黒霜の防寒幕
契約書は、外套の内側で薄く鳴った。
夜明け前に署名した羊皮紙だ。リゼットは馬車の揺れに肩を預け、曇った窓硝子を指の背で拭った。王都の石畳はとうに途切れ、北へ向かう街道には、踏み固められた雪と車輪の深い跡が続いている。
その道の脇で、風除けの布がひどく重たそうに垂れていた。
白いはずの麻幕の継ぎ目だけが、墨を溶かしたような黒を噛んでいる。雪を払っても消えない冷えだと、見ただけで分かった。布を直している農夫が二人がかりで裾を持ち上げても、そこだけが水を吸ったみたいに沈んだままだ。
「見えるか」
向かいに座るアレクシスが言った。
右手の革手袋は昨日よりましな色をしている。それでも指を曲げるたび、わずかに遅れがあった。痛みが消えたわけではない。ただ、一か所ほどけたぶんだけ持ちこたえている。
「はい。継ぎ目の中です。布そのものより、縫い合わせた場所に冷えが残っています」
「街道沿いの幕であの程度だ。領都へ入れば、もっと濃いものがある」
淡々とした言い方だった。脅すでもなく、期待を煽るでもない。事実を先に渡してくる話し方に、リゼットは少しずつ慣れ始めていた。
彼の膝の上には、昨夜のうちに書き直された契約書の控えがある。滞在費、報酬、辞退の自由。そのあいだに、リゼットが自分で求めた一文もきちんと入っていた。回収した破損布と記録の閲覧は、修復のため彼女の裁量に預けること。
家に命じられて刺す仕事ではない。自分の仕事として受けるなら、その線だけは曖昧にしたくなかった。
「閣下」
「アレクシスでいい。仕事の場では、その方が早い」
呼び直そうとして、リゼットは一拍止まる。
「……では、アレクシス様。領都へ着く前に止められる場所があれば、ひとつ見たいです。布の傷み方を、先に土地で確かめたいので」
「分かった」
短く返し、彼はすぐ御者へ声をかけた。却下する理由を並べたり、館で休んでからにしろと決めつけたりしない。その速さが、妙に胸へ残る。
馬車が北風へ車体をきしませながら進む。窓の向こうでは、背の低い針葉樹が雪の下で黒く列をなし、その切れ目に見える畑は灰色に痩せていた。遠くの見張り塔には、防寒のため垂らされた布帳が何重にも掛かっているはずなのに、その端はどれも色を失っている。
辺境の冬は厳しい。けれど、これは寒さだけの沈み方ではなかった。
正午を少し過ぎたころ、ハルヴェイン領都の外郭が見えた。石壁は高く、門の上に張られた厚手の防寒幕が風を受けて鳴っている。いや、本来なら鳴るはずの場所だけが、鳴っていなかった。
西門の幕の片側が、ひどく沈んでいる。
荷車が門をくぐるたび、布は持ち上がらず、開いた隙間から白い風だけが刃みたいに入り込んでいた。門兵が焚いている火鉢の火も弱く、詰所へ運び込まれる干し肉の籠には薄い霜が張りついている。
馬車が止まるより先に、リゼットは扉の把手へ手をかけていた。
「見てきます」
「俺も行く」
外へ降りると、冷気が喉の奥まで刺さった。王都の冬とは質が違う。肌に触れるというより、空いた場所へ入り込んでくる寒さだ。
灰髪の男が部下を連れて駆け寄ってくる。背筋の伸びた、年配の執事だった。
「お帰りなさいませ、アレクシス様。西門の幕ですが、朝から傷みが進みまして。張り替えも考えましたが、下ろした布まで同じように冷え始めています」
「ヨナス、先に彼女へ見せろ」
ヨナスと呼ばれた執事の目が、はじめてリゼットへ向いた。値踏みというより、計算に近い目だ。
「この方が、王都からお連れした刺繍師殿ですか」
「リゼットです」
「失礼を承知で申し上げますが、門幕は見栄えより持久が要る仕事です。礼装の補修とはわけが違います」
言い方は丁寧でも、疑いは隠れていなかった。もっともだった。リゼット自身、王都の広間で一か所ほどいたからといって、この土地全部に通じると断言できるわけではない。
だからこそ、見て決める。
「その違いを確かめたいんです。足場を貸してください」
ヨナスが返事をする前に、アレクシスが門の上を見上げた。
「落ちたら困る。梯子と、詰所の火鉢、それから交換用に外した幕の切れ端を運べ」
命じ方が早い。けれど視線だけは、最後にリゼットへ戻ってきた。
「いけるか」
「はい」
梯子はすぐに運ばれてきた。門兵たちが風を避けるように肩をすくめるなか、リゼットは手袋を外し、縁の縫い目へ指先を置いた。
重い。
布地そのものはまだ生きている。厚い羊毛に織り込まれた祝福糸も、完全には沈んでいない。死んでいるのは、門柱へ固定するための上端だけだった。二枚の幕を継ぐ銀糸の裏で、黒い結び目が三つ、歯を立てるみたいに噛んでいる。
しかも一番深いものは、ただの呪縫ではなかった。
黒糸の下に、細い飾り糸の癖がある。実用品の門幕には不要な、見えない裏飾り。王都の礼装でたまに見る、体裁のためだけの込み入った渡し方だ。
「どうだ」
梯子の下からアレクシスが問う。
「張り替えだけでは駄目です。上端の結び目が移ります。ここを抜かないと、新しい幕も噛まれます」
「必要なものは」
「細い針、蜜蝋、それと、今朝外した幕の糸を一本」
ヨナスが眉をひそめた。
「傷んだ幕の糸を使うのですか」
「同じ寒さをくぐった糸の方が、噛んでいる場所を引きずり出せます」
答えながら、リゼットは自分でも足場の悪さを意識した。風が吹くたび梯子が細く軋む。次の瞬間、木枠がぶれた。
見下ろすと、アレクシスが片手で梯子の脚を押さえていた。
「支えます。嫌なら離れる」
「そのままでお願いします」
返した声が、思ったよりすんなり出た。
彼は何も言い足さない。ただ体重をかける位置だけを変え、風の向きに合わせて足場を保った。
リゼットは息を整え、門幕の裏へ針を滑らせる。まず持ち上げる。切ってはならない。銀糸の渡りを一目ずつ浮かせ、黒い噛みが一番深い場所を探る。指先が痺れる。昨夜、公爵の外套で触れた冷えより広く、鈍い。土地へ張ったものは、人ひとりの衣服よりずっとしぶとい。
火鉢から運ばせた熱で蜜蝋をやわらげ、傷んだ幕から抜いた祝福糸へ薄く塗る。針に通したそれを、黒い結び目の下へ差し入れた。
反応はすぐ来た。
糸が、ぴんと震える。
そこだ、と分かる。リゼットは銀糸をもう半目だけ返し、逆向きに引いた。黒い結び目が抵抗する。門の外から吹き込んだ風が幕を膨らませ、梯子ごと身体を持っていかれそうになる。
「リゼット」
下から呼ばれる。
短い声だった。焦らせるためではない。手が滑っていないか、戻る気があるかを確かめる声。
「まだ、いけます」
答えて、リゼットは指先の力を変えた。力任せに引かず、ずらす。結び目そのものをほどこうとせず、その下に潜り込んでいた癖のある飾り糸ごと浮かせる。
ぱさり、と黒い霜がひと房ぶん剥がれた。
続けて、二つ目。三つ目。
最後のひとかたまりを引き抜いた瞬間、門幕がふっと軽くなる。たったそれだけの差なのに、風の受け方が変わったのが分かった。垂れ下がっていた布が本来の位置へ戻り、開いていた隙間がゆっくり閉じていく。
詰所の火鉢が、さっきより赤く起きた。
「風が止まった……」
門兵のひとりが、呆けたように呟く。
リゼットはそのまま黒い痕を抜いた箇所へ、新しい渡し糸を入れた。派手な術式ではない。祝福が流れる道筋を整え、傷んだ継ぎ目の圧を散らすだけだ。けれど一度通れば十分だった。銀糸は鈍く光を返し、幕の縁からじわりと熱が戻る。
門を抜ける荷車の御者が、肩をすくめたまま振り返る。
「さっきより寒くねえな」
他の門兵が半信半疑の顔で詰所の布帳に触れ、それから火鉢の前へ掌を差し出した。
「いや、違う。風そのものが薄い」
ヨナスは無言で門幕を見上げていた。老執事のきっちりした顔つきが、ほんの少しだけ崩れる。
「……張り替えを待たずに戻したのですか」
リゼットは梯子を降り、手の中の黒い結び目を見せた。
「戻したというより、塞いでいたものを抜きました。幕そのものはまだ働けます」
冷えを帯びた黒い塊は、虫の抜け殻みたいに軽いのに、指先へ嫌な重みを残す。そこへ絡んでいる細い飾り糸が、やはり気になった。
アレクシスがそれを見る。
「同じものか」
「はい。外套にいた結び目と噛み方は同じです。でも」
リゼットは黒糸の下から覗く銀の撚りを指でずらした。
「これは、門幕には要らない飾り方です。裏から形を整えるための癖が混じっています」
「王都式か」
「断言はまだできません。でも、見覚えがあります」
その一言で十分だったのか、アレクシスはすぐヨナスへ向き直った。
「西門だけでは終わらない。今日から黒霜に噛まれた布は、処分前にすべて彼女の作業場へ回せ」
「しかし、閣下」
「疑うのはいい。捨てる前に見せるくらいはできるはずだ」
静かな命令だった。声を荒げないまま、必要な線だけを通す。
ヨナスは数拍遅れて頭を下げた。
「承知しました。作業部屋も、すぐ整えます」
リゼットは、そこでようやく自分の息が上がっていたことに気づいた。手袋をはめ直そうとして、指先が少し震える。
「館へ入る前に、温かいものを」
アレクシスが言う。
「礼ではありません。次に倒れられると困る」
そんな言い方なのに、差し出されたのは門兵用の湯入り小瓶だった。先に自分が飲むでもなく、当然のように彼女へ渡してくる。
受け取ると、錫の表面は熱すぎず、ちょうど指が戻る温度だった。
「ありがとうございます」
「結果には対価を払う。いまはそれだけだ」
けれど、その言葉が思った以上に心へ残る。褒められたからではない。仕事の結果を、仕事として受け取ってもらえたからだ。
館の中は石造りの冷えを抱えながらも、門の外よりずっとましだった。ヨナスに案内されたのは、南向きの窓を持つ小さな裁縫部屋だった。壁際に糸棚、中央に大きな作業机、奥には火を入れられる小炉まである。以前誰かが使っていた部屋らしく、針を研ぐための小石まできちんと残っていた。
「ここを?」
「あなた専用に」
ヨナスが答える。
「もとは祭礼布の補修室でした。いまは使い手がおりません。必要な備品があれば帳場へ回します」
門前での硬さはまだ残っていたが、さっきの露骨な距離の置き方ではない。実務として話す声だ。
「それと、閣下から申しつかっております。黒霜に傷んだ布、外した糸、修繕記録、見張り塔の当番報告。その閲覧は、リゼット殿の求めに応じて開示を」
契約書に書かれた一文が、本当にこの館で通るのだと分かる。
リゼットは部屋を見回した。窓際には雪明かりが薄く差し、机の上にはまだ誰の癖もついていない空白がある。客間ではない。刺繍のための場所だ。
「裁ち鋏を一本、持ち手の軽いものに替えたいです。それから、廃棄前の布は切らずに持ってきてください。ほどいた順も見たいので」
口に出してから、自分がもう遠慮せず仕事の頼み方をしていると気づく。
ヨナスも気づいたらしい。目元にわずかな苦笑を浮かべた。
「承知しました。切らずに回します」
執事が退出したあと、リゼットは門幕から抜いた黒い結び目を机へ置いた。小皿の上でも、それは微かに冷えていた。外したばかりの銀糸と並べると、不要な飾り糸の撚り方がますます目につく。
こんな裏の整え方を好む工房は、王都でも多くない。
扉が二度、軽く叩かれた。
「入る」
返事とほぼ同時に、アレクシスが一枚の布片を持って入ってきた。許可を待つ間を、ぎりぎりまで置いた入り方だった。
「西の見張り塔から外した古い帳だ。さっきヨナスに持ってこさせた」
机へ広げられた布片の縁にも、やはり黒い噛みがある。けれどリゼットが目を留めたのはそこではない。裏地に残された、ごく細い銀の渡し方だった。
蔓が二重に折れ、途中でひとつだけ返る。
王都で、何度も見た癖だ。
婚約披露の壇上幕。ルシアンの礼装外套の見返し。ヴァレント家が贔屓にしている仕立て屋の、表からは見えないところへ残す意匠。
リゼットの喉が、今度は別のもので詰まった。
「見覚えがあるのか」
アレクシスの問いに、彼女は布片から目を離せないまま頷いた。
「あります」
声は小さかったが、揺れなかった。
「王都の婚約披露で見た礼装意匠と、同じ癖です」
部屋の小炉が、ぱち、とひとつ鳴った。
北辺の門を噛んでいた黒霜の裏に、王都の糸が混じっている。
その事実だけで、外の雪より深い冷たさが机の上へ広がった。




