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奥留の薄綴じ

 北綴棚六段の前には、朝のうちに打たれた封札がまだ乾き切らずに残っていた。


 棚板へ近づくと、紙と灰の乾いた匂いの奥で、昨夜まで触られていた木の冷えが分かる。表へ並べられた仮綴じ束は整っているのに、いちばん奥だけ、薄い影が一枚ぶんずれていた。受渡帳の欄外へ残っていた『奥留』と、ちょうど同じ高さだった。


「段差がある。台を押さえる」


 アレクシスの声は短かった。許可を待つ間だけ手を出さない。その癖が、もう彼女の呼吸を乱さなかった。


「お願いします」


 リゼットが答えると、彼は踏み台の片側へ手を置いた。ヨナスは右卓から運ばせた厚い灯を棚脇へ寄せ、若い書記は何も言われないうちに封札を書き直す板を広げる。誰がどこへ立つかまで、彼女の順で揃っていた。


 踏み台へ上がり、六段の奥へ指を差し入れる。表の綴じ束より半指ぶんだけ低く、棚板の木口へ擦れた跡があった。灰を吸った薄綴じをそっと引くと、表紙の上半分だけ削られた小帳面が現れる。外題は消しかけてあったが、削り切れなかった墨が左端に細く残っていた。


『……留控』


 完全には消えていない。消し急いだ手の雑さが、かえって助かった。


 綴じ紐は青い二撚り麻ではなく、もっと細い灰糸だった。北門へ出す前の仮留めに使う糸だ。棚の奥へ押し込んだまま、あとで処分するつもりだったのだろう。


 リゼットは薄綴じを抱えたまま下りた。机へ戻す前に、アレクシスが視線だけで問う。


「続けられるか」


 頷くと、彼はそれ以上言わず、右卓の空きを広げさせた。灯が一段近づき、棚から持ち出した薄綴じの影が木板へ長く落ちる。


 表紙を開く。


 最初の頁には三つの欄があった。


『表書名』

『実綴先』

『工程記』


 その下に走る最初の一行だけ、左の欄が深く削られている。けれど紙繊維の毛羽は消えていなかった。灯を斜めに当てると、削り跡の底で文字の足だけが浮く。


『礼……補……』


 表へ出す名は礼拝室補助係。だが右の欄は削られていない。


『衣装部筆頭書記室 南控え』


 さらに三つ目の欄には、見慣れた工程記号があった。


『返肩三刻』


 喉の奥が、静かに強張る。


 第七補の別紙、北門で止めた第三箱、西礼拝室の掛布とヴァレント家礼装の肩掛け。あちこちで見えていた切れ端が、ここで同じ行へ揃った。


 しかも欄の並びが嫌に手慣れている。表書名、実綴先、工程記。どれも長さが違うはずなのに、罫線の幅は毎回同じだ。最初から礼拝室へ返す名と、実際に残す先と、補修の手順とを分けて書くための帳面だった。


「南控え……」


 ヨナスが低く読む。


「筆頭書記室の表ではなく、その手前の控え部屋ですか」


「はい」


 リゼットは返納綴別紙と受渡帳を薄綴じの脇へ並べた。


「表では礼拝室補助名へ替える。でも、実際に綴じて留める先は南控えへ残す。返納綴係補は、この控えで切り捨てる名と残す手順を分けていたんです」


 次の頁をめくると、さらに短い追記が出た。


『原綴片 冬祈返し欠け側』

『黒噛み増し時 同式』


 その二行だけ、筆圧が浅い。急ぎで書き足した文字だ。けれど浅いぶん、余計な飾りがなくて読みやすい。


 冬祈りの返し糸。その欠け側。南祭室で見た原布の傷と、いま領内を蝕んでいる黒霜が、同じ継続手順の上に置かれている。古い事故の名残ではない。運用がまだ切れていない。


 薄綴じの中央に、小さな紙片が縫い留められていた。布ではない。照合符の押し跡を試すための薄紙だ。細長い圧痕の左半分だけが残り、礼拝室の灰線に似た細線がうっすら走っている。


 リゼットは第九話で写した衣装部照合符の幅を思い出し、紙片の端へ指を置いた。ぴたりと合う。


「照合符の予備押しです」


「本符を使う前の試し押し、か」


「ええ。ここで幅を確かめてから、本符を南控えへ回している」


 試し押しの紙片があるなら、副封台から第三箱へ出た線は一度きりの隠し便ではない。南控えで受ける前提の実務が、何度も続いていたことになる。


 若い書記が、息を詰めたまま机の端へ寄った。


「では、礼拝室補助係の名で返納された綴じも……」


「返納されたように見せただけです」


 リゼットは薄綴じを閉じずに言った。


「表書だけ礼拝室へ戻す。実際には南控えへ残し、工程記は返肩三刻のまま回す。そうすれば、礼拝室側を切り捨てても、衣装部の補修線だけは消えません」


 その瞬間、王都で何度も見た帳場の顔が胸の奥へよぎった。大きな名だけ守って、消してもよい名前から先に剥がす手つき。自分がそこへ並べられた側だった時間が長いからこそ、この薄綴じの嫌な整い方がよく分かる。


 だが今は、喉を塞ぐだけで終わらない。右卓へ並べた紙は、順に読めば止める場所まで教えてくれる。


「まだあります」


 薄綴じの最終頁へ指を挟む。そこだけ紙質が違った。少し厚く、炉前の湿りを吸って波打っている。折り畳まれた小札が、一枚だけ綴じ糸へ半分噛ませてあった。


 開く。


『夕四刻 南控え炉前』

『工房頭立会』

『黒噛み増し分 先渡』


 右卓の空気が、そこで止まった。


 今夜だ。


 しかも南控えの炉前。焼き捨てるにも、封蝋を柔らかく戻すにも都合のいい場所だった。工房頭まで立ち会うなら、衣装部と工房のどちらがいま黒霜補修の現行線を握っているか、そこでさらに狭められる。


「急ぎますか」


 ヨナスが問うた。


 リゼットはすぐには頷かなかった。薄綴じ、受渡帳、返納綴別紙、予備押しの紙片。先に保つべきものと、今夜取りに行くべきものを並べる。


「返納綴係補はまだ呼びません」


 視線を上げる。


「いま呼べば、礼拝室補助係の名だけ認めて終わります。先に南控えの先渡札を押さえたいです。工房頭立会まで出ているなら、そこで残すつもりの線がある」


 アレクシスが短く頷く。


「封印文言は」


 問われたのは許可ではなく、文面だった。


 若い書記が慌てて筆を取り直す。誰の名で押さえるかを決める位置へ、もう彼女が立っている。


 リゼットは右卓の端へ指を置いた。冷たい木の感触が、かえって思考を揃える。


「北綴棚六段奥留物、黒霜検分役立会いのもと保全」


 一拍置いて、続ける。


「南控え受渡札、同役照合前の移動を無効」


 書記の筆先が止まり、すぐに走り出す。アレクシスは文面を聞き終えると、そのまま戸口の衛兵へ向けて言った。


「記せ。起案者は黒霜検分役リゼット・オルディス」


 胸の奥へ息が入る。


 称賛より先に、現実が来た。右卓で読んだ順が、そのまま館内の手順へ移される。借りているだけの席なら、起案者名までは残らない。


 若い書記は迷わず書き足した。ヨナスは薄綴じの下へ乾紙を差し入れ、試し押し紙片を別板へ移す。衛兵は封札と立会人の名簿を取りに走った。棚の奥で見つかった薄い帳面が、もうただの証拠ではなく、今夜の動きを止めるための起点になっている。


 戸口の外では、命令を受けた夜番が復唱を短く返していた。南控え、夕四刻、照合前は無効。言葉が人の口へ移るたび、紙の上で読んだだけだった線が館の廊下を走り始める。右卓へ積んだ控えは増えていくのに、不思議と重さはばらけなかった。


 アレクシスが火鉢を少し右卓へ寄せた。


「指が冷えている」


 そう言っても、勝手には触れない。彼は火鉢の位置だけ整え、踏み台を棚脇から机のそばへ戻した。


「南控えは夜まで待てる。ここで読んでから行く」


「はい」


 返した声が、自分でも思ったより落ち着いていた。


 リゼットは薄綴じの残り頁を追った。件数は多くない。だが『返肩三刻』の行だけ、礼拝室補助名へ替えたあとも実綴先が毎回南控えへ揃っている。途中の一葉には、さらに細い追記があった。


『欠け側見本 冬終わりまで戻し不要』


 戻さない。つまり、使い続ける前提で預けている。


 南祭室から抜かれた欠け側の返し糸は、十四年前の肩返し見本として一度流れただけではない。その働きを写した補修線が、いまも冬の終わりまで回る前提で温存されている。


 もし南控えで今夜の先渡しまで通れば、礼装の不調も礼拝布の傷みも、また同じ殻を被せて先へ流される。ここで止めなければ、いま手元にある薄綴じも、予備押し紙片も、全部『古い控えでした』で畳まれる。そう思うと、焦りは上がるのに、指先はむしろ静かになった。


「黒霜は、昔の写し残りだけじゃありません」


 リゼットは呟くように言った。


「欠け側を見本にした補修線が、今年の冬まで続いている。だから礼装も礼拝布も、同じ工程記で傷んだんです」


 ヨナスが帳面の上へ手を置いた。


「なら、今夜止める相手は返納綴係補だけでは足りませんな」


「ええ。南控えで受ける側も、立ち会う工房頭も必要です」


 言葉にすると、次の相手が輪郭を持つ。紙の上の痕跡だけではなく、いま動いている人間の順番へ変わる。


 戸口の外で、夕刻の前触れの鐘が遠く鳴った。まだ早い。だが南控え炉前へ運ばれるなら、先に待つ手もある。


 アレクシスは封印文の控えへ目を落とし、最後にだけ視線を上げた。


「今夜、南控えへ行く」


 それは命令ではなかった。もう並んで動く前提だけが、静かに置かれている。


 リゼットは右卓の上へ、夕四刻の小札をまっすぐ置き直した。薄綴じ、予備押しの紙片、返納綴別紙、その横に新しい封印文の控え。戻ればまたここへ並べ直せると、もう迷わず思える。


 次に押さえる場所は、もう決まっていた。

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