表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/12

欠けた冬祈り

 夜明け前、裁縫部屋の扉の向こうで、鍵束が小さく触れ合った。


 まだ火を起こし切っていない炉の匂いと、油を足したばかりの灯火の匂いが混じる。リゼットが肩へ外套を掛けて扉を開けると、廊下にはヨナスとアレクシスが立っていた。執事の手には錆を落としたばかりらしい大きな鍵が三本、布へ包まれている。


「封鎖礼拝堂の鍵です」


 ヨナスが低く言った。


「最後に開いたのは十四年前になります」


 言葉が落ちたあと、廊下の冷えが少しだけ深くなった気がした。十四年。軽く口にできる年数ではない。


 濃紺の外套の前を閉じたまま、アレクシスがリゼットを見た。


「今から向かう。やめるなら、ここでいい」


 急かす声ではなかった。昨夜と同じく、選ぶ場所を先に空けてくる。


「行きます」


 そう答えると、彼は短く頷いた。


「南祭室が調査先だ。原布の保管箱も、そこにある」


 歩き出す前に、ヨナスが厚手の手袋を一双差し出した。指先の内側へ薄く革が貼ってあり、針を持つ邪魔をしない作りだ。


「祭礼布の扱いに使っていた予備です。石床の冷えが強いので」


「ありがとうございます」


 受け取ってはめると、手に馴染む柔らかさがあった。客間の備えではなく、仕事場の道具だと分かる。そんな小さなことで呼吸が整う。


 礼拝堂は領主館の裏手、中庭を挟んだ先に建っていた。まだ朝日が届かない石廊を抜けるあいだ、足音だけが乾いて響く。雪は夜のうちにやみ、欄干や窓枠へ白い縁だけを残していた。


 閉ざされた礼拝堂は、近くで見ると思っていたより低い。大聖堂のような威圧はなく、冬を越すための祈りを静かに溜めておく器のような建物だった。ただ、正面扉へ渡された鉄鎖だけが、その静けさに似合わない。


 ヨナスが外の封を解く。鍵はひとつでは足りず、錠前が二度、重く鳴った。最後のひとつを差し込む前に、アレクシスの右手がわずかに止まる。


 気づいたのはリゼットだけだったかもしれない。けれど、見ないふりをするには近い揺れだった。


「開けます」


 ヨナスが言い、扉が内へ押された。


 冷たい空気ではない。長く閉じた蝋と古布の匂いが、細い埃と一緒に流れ出してくる。灯火を先に入れると、内側の石床に鈍い光が落ちた。


 礼拝堂の長椅子は片づけられ、壁沿いには布を掛けるための枠だけが残っていた。天井近くから垂れる冬色の幕は色を失っているのに、崩れ切ってはいない。傷んだ場所が、ただ古びただけの布の傷み方ではなかった。


 リゼットは中央の通路を数歩進み、灯りを上げた。


「正面の帳は無事です。でも、左右の戻し布だけが痩せています」


「戻し布」


「礼拝堂へ集めた熱を、側廊や祭室へ返すための綴じです。冬祈りの布は、集めるだけでは足りませんから」


 王都の披露布なら見栄えを整えて終わる。だが冬を越すための祭礼布は、使う順まで縫い込まれている。入口で受けた冷えを内へ通さず、こもった熱だけを散らす。その返しの渡りが、いまは黒霜に似た痩せ方をしていた。


 リゼットは壁際の幕へ近づき、銀糸の返しを指の腹でなぞった。途中で一度だけ、流れが逆向きに折れている。


「やっぱり……」


 小さく呟くと、アレクシスがすぐ後ろで足を止めた。


「何が見えた」


「黒霜は、この返し糸を真似ています。熱を戻すための綴じを、奪う向きへねじっているんです」


 彼は布の傷みを見たまま、短く息を吐いた。


「戻すはずのものが、抜かれている」


「はい。だから、人にも布にも同じ冷えが残るんだと思います」


 そう言いながら、リゼットは祭壇裏へ続く脇廊下へ視線を向けた。黒霜の気配が濃いのはそちらだ。表の帳より、奥へ押し込められた場所に重みが沈んでいる。


 南祭室の扉は半分だけ開いたまま、そこで止められていた。蝶番に古い傷がある。急いで閉めた扉の痕だと分かった。


 アレクシスが先に手を掛け、ためらわず押し開く。


 狭い部屋だった。壁に沿って保管棚、中央に低い作業台、その奥に祭礼布を納める長箱がある。箱の蓋には、冬花を模した銀の焼き印。けれど金具の片側だけが新しく、過去に一度こじ開けられたあと直した跡が残っていた。


 リゼットが箱へ近づこうとしたとき、不意に視界の端で濃紺が止まった。


 部屋の隅、背の低い祈り台の前で、アレクシスの足が止まっていた。何かを見るというより、そこへ立つこと自体を押し返されているような固さだった。右手が外套の留めへ触れたまま動かない。


「ここで最初に黒霜が出た年、倒れたのは母だ」


 前を向いたまま、彼が言う。


「祭礼布の管理をしていた。俺が開けたときには、もう遅かった」


 それだけだった。詳しい説明はなかった。けれど十分だった。扉の前で止まった手も、この部屋へ人を近づけてこなかった年数も、その一言でつながる。


 リゼットは返す言葉を探さず、長箱の前へしゃがんだ。いま必要なのは慰めではなく、見つけることだと思った。


 蓋を開く前に、ヨナスが鍵を差し出す。


「当主以外は、ここへ触れておりませんでした」


 執事の声音に、慎重さと別の色が少し混じる。


 祈り台の前から離れたアレクシスが鍵を受け取る。そのまま箱を開けるのかと思ったら、彼はリゼットへ手を伸ばした。


「最初に見るのは君でいい」


 大きな鍵が、手袋越しの掌へ渡される。


 重みで指が沈んだ。館に来てから布も記録も回してもらってきた。それでもこれは違う。閉ざされたまま残っていた場所の最初を、自分の判断へ預けられている。


 錠を外す手元へ灯りを寄せ、リゼットはそっと蓋を持ち上げた。


 中にあったのは、深い青を下地に銀糸を渡した冬祈りの原布だった。完全な一枚ではない。中央の意匠はまだ息をしているのに、左右の縁へ不自然な欠けがある。虫食いではない。細い鋏で長く切り取った、まっすぐすぎる欠損だった。


「切られています」


 口にすると、ヨナスが眉を寄せる。


「保管中の劣化では」


「この切れ方はしません。補修用に抜いたなら記録があるはずです」


 原布の端を傷めないよう持ち上げる。切り取られた部分のすぐ内側に、見覚えのある返し糸が残っていた。西門や診療棟の黒霜の下に潜っていた、あの渡し方だ。


 しかも、返しは途中で止まっている。本来ならここから次の綴じへ流れるはずなのに、意匠の肝心な半巡だけが消えていた。


「黒霜が真似したのは、この欠けた側です」


 リゼットは銀糸の流れを追いながら言った。


「全部の冬祈りではありません。熱を戻す直前の返しだけを抜いて、逆に使っています。だから領内の布は保てなくなって、公爵様の呪縫も同じ噛み方をする」


 アレクシスが箱の縁へ手を置く。


「一枚持ち出せば、写せるか」


「写すだけなら。でも、黒霜は写し方を知りすぎています」


 リゼットは原布の裏を見た。見せるための刺繍ではない。見えない場所へ細かな補強と順路が縫い込まれ、使い手がどこへ熱を返すかまで決めてある。


「この返しを選んで抜くなら、祭礼布の手順か、管理記録を見た人です」


 ヨナスが無言で棚を探り、薄い台帳を二冊持ってきた。ひとつは保管記録、もうひとつは祭礼布の補修控えだった。紙の端は硬く乾いているのに、ちょうど必要な年だけ一枚ずつ欠けている。


「抜かれていますね」


「ええ。しかも後からです」


 頁の綴じ穴が、新しい刃で切られた痕になっていた。火事や湿気で失われたのではない。読むために外し、そのまま戻さなかった痕だ。


 補修控えの末尾に、挟まったままの細い紙片があった。半分ちぎれている。リゼットが慎重に引き出すと、そこにはかろうじて数行だけ残っていた。


『冬祈り原布 南祭室保管分より 二片』


 その下は破れている。行の終わりに残った文字は、王都の「王」と、もうひとつ、見慣れた曲線のある「ヴァ」だけだった。


 喉の奥がきゅっと狭まる。


「この書き方……」


 紙片を灯りへ近づけた。文字そのものより、端へ残った封紐の結び方に見覚えがある。荷を飾るための蝶結びに近い留め方。保管帳へ挟むには不釣り合いで、でも王都の礼装箱ではよく使われる。


 ヴァレント家へ納める布箱で、何度も見た結び方だった。


 アレクシスが視線だけで先を促す。


「ヴァレント家の納品荷札に似ています。まだ断定はできません。でも、少なくとも王都へ出た布です。しかも祭礼布の原型を、補修や見本の名目で」


 ヨナスの顔色が変わった。


「禁転用の原布を」


「切り取った側だけなら、見栄えの良い意匠として扱えます」


 リゼットは原布の欠けへ指先を添えた。


「でも本当は、戻すための綴じでした。半分だけ持ち出して逆に使えば、見た目には似ていても、働きは崩れます」


 だから王都側の礼装も礼拝布も傷み始めたのだ。形だけ写して、順路を失った布は冬を越えられない。


 石床の冷えとは別のものが背中を通る。婚約披露の場で外套にいた黒い結び目も、西門の幕に潜っていた返し糸も、いま箱の中の欠け布へつながっている。


 紙片を受け取った彼は、破れた端を一度だけ見た。怒りを露わにする顔ではない。それでも、灰青の目の奥で何かが静かに沈んだのが分かる。


「王都へ渡った原型が、俺の呪縫と領内の黒霜に戻ってきた」


「たぶん」


 リゼットは頷いた。


「ここから先は、欠けた残りを探せば追えます。原布の半巡が戻れば、逆向きの綴じをほどく順も見えるはずです」


 言い終えたとき、胸の奥に迷いより先に手順が立っていることに気づいた。閉じられた礼拝堂へ入るまでは、見つけられるかどうかだった。いまは違う。何を追うべきかが、もう目の前にある。


 ヨナスが台帳を抱え直す。


「王都へ出た祭礼布の記録を、館の古い出納から洗い直します」


「頼む」


 そう告げてから、アレクシスはリゼットへ向き直った。


「原布はここに残す。だが、控えは君の部屋へ回す。必要なものがあれば先に言ってくれ」


 先に。言葉の置き方が胸へ残る。帳場でも工房でもなく、まず自分へ通すのだと、こんな場所でも変わらず示される。


「では、欠けた側の写しを取ります。綴じの順だけでも、今のうちに」


「分かった」


 返事は短い。けれど、それで十分仕事が動く。


 帰り際、リゼットはもう一度だけ祈り台へ目を向けた。アレクシスはそこを見なかった。見る代わりに、南祭室の扉を最後まで閉めず、灯りが通る幅だけ残した。


 礼拝堂を出るころには朝日が石壁を淡く照らしていた。雪明かりより少しだけ温い色だった。


 掌の中には、紙片から外れた細い封紐が残っている。見慣れた結び目はほどけかけていたのに、端へ潰れた封蝋だけはまだ離れなかった。


 そこに残った欠けた紋章は、見間違えようのないヴァレント家の印だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ