう追う相手は流出先ではなくなっていた。


 リゼットは頷き、机の上の外套へもう一度触れた。肩へ戻った熱はまだ弱い。けれど確かに、正しい順へ返り始めている。


 ならば、ほどく順も同じだけ確かになる。


 王都へ渡った欠け布は、見本ではなく注文として持ち出されたのだ。

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