黒霜検分役
翌朝、裁縫部屋の前には黒霜に噛まれた布が山になっていた。
西門から外した幕、見張り塔の帳、詰所の敷布、まだ裂けていない外套までが、籠や木箱に押し込まれて運び込まれる。乾いた羊毛の匂いに、冷えた金具と煤の匂いが混じっていた。
「昨日ひとつ戻したからって、何でもかんでも持ち込めば済む話じゃない」
廊下の向こうで、低い声がした。
「王都育ちの令嬢へ現場権限を渡しすぎだ。工房も帳場も、朝から振り回される」
聞こえないふりをしようとするとき、昔のリゼットはたいてい指先から冷えていた。
今日は違った。まず机を空け、布を三つに分ける。表から傷んでいるもの、ただ擦り切れたもの、そして、見た目のわりに重いもの。
「ヨナス様、修繕帳も一緒に見たいです。損傷がひどい順ではなく、最後に手を入れた場所ごとに並べたいので」
筆頭執事は、すぐ脇の箱を机へ載せた。
「昨夜のうちに運ばせました。西門、見張り塔、北診療棟、東倉庫。記録が残っているものはここに」
それだけ言ってから、彼は廊下の方へ視線を向けた。
「不満がある者もおります。ですが、まず見てからにしてもらいましょう」
リゼットは頷き、帳面を開いた。乾いた紙が指先へ軽く引っかかる。西門と同じく、王都から補修用の布と糸が入った時期が書かれている頁だけ、妙に几帳面だった。
黒霜のある布は、表面より先に裏の渡りへ癖が出る。そこへ記録を重ねると、ただ古いものと、壊されかけたものが分かれた。
「北診療棟の間仕切り幕は、まだ下ろしていませんか」
問いかけると、廊下にいた男が鼻を鳴らした。
「診療棟だと? あれは昨夜も無事だった。西門みたいに風をまともに受ける場所じゃない」
振り返ると、厚手の前掛けをした中年の職人が腕を組んでいた。門や塔の布設備を預かる工房頭らしい。疑いを隠そうとしない顔つきだった。
「無事に見えても、今夜までもちません」
「どうしてそう言い切れる」
リゼットは机の上の布片を一枚持ち上げた。見張り塔から外した帳だ。裏へ返すと、銀糸の渡りが途中で一度だけ折り返されている。
「この返し方が混じった補修布だけ、黒い結び目が深く入っています。北診療棟の帳面にも同じ仕入れ印がありました。表へ出る前に、縫い目の下から冷えます」
工房頭が眉をひそめる。
「帳面だけで分かるものか」
「帳面だけでは決めません。布が足りているなら、診療棟で確かめます」
数歩ぶんの沈黙が落ちた。そのとき、廊下の奥で雪靴の音が止まる。アレクシスだった。朝の執務へ向かう途中らしく、濃紺の上衣の肩にまだ外気の白さが残っている。
「何を確かめる」
「北診療棟の間仕切り幕です。表面は無事でも、今夜までに縫い目の内側から噛まれる可能性があります」
「根拠は」
短い問いへ、リゼットは帳面と布片を並べた。
「王都から入った補修布の時期が一致しています。西門と見張り塔にいた黒霜の下にも、同じ返し糸がありました。診療棟の幕も同じなら、患者さんの寝所へ夜の冷えが落ちます」
記録へ目を落としたアレクシスが、すぐ工房頭へ向き直る。
「案内しろ」
「閣下、まだ決まったわけでは」
「だから見に行く」
それで話は終わった。
北診療棟は館の奥にあり、廊下へ薬草の乾いた匂いが漂っていた。仕切り幕は厚手の亜麻に祝福糸を織り込んだもので、ひと目には何の異常も見えない。工房頭が言いたいことは、リゼットにも分かった。
けれど、近づくと違った。灯りの熱が届く側だけがかすかに湿り、その裏の縫い目に冷えが溜まっている。
「台をお借りしても」
診療棟の女官が、すぐ小さな踏み台を持ってきた。幕の向こう側に人がいないかだけ確かめたアレクシスは、何も言わず一歩退く。
リゼットは裾ではなく、中ほどの継ぎ目へ手を入れた。昨日抜いた結び目より浅い。だが数が多い。黒霜は目立たない場所で広がるときほど厄介だった。
「ここです」
指先で銀糸をわずかに押し上げると、縫い目の内側で墨を滲ませたような黒が覗いた。
誰かが息を呑み、工房頭の顔色が変わる。さっきまで外気のせいだと思っていた冷えが、この幕ひとつに潜んでいたのだと分かったのだろう。
「灯りをもう少し」
受け取った小灯の下で、リゼットは針を差し入れた。切らず、持ち上げる。診療棟の幕は西門より軽いぶん、噛みの位置を間違えると祝福ごと痩せる。帳面の修繕日と布片の返し糸を頭の中で重ねながら、三本目の渡りで手を止めた。
いた。黒い結び目は、表に出ないまま二重に潜っている。こんな噛み方をするなら、下手人は祝福の縫い順を知っていた。
リゼットは見張り塔の帳から抜いておいた細糸を針へ通し、結び目の下へ滑らせた。冷えがじわりと指の腹へ這う。息を整え、今度は手前でなく、奥へ返す。
結び目がひとつ浮いた。
そこからは早かった。二つ、三つ。黒い粒がほどけるたび、幕の重さが抜ける。最後のひとかたまりを引き抜いた瞬間、向こう側で咳をしていた患者の呼吸が、少しだけ楽そうに変わった。
「さっきより、冷えが刺さらない」
女官が、自分の腕をさすりながら呟く。
リゼットはすぐ傷んだ継ぎ目へ新しい渡し糸を入れた。派手な光は出ない。ただ、祝福の流れが戻ると、幕は本来の柔らかい重みを取り戻す。
工房頭が幕の縁に触れたまま、しばらく黙っていた。
「……見えていなかった」
「表へ出る前のものですから」
言うと、男は苦い顔で頷いた。
「俺はガレンだ。以後、黒霜に噛まれた布は先にあんたの部屋へ回す」
ぶっきらぼうな言い方だったが、最初の棘はもうなかった。診療棟を出ると、廊下の向こうから伝令が駆けてきた。雪を払う間も惜しんだらしく、外套の裾が白く濡れている。
「ヨナス様、王都の支所から急ぎの書簡が」
封蝋を見た執事の眉がわずかに動いた。アレクシスが受け取り、その場で開く。数行だけ目を走らせ、次にヨナスへ渡した。
「読み上げろ」
ヨナスは一礼し、簡潔な声で内容を告げた。
「王都の取引先より。ヴァレント家とその出入り工房で、冬用礼装および礼拝布の不具合が続出。補修履歴を引き継いだ者がおらず、以前の管理帳を高値で探しているとのことです」
廊下が、しんとした。ガレンが目を瞬かせる。
「あの侯爵家がか」
「表向きは織り手の入れ替えで済ませているそうですが、加護の持ちが悪いと」
ヨナスはそこで言葉を切った。続きを言わなくても十分だった。
リゼットの胸の奥で、何かが静かに揺れた。痛快だったわけではない。まだ足りないし、終わってもいない。ただ、自分が置いてきた仕事は、本当に消えてはいなかったのだと分かる。見えないまま切り捨てられた手間が、向こうの足元を崩し始めている。
書簡をたたんだアレクシスが、廊下にいる全員へ視線を巡らせる。
「聞いた通りだ。見栄えだけ整えても、冬は越せない」
「今日からリゼットを黒霜検分役とする」
さすがに、その場の空気が揺れた。
「館内と領内で回収した損傷布、修繕帳、補修記録の一次判断は彼女が取る。黒霜に関する工房と帳場の問い合わせも、まず彼女へ通せ。客人扱いはもう不要だ」
ガレンが姿勢を正し、女官たちも息をのむ。
リゼットだけが、すぐには声を出せなかった。
客人ではない。その言葉が胸の奥へ落ちるまで、一拍かかった。滞在を許された娘でも、たまたま役に立った刺繍師でもない。この館で呼ばれる役目の名が、いま与えられた。
次に向けられた視線は、まっすぐリゼットだけを見ていた。
「肩書きがいると思った。押しつける気はない。嫌なら断っていい」
喉の奥のつかえが、そこで少しだけほどけた。
「……受けます」
返事をしたあと、リゼットは自分の声が震えていないことに気づく。
「黒霜の出どころを追うなら、布と記録を同じ場所で見られる方が早いです。だから、その役目を引き受けたいです」
短く頷く気配とともに、「助かる」とだけ返る。大げさな言葉はなかったが、それで十分だった。
昼過ぎ、裁縫部屋へ戻ると、机の上に新しい鍵と薄い木札が置かれていた。焼き印で刻まれた文字は簡素で、飾り気がない。
黒霜検分役。触れると、朝から動かし続けた指へ木のぬくもりが残った。
ヨナスが追加の帳面を抱えて入ってくる。
「領主館の地下書庫から、古い祭礼記録も出してきました。役目がついた以上、閲覧制限のかかっていたものも何冊か回せます」
「ありがとうございます」
「礼は、まだ早いかと。古い字は読みづらいですよ」
執事らしい控えめな皮肉に、リゼットは少しだけ笑った。
記録は、今の帳場よりずっと癖が強かった。紙の色も、綴じ糸も、年代ごとに違う。その中で一冊だけ、北の祭礼布についてまとめた古い台帳がある。
頁をめくっていた指が、ある図案で止まった。蔓が二重に折れ、途中でひとつ返る。西門と診療棟の補修布に混じっていた、あの不要な返し糸の原型だ。
「これ……」
欄外には小さく書き添えがあった。冬祈りの原布。保管場所、封鎖礼拝堂南祭室。
しかも備考には、黒霜発生以前の年代で「一部切り取り補修に転用を禁ず」とある。禁じられていた原布の意匠が、どうして王都の礼装補修へ混じったのか。
扉が軽く叩かれ、アレクシスが入ってきた。
「顔色が変わった」
リゼットは台帳を差し出した。
「返し糸の元がありました。西門や診療棟に混じっていた癖は、王都の流行ではなく、この領地の古い祭礼布の写しです。完全にほどくには、原布か、それに近い記録が要ります」
彼の視線が、保管場所の行で止まる。
「封鎖礼拝堂か」
「はい。そこに原布が残っているなら、黒霜の結び目が何を真似ているのか分かるかもしれません」
小さな沈黙のあと、彼は低く息を吐いた。
「あの礼拝堂は、黒霜が最初に死人を出した年から閉じたままだ」
重い事実だった。けれど、もう視線は逸らせないところまで来ている。
台帳を閉じて机へ戻し、アレクシスは迷いなく言った。
「明朝、封鎖礼拝堂を開ける」
灰青の目が、まっすぐリゼットを捉える。
「同行を頼みたい」




