在番表の名
北館記録室の右卓へ戻された受渡控えには、『南差 セ』の横へ半分だけ潰れた控え印が残っていた。
丸印の下端だけがわずかに欠け、紙端には乾ききる前に重ねた指の跡がある。ただの略記なら、ここまで急いで押す必要はない。誰かが名を隠すより先に、順だけ通した印だった。
リゼットは控えを机へ置き、南控えから運ばせた在番表をその隣へ広げた。朝のうちに外されたばかりらしく、板紙の裏がまだ冷たい。上段には当番名、下段には受渡役、差配役、控え札持ちの順。南控えの小さな役目が、ここではきちんと列になっていた。
「印箱もお願いします」
言うと、若い書記がすぐに黒布の箱を運んだ。南控えで使う控え印が並んでいる。どれも似た丸印だが、縁の削れ方までは揃わない。
アレクシスは右卓の向かい側へ立ち、箱にも在番表にも手を出さなかった。
「呼ぶ名も、止める順も、君が決めろ」
短い声だった。許しではない。もうこの席で決める側が誰か、先に揺らがせないための言葉だった。
喉の奥で、張っていたものが静かにほどける。守られるから残るのではない。自分の順で止めるために、ここへいる。
リゼットはまず、二番裁台から出た紙片を三つ並べた。『南控え差配役渡し』『照合後 書記補印待ち』『冬礼肩返し ヴァレント家分は後箱へ回すな』。その横へ受渡控え『南差 セ』を置き、最後に在番表を重ねる。
差配役の欄に並ぶ名は四つしかない。
ネラ。
ホルン。
セルマ。
イェル。
そのうち『セ』で始まるのは一人だけだった。だが、それだけでは弱い。リゼットは在番表の右端へ灯を寄せ、筆圧の流れを見た。
セルマ・エーデル。
その名の横にある受渡刻限の書き方だけ、二番裁台の札束とよく似ている。横画が少し上がり、最後を払わず切る癖。さらに差配役の欄外には、小さく『後箱順 一つ繰上げ』と書き足されていた。『後箱』の二文字が、『ヴァレント家分は後箱へ回すな』の紙片と同じ細さで沈んでいる。
「これです」
リゼットは在番表の欄外を指した。
「南差の『セ』は、たぶんセルマ。けれど決め手は頭文字じゃありません。後箱順の書き足しと、受渡控えの筆圧が同じです」
ヨナスが身を寄せる。
「在番表へ順番そのものを書き換えたのですな」
「はい。しかも差配役の欄にだけ。受渡役なら荷を動かすだけで済みます。でも後箱順を変えるなら、誰を先に通すかまで決めていた」
印箱を開く。丸印が八つ、木札に挟まれている。リゼットは受渡控えの潰れた印へ薄紙を当て、ひとつずつ重ねた。
三つ目で止まる。
セルマの控え印だけ、下端に小さな欠けがあった。しかも欠けの脇へ細い筋が一本入っている。潰れた印の残りと、ぴたりと重なる。
若い書記が思わず息を吸った。
「一致しています」
「ええ」
リゼットは薄紙を外さずに頷いた。
「南控え差配役はセルマ・エーデルです。二番裁台へ順を渡していたのも、ヴァレント家分だけ後箱から外していたのも、この印を使う席からです」
その瞬間、戸口の外で小さく靴音が乱れた。南控えから呼びに行かせていた書記が戻り、低く告げる。
「セルマ・エーデル、参りました」
「通してください」
そう言ったのはリゼットだった。自分でも、声が思ったより静かだった。
入ってきた女は、三十前後に見えた。灰青の袖口は整っているのに、右手の親指だけ薄く銀粉が残っている。王都衣装札を扱ったときに付く、細かな粉だ。視線は最初アレクシスへ向かったが、彼が何も言わず右卓の脇を空けたことで、すぐにリゼットへ戻った。
「南控え差配役、セルマ・エーデル」
リゼットは受渡控えを押さえたまま言った。
「この印はあなたのものですね」
セルマは薄く笑おうとして失敗した。
「控え印は共有です。誰が押しても」
「共有なら、欠けも同じですか」
薄紙をめくり、印箱の三つ目を並べる。欠けた下端と細い筋が、見比べなくても分かる。
セルマの喉が動いた。
「偶然でしょう」
「では、偶然でこの欄外も同じになりますか」
在番表の『後箱順 一つ繰上げ』と、紙片の『後箱へ回すな』を隣へ置く。どちらも『後』のはねが浅い。『箱』の最終画だけ、わずかに右へ流れる。二番裁台の札束で何度も見た癖だった。
セルマは言い返さない。代わりに右手を袖の影へ引こうとした。
リゼットはその指先を見た。銀粉の下に、ごく薄い青い繊維が残っている。青い二撚り麻のけばだ。北門、北綴棚、南控え、二番裁台。帳外の補修線で繰り返し見てきた色だった。
「王都衣装札と、北館の麻紐を同じ日に触っていますね」
セルマの顔色が変わる。
「違います。私はただ、控えを渡しただけで」
「渡しただけなら、後箱順は変えられません」
リゼットは言葉を切らなかった。
「差配役の席で、ヴァレント家分だけを繰り上げる。南控えの控え印を押し、二番裁台へ順を回す。礼拝室補助係でも工房頭でもなく、あなたがここをつないでいました」
沈黙が落ちる。右卓の木が冷たい。けれど今日は、その冷えに引かれない。
アレクシスが一歩だけ卓の外へ退いた。問いを奪わない位置だった。
「続けろ」
その短さで十分だった。
リゼットは最後の紙片を持ち上げる。
「知りたいのは次です。あなたが自分で順を決めたのか、それとも上から渡されたのか」
セルマは唇を引き結んだ。否定を選ぶ顔ではない。どこまで落とせば自分だけで済むかを量る顔だ。王都で何度も見た。
「……筆頭書記補付きの室札でした」
やっと出た声はかすれていた。
「札には名がありません。ただ、南控えでは皆、誰の札か知っていました。ヘルム補です」
ヨナスが目を細める。
「筆頭書記補ヘルム・ラーデン」
セルマは小さく頷いた。
「照合後に押し紙を待て、と。ヴァレント家分は先に抜け、と。冬礼肩返しの紙片も、室札へ挟まっていました」
胸の奥で、冷たい線が一本に繋がる。セルマは中継役だ。けれど札の上へ旧環境の名を差し入れ、現行の補修線と同じ順へ載せたのは、もっと上の手だ。
リゼットは在番表の端を押さえた。
「ヘルム補は、いまどこにいますか」
「午の刻から北館第二会計卓です。南控えの控え印台も、今夕には戻せと」
若い書記がはっと顔を上げる。第二会計卓なら、人目がある。帳面も、呼び出しも、公の場で通せる。
リゼットは受渡控え、在番表、印箱の薄紙を順に重ね、木板へ載せた。
「保全します。セルマ・エーデルは南控え差配役として、二番裁台への順渡しと後箱順の書き換えを認めました。次は筆頭書記補ヘルム・ラーデンを、右卓ではなく第二会計卓で止めます」
自分の声が、もう借り物に聞こえなかった。
アレクシスはそこで初めて、周囲へ向けて告げた。
「記せ。第二会計卓の帳、南控え控え印台、冬礼肩返し関連の室札は、黒霜検分役立会いのもとで封じる」
公の命令が人の口へ移る。だが順を決めたのは、先に右卓で重ねた自分の紙だった。
セルマは膝から力を抜きかけたまま、机を見ている。怯えより、遅すぎた顔だった。ヴァレント家分だけは後箱へ回さない。その順で救われるものと、切り捨てられるものがあると、きっと知っていた。
リゼットは木板を抱えた。控え印の欠け、在番表の書き足し、青い麻のけば、銀粉の残り。紙の癖だった線が、ようやく人の名になった。
そして次に呼ぶべき相手も、もう役目ではなく一人の顔を持っている。
北館第二会計卓。
そこでヘルム・ラーデンが何を失うのかを、今度は公の順で決められる。




