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役立たずの糸目

 婚約披露のために整えられた大広間は、冬の白を映すように磨き上げられていた。壁際の帳には銀糸の雪花が刺され、天井から垂れた祝福布は蝋燭の火をやわらかく返している。


 その中央で、リゼットだけが場違いなほど冷えていた。


「リゼット・オルディス。君との婚約は、ここで解消させてもらう」


 侯爵令息ルシアン・ヴァレントの声は、客に聞かせるためのよく通る声だった。近しい者へ告げる声ではない。拍手と談笑が静まるのを待ってから、彼はわざわざ一歩前に出た。


 集まっていた貴族たちの視線が、いっせいにリゼットへ向く。絹手袋の内側で指先が粘ついた。けれど顔だけは伏せなかった。ここで俯けば、今まで縫い留めてきたものまで全部、自分でほどいてしまう気がした。


「理由は簡単だ。君の刺繍は遅い。地味だ。維持には向いているのだろうが、社交にも防衛にも、いま必要な即効性がない」


 言葉は刃物のように鋭いわけではなかった。もっと性質が悪い。最初から正論であるかのように磨かれていて、反論する余地を残さない形をしていた。


「この冬、北辺では黒霜の被害が広がっている。王都でも加護布の発注が増える。求められているのは、一目で分かる強い術式だ。君のように、裏に何十本も補強糸を渡してようやく保つ仕事ではない」


 何人かが小さく頷いた。見える刺繍だけが価値を持つ場所では、布の裏に潜る手間は、たいてい存在しないものとして扱われる。


 リゼットの足元には、ついさっきまで披露台に置かれていた冬用の礼装外套が落ちていた。婚約披露に合わせ、彼女が二か月かけて整えたものだ。表から見えるのは控えめな銀糸の蔓模様だけだが、裏には防寒と護身を兼ねた細かな祝福縫いを重ねてある。


 ルシアンはそれを拾い上げもせず、靴先で端を寄せた。


「役立たずな飾りを抱えていては、家の足を引く。君には荷が重かったんだよ、最初から」


 その一言だけで十分だった。空気が、ああやっぱりそういう話なのだと整列する。婚約破棄より、その理由の方が皆にとっては心地よい。能力不足。見切り。合理的判断。誰もが好きな言葉だ。


 喉がかすかに張った。泣きそうなのではない。ただ、飲み込む癖が出ただけだと自分で分かるのが厄介だった。


 外套の裾に視線を落とした瞬間、リゼットは息を止めた。


 銀糸の補強縫いのあいだに、一本だけ、夜の底のように鈍い黒が絡んでいる。


 擦り切れではない。汚れでもない。祝福糸の流れに逆らって、結び目だけが食い込むように沈んでいた。加護を支える糸目ではなく、その真逆。布地を壊さず、内側から冷えだけを残す噛み方。


 見間違えるはずがなかった。幼いころ祖母の工房で、駄目になった護符布を解いたとき、リゼットは何度か似た癖を見ている。良い刺繍が自然にほつれるときは、もっと素直に緩む。こんなふうに、祈りの流れへ爪を立てるような歪み方はしない。


「失礼ですが」


 年配の夫人が、困ったように扇で口元を隠した。


「もう十分ではなくて? お嬢さんも、これ以上恥を重ねる前にお下がりになった方が」


 恥。そう言われるだろうと思っていたのに、実際に耳へ届くと、背筋の内側に細い針を入れられたみたいに冷えた。


 そのとき、大広間の奥で硝子の小さな鳴る音がした。


 人々の視線がそちらへ流れる。黒に近い濃紺の外套をまとった長身の男が、半歩だけ壁に手をついていた。王都の華やかな席には似合わない静けさを纏った男だ。ハルヴェイン公爵、アレクシス。


 冷徹公爵。北辺の冬をそのまま人にしたようだと噂される人。


 けれどリゼットの目に入ったのは、威圧感より先に、右手の動きだった。


 革手袋の縫い目に、薄い黒霜がにじんでいる。


 まるで糸が凍っているみたいに、白ではなく、鈍い黒を帯びた霜だった。しかも手袋の甲から外套の留め布へ、同じ噛み方の乱れが渡っている。礼装外套の裾で見つけた異常と、よく似た結び目が。


 胸の奥で、ばらばらだった針や糸が、音もなく一本に通る感覚がした。


 ルシアンが、気づいた客たちへ取り繕うように笑う。


「閣下、お見苦しいところを。元婚約者の整理をしていただけです」


 整理。その言い方に、客の何人かが苦笑する。


 アレクシスは答えなかった。浅く息を吸うたび、肩の線がわずかに強張る。痛みを隠す人の堪え方だった。大袈裟にうずくまらず、ただ平然を崩さないようにしているだけの。


 考えるより先に、リゼットは落ちていた外套を拾っていた。裾に絡んだ黒糸を指先で確かめる。冷たい。布そのものより一拍遅れて冷えが返ってくる、嫌な感触。


「おい、まだ何かあるのか」


 ルシアンの声に、リゼットは顔を上げた。


「あります」


 返した瞬間、自分の声が思ったより落ち着いていて、逆に驚いた。震えていないわけではない。ただ、手順を説明するときの声になっていた。


「この外套の補強縫いに、異物の糸目があります。自然なほつれ方ではありません。加護を弱らせる結び目が、わざと潜り込まされています」


 場が一瞬、静まり返った。すぐに失笑が混じる。


「まだ言い訳を続けるつもりか」


「言い訳ではありません」


 リゼットは外套を抱えたまま、まっすぐアレクシスを見た。


「閣下の外套にも、同じ噛み方があります」


 誰かが息を呑んだ。ルシアンの眉が露骨にひそむ。


「無礼だぞ、リゼット」


「無礼で結構です」


 口から出てから、そんな返し方をしたのは初めてだと気づく。熱くなる代わりに、頭の中は奇妙に澄んでいた。見えてしまった糸目を、見なかったことにはできない。


「けれど、見えています。祝福刺繍の流れに逆らう結び目が。もし私の見立てが間違っていれば、それで終わりです。でも、もし合っているなら」


 そこで言葉を切った。自分から先を言い切るのは危うい。リゼットは、相手が判断できる余地を残して説明する癖がある。


 アレクシスが、初めてはっきりと彼女を見た。氷のようだと噂される灰青の瞳は、思っていたより静かで、思っていたよりよく見ていた。


「続けて」


 短い声だった。命令口調ではあるのに、遮る感じがない。


「黒霜は、布の表面に出ているのではなく、糸の合わせ目へ噛んでいます。普通に切れば祝福ごと壊れます。けれど、絡んだ順を逆にたどれれば、黒い結び目だけを外せるかもしれません」


「できるのか」


「触れれば、確かめられます」


 その一言で、また空気が波立った。公爵の外套へ触れる。それだけで分を越えていると受け取る者は多いだろう。


 ルシアンが鼻で笑う。


「閣下、惑わされませんよう。彼女は目立つ術を持ちません。布をほどくことしかできないのです」


「だからこそだろう」


 返したのはアレクシスだった。抑揚の薄い声なのに、その場のざわめきを一息で切り落とす。


「壊さずに外せる者が必要だ」


 ルシアンの笑みが、わずかに固まった。


 アレクシスはリゼットへ向き直る。


「危険だと思ったら、すぐ手を引け。失敗の責は問わない。触れる前に、必要なものがあれば言え」


 その言い方に、リゼットは瞬きをした。試せと急かされるのではなく、やめる権利が先に置かれた。


「針を一本と、細い鋏を」


 彼女が言うと、近くの給仕が戸惑いながら裁縫籠を差し出した。婚約披露の会場では、ほつれの応急処置用に最低限の道具が置かれている。リゼットは自分の指ぬきをはめ、アレクシスへ一歩近づいた。


「外套の留め布に触れます」


「許可する」


 その一言があるだけで、肩に乗る重みが変わる。リゼットは息を整え、彼の外套の留め布へ指先を置いた。


 冷たい。けれど表面の冷えより、内側で硬く噛んでいる箇所の方がはっきり分かった。祝福糸は本来、布の伸びに合わせてわずかに遊ぶ。だが黒い結び目だけが、そこに石のように沈んでいる。


 留め布の縁を走る銀糸のうち、三本目。表へ出ているのは半目だけ。そこから裏へ潜った先で、黒が巻きついている。


「……いた」


 呟くと同時に、周囲の音が遠のいた。


 針先で銀糸を浮かせる。切らない。祝福の流れを壊さないよう、元の縫い順を指先でたどる。ひと目、ふた目、みっつ。そこで逆らう重みへぶつかった。


 リゼットは落ちていた婚約披露用の外套から、黒に侵されかけていた祝福糸を一本だけ抜き取った。同系統の祈りを帯びた糸なら、噛んだ結び目を誘い出せる。


 糸を針へ通し、黒い結び目の下へそっと滑らせる。ほどくのではない。まず、引き出す。


 次の瞬間、針先がじんと痺れた。


 やはり呪いだ。冷えが、指から手首へ這い上がろうとする。だが焦れば負ける。リゼットは息を浅く整え、銀糸を一度だけ手前へ返した。


 黒い糸が、ほんの爪先ほど浮く。


 そこで鋏を入れるのではなく、今度は逆向きに引く。


 結び目が、音もなくほどけた。


 ぱき、と小さな音がした。霜ではなく、強張っていた何かが砕ける音だった。アレクシスの手袋に張りついていた黒霜が、朝の薄氷のように砕けて落ちる。


 同時に、広間の空気を塞いでいた妙な冷たさがひと息ぶんだけやわらいだ。


 誰かが、「消えた」と震え声で言った。


 リゼットは顔を上げないまま訊ねる。


「痛みは」


 返事が来るまでの一拍が、異様に長い。


「……軽い」


 低い声が、今度はわずかに掠れていた。驚きを抑えきれなかった声だ。


 アレクシスが自分の右手を開き、閉じる。さっきまで硬かった指の動きが、明らかに違っていた。


「十日ぶりだ」


 それだけで十分だった。何が起きたのか、誰にでも分かる。


 ざわめきが爆ぜる。ルシアンが一歩踏み出した。


「まぐれです。たまたま糸が切れただけでしょう。そもそも、公爵閣下の不調と礼装の不備を結びつけるなど」


「切っていません」


 リゼットは静かに答えた。手の中には、黒い結び目だけが抜けた細片が残っている。銀糸は外套にそのまま留まっていた。


「祝福は残っています。黒い噛みだけを外しました」


 アレクシスが、留め布へ視線を落として確かめる。加護の刺繍はまだわずかに光を返していた。


「確かに、守りは消えていない」


 ルシアンの口元から余裕が引いた。


「そんな技法、王都の記録にありません」


「でしょうね」


 リゼットは黒い糸片を見つめた。乾いた煤のようなのに、触れるとまだ冷たい。


「守りのための縫いではありませんから。壊すために、守りの裏へ潜り込ませた結び目です」


 その瞬間、広間の壁際へ掛けられた見本布の一枚が、ぱらりと音を立てた。北辺向けの防寒結界布だ。飾りとして垂らされていたその端に、うっすら黒い霜が滲んでいる。


 リゼットは息を呑んだ。さっきまで目立たなかったのに、いまは見える。アレクシスの外套で緩んだせいか、同じ噛み方が別の布にも浮いてきたのだ。


「閣下」


 彼女が示すと、アレクシスは見本布を一瞥しただけで頷いた。


「領内の監視塔、街門の帳、寝台の防寒幕。黒霜が出た場所では、同じように布が死ぬ」


 短い報告口調だった。取り乱しも見栄もない。ただ事実だけを置く。


「医師も術師も、俺の体調と領地の被害を別々に見た。だが原因が同じなら話は変わる」


 灰青の目が、まっすぐリゼットへ向けられる。


「君は、いまそれを一か所ほどいた」


 褒め言葉でも感嘆でもない。確認だった。


 その確認が、ひどく正確で、リゼットの胸の奥を静かに打った。


 いままで彼女の刺繍は、丁寧だとか、控えめだとか、手堅いだとか、曖昧な形でしか評されなかった。何を見て、何をしたかまで言葉にされたことはほとんどない。


 ルシアンが苛立ちを隠さず言う。


「閣下、仮に少し効いたとしても、彼女は王都の職人組合でも評価の低い娘です。家を支えるには鈍すぎる。北辺の実務など」


「維持のための縫いを軽んじたのは、おまえの判断か」


 アレクシスの問いに、ルシアンは言葉を止めた。


「見栄えを優先し、裏の補強を削った結果なら、被害が広がるのも当然だ」


 声は平坦なのに、責任の線だけは曖昧にならない。


 客たちの視線が、今度はルシアンの足元に落ちた礼装外套へ向く。さっきまで無価値な布のように扱われていたそれが、急に別のものに見え始める。目に見えない縫いが、この場の空気ごとひっくり返しかけていた。


 ルシアンは唇を結び、なおも言い募ろうとしたが、リゼットはもう彼を見なかった。


 見るべき糸目が、別の場所にある。


「君の名を」


「リゼット・オルディスです」


「リゼット」


 名を呼ばれただけなのに、肩の力がわずかに抜けた。必要な人間として呼ばれた響きだった。


「ハルヴェイン公爵領へ来てほしい」


 広間がまた静まる。


「保護ではない。雇用だ。黒霜に侵された布と、俺の呪いを調べ、可能ならほどいてもらう。報酬は支払う。住む場所と作業部屋も用意する」


 そこで彼は一度言葉を切った。客たちの前で、断りにくい言い方をしないための間だと、なぜか分かった。


「ただし、これは命令ではない。王都に残る選択もある。君の事情を知らないまま、連れ出すつもりはない」


 胸の内側で、凍っていた場所に小さなひびが入る。


 必要だから連れていく。だが、決めるのは君だ。


 そんなふうに言われたことが、これまで一度でもあっただろうか。


 ルシアンが、笑いを作ろうとして失敗した顔で言う。


「閣下ともあろう方が、こんな娘を?」


 アレクシスはそちらを見もしなかった。


「こんな娘、では困る。必要な仕事をした人間だ」


 その一言は、派手ではないのに、よく効いた。


 リゼットの指にまだ残る痺れより、ずっと深いところへ届く。


 いつのまにか近づいていた従者が、封蝋の押された薄い書類包みを差し出した。アレクシスはそれを受け取り、リゼットの前へ置く。厚みのある羊皮紙だ。仮契約。滞在、報酬、作業権限、辞退の自由。その最初の数行が見えただけで、形式ではなく本気の文書だと分かった。


「今ここで返事をしなくていい」


 アレクシスの声は変わらず低い。


「読む時間を取れ。必要なら質問もしろ。そのうえで決めればいい」


 リゼットは契約書へ手を伸ばした。紙は冬の空気で少し冷えていたが、その重みは妙に確かだった。


 家に言われたから縫うのでもなく、婚約者に合わせて刺すのでもなく、自分の仕事として選ぶための紙。


 視界の端で、床に落ちたままの礼装外套が見えた。さっきまで捨てられたものの象徴だった布が、いまは黒い結び目を暴いた証拠になっている。


 ほどけたのは、糸だけではなかったのかもしれない。


 アレクシスが最後に言う。


「保護ではなく依頼だ。行くかどうかは、君が決めろ」


 誰にも見えないはずの糸目が、たしかに目の前でつながっていた。


 リゼットは契約書を抱え、はじめて、自分の指先がまだ仕事のために残されているのだと知った。

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