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二番裁台の針穴

 明朝一番で封じた西工房二番裁台には、まだ夜の熱が少しだけ残っていた。


 戸を開けた途端、糊と焦げた糸の匂いが流れてくる。工房の朝は早い。けれど今日だけは、織り台も裁ち机も半分が止められ、いちばん奥の二番裁台だけが封札の白さを浮かせていた。板の上には布端ひとつなく、それでも片付いた机には見えない。何かを剥がしたばかりの静けさだった。


 リゼットは裁台へ近づき、手袋を外さずに板の縁へ指先を置いた。表面の冷えの下に、ごく浅いぬくもりが残っている。夜のうちまで見本板が載り、重しが置かれていた熱だ。


「まだ乾き切っていません」


 呟くと、背後で工房番の男が息を呑んだ。


「朝から火は入れておりませんが」


「だからです」


 リゼットは視線を上げなかった。


「今朝の熱ではありません。昨夜まで載っていた板の跡です。木が冷え切る前に剥がしている」


 アレクシスが封札の脇へ立つ。誰にも裁台へ手を伸ばさせない位置だった。


「彼女が見るまで、帳面も抽斗もそのままだ」


 短い声が落ちると、工房の空気が一段引き締まる。西工房の書付係も、立会に呼ばれた工房頭も、誰も返答を急がなかった。先に順を決めるのはもうリゼットだと、昨夜の南控えで通っている。


 彼女はまず、南控えで押さえた欠け側見本の薄板を別布から取り出した。冬祈りの返し糸を写した薄板。その裏には新しい留め穴が三つ増えていた。


「板を」


 言うと、ヨナスが乾紙を差し入れた木板を裁台の脇へ置く。若い書記は出入り帳と小札を抱えたまま、すでに筆を構えている。


 リゼットは二番裁台の盤面へ灯を斜めに当てた。細い傷が縦に四本、横に二本。その交点のうち三つだけ、他より色が浅い。さらに盤面の右端には、針を浅く打ち直した小穴が弧を描いて並んでいた。


 薄板をそっと重ねる。


 裏の留め穴が、盤面の新しい小穴へぴたりと合った。


 喉の奥が静かに張る。昨夜見つけた時点で確信はあった。それでも、現物が同じ位置で噛み合うと重さが違う。


「この見本はここへ固定されていました。しかも最近まで」


 工房頭が顔をしかめる。


「古い見本板は、どの裁台にも一度は当てます。合ったからといって」


「古いなら、穴の縁が白く立ちません」


 リゼットは盤面の一点を示した。


「ここだけ木肌が新しい。昨夜か、その少し前です。見本板を外したあと、糊を拭ききれていない」


 実際、穴の縁には薄く乾いた糊が残り、その一つに青い二撚り麻の繊維が貼りついていた。北門の第三箱、北綴棚の仮綴補材、南控えの包み。何度も見てきた色と撚りだ。


 若い書記が息を詰めて書きつける。工房頭の横で、西工房の書付係が目を伏せた。


「出入り帳を」


 リゼットが言うと、ヨナスが裁台脇の棚から帳面を取り上げた。二番裁台の当日控えは、布幅と針数だけを記す簡単な帳面だ。だが最初の頁を開いた瞬間、違和感があった。


 同じ朝の欄なのに、二番裁台だけ記載が一度削られている。


『肩返し 第三』


 消し跡の底に、そう残っていた。上から被せた文字は『礼補 裂補い』。礼拝室補助名義へ直したつもりなのだろうが、筆圧が浅い。急いだ書き換えは、木札の上書きと同じ癖をしていた。


「返肩三刻」


 リゼットは昨夜の札と、薄綴じの工程記を頭の中で並べる。


「これは第三ではなく三刻です。工房では時刻より、返し順の第三工程として書いていたんですね」


 書付係の肩が震えた。


「違います、それは古い呼び方で」


「古いなら、なぜ今朝の欄へ書いたんですか」


 返すと、男は言葉を失った。


 リゼットは頁を繰る。二番裁台の欄だけ、ここ三日分の布幅が不自然に狭い。礼装の肩掛けや礼拝布の補修にしては細い。だが欠け側見本を横に置き、返し順だけを写すならちょうどいい幅だった。しかも前夜の欄外へ、さらに小さな付記があった。


『黒噛み増し分 二』


 礼拝布返納の帳に入る言葉ではない。南控えの先渡し札と同じ文言だ。


「二番裁台は見本を合わせる台でした」


 リゼットは帳面を閉じずに言った。


「欠け側見本を固定して、返肩三刻と黒噛み増し分だけを先に切り出す。正式帳へ載せる前の帳外補修線です」


 工房の奥で、誰かが小さく椅子を鳴らした。隠していた手順の呼び名を言い当てられると、人は沈黙の取り方を乱す。


 アレクシスはその音にも振り向かず、ただ一言だけ落とす。


「続けろ」


 その短さが、かえって背を押した。


 リゼットは裁台下の抽斗へ目を向ける。封は切られていない。だが鍵穴の縁だけ、煤が薄い。炉のそばで温めた鍵を差し直した跡だ。


「開けます」


 言うと、アレクシスは頷き、鍵を受け取った工房番へ顎を引いた。


 抽斗の中にあったのは、木札を束ねた小箱と細い紙片だった。紙片の上段には裁台番号、下段には受け渡し先。三枚目の札で、指が止まる。


『二番裁台 南控え差配役渡し』

『照合後 書記補印待ち』


 昨夜、南控えの書記補は「筆頭書記補付きの走り書き」と言った。けれど走り書きだけでは裁台は動かない。工房と南控えのあいだを、実際に渡して回す役がいる。


「差配役……」


 ヨナスが低く読む。


「筆頭書記補の名で動く、その下の手ですな」


「はい。返納綴係補より上で、工房頭より先に順番を決める役目です」


 札束のいちばん下には、見慣れない細長い紙が挟まっていた。礼拝室の灰線ではなく、王都側の衣装札に使われる淡い銀粉が端に残っている。


『冬礼肩返し ヴァレント家分は後箱へ回すな』


 胸の奥で、冷たいものがひとつ筋を引いた。ヴァレント家。元婚約者の家名は、ここまでずっと帳面の外側にいた。損傷布と回収役と照会状では見えても、領内の現行線へ直接は現れなかった。それが今、二番裁台の抽斗から出た。


 工房頭の顔色が変わる。


「それは古い控えです。今の発注とは関係ない」


「古い控えなら、なぜ差配役渡しの札と一緒にしまってあるんですか」


 リゼットは紙の端を指で押さえた。


「しかも銀粉が新しい。王都衣装札から移ったばかりです」


 工房頭は何か言い返そうとして、喉を詰まらせた。代わりに、西工房の書付係が一歩だけ後ずさる。


 そこを逃さず、リゼットは帳面と札束を並べた。


「返肩三刻を二番裁台で切り出す。黒噛み増し分を帳外で先に回す。南控え差配役が工房へ順を渡し、照合後は書記補印で表の名目だけ整える。そしてヴァレント家分だけは後箱へ回さない」


 ひとつずつ言葉にすると、机の上で別々だった紙片が、ようやく一本の線になる。


「礼拝室補助係でも工房頭でも終わりません。この補修線は、王都側の損失を避ける順番まで含めて、まだ生きています」


 西工房の奥がしんと静まった。


 次に動いたのはアレクシスだった。彼は裁台の前へ半歩だけ出ると、工房全体へ聞こえる声量で告げる。


「二番裁台と南控え差配役の受渡帳を押収する。今日以降、肩返しと黒噛み増し分の判断はすべて黒霜検分役を通せ」


 工房の職人たちが顔を上げる。誰の仕事を止め、誰の判断を先に置くか。その線引きが、もう迷いなく公に言われた。


 いま先に立っているのは、自分の順だ。館の損失を止める基準として通っている。


 その実感は熱より静かで、けれど指先の震えを止めるには十分だった。


「差配役の名は帳面に残っているはずです」


 リゼットは抽斗の底板へ目を落とした。底の一枚だけ色が違う。持ち上げると、下から細い綴じが現れた。受渡控えだ。頁を開くと、日付ごとの欄外へ同じ略号が並んでいる。


『南差 セ』


 署名は短い。だがその横に、筆頭書記室の控え印が半分だけ重ねられていた。


「役目だけではありません」


 リゼットは綴じを持ち上げる。


「南控え差配役の頭文字まで出ています。次はこの受渡控えと筆頭書記室の控え印を重ねれば、誰が順番を運んでいたか名前まで絞れます」


 ヨナスがすぐに応じた。


「北館の右卓へ回しましょう。南控えの在番表と照らせば、今朝のうちに狭められる」


 工房頭が青ざめたまま口を開く。


「待ってください。差配役はただの伝達で、工房の裁断順は」


「ただの伝達なら」


 リゼットは彼を見た。


「ヴァレント家分だけを後箱から外す指示は出せません」


 男は黙る。


 それで十分だった。誰が何を知っていて、どこまで黙っていたかは、もう言い訳の速さに出ている。


 アレクシスが手袋の指先で封札を示す。


「西工房二番裁台は今日から封鎖継続だ。開けるときは彼女を呼べ」


 職人のひとりが、はっとしたように頷いた。反発ではなく、止まってよかったという顔だった。帳外の順で急がされていたのは、上だけではないのだろう。


 リゼットは欠け側見本の薄板を木板へ戻した。新しい針穴、削られた帳面、差配役渡しの札、ヴァレント家分の紙片。南控えで止めた線が、ここで現役の作業として繋がった。


 そして次に見るべき場所も、もう曖昧ではない。南控え差配役だ。筆頭書記室の控え印を帯びたその受渡役が、工房へ順を落とし、ヴァレント家分まで選り分けていたのなら、次の局面では人を呼び出せる。


 アレクシスが裁台から半歩引き、彼女の進む側を空けた。


「右卓へ戻るか」


 問いは短い。急かしも決めつけもない。


 リゼットは受渡控えを抱え直した。


「戻ります。南控えの在番表と重ねたいです」


「その順で進める」


 彼はそれだけ言い、誰より先に戸口を塞いでいた体を開いた。工房の冷えた空気が動く。だが二番裁台の上だけは、まだ昨夜の熱を薄く残していた。


 見本板を剥がしても、運用の痕は消えない。


 次は、その順番を人の名で押さえる番だった。

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