15話
仮想空想OP
水曜日のカンパネラ 『シャルロッテ』
…いらっ…い…こ、に…い…っしゃい
何か声が聞こえる。
何かに呼ばれている気がする。
こっちに…いらっしゃい
何も見えない。ここはどこだろう。
でも、なんでかな…?向こうに、行かなきゃ。
向こうに行って、あの手を掴まないと。
今後こそ僕が、あの手を、あの子を救わないと。
月明かりのない真っ暗な夜に、ポツンと闇を照らす街頭の明かりのような。何も見えない視線の先に、その両手だけがはっきりと見える。不思議なことに、手から先は見えない。
まだ遠くにあるのに、色白で透明感のある肌感が伝わってくる。なぜかその手の持ち主を、女性だと思った。理由はわからない。でも、無性に触れてみたくなった。
足元も見えない暗闇の中を、歩く。
ただ真っ直ぐ。最短距離であの手のところまで。
足先に何かをぶつけようとも、小指を挫こうとも、水の中に入ろうとも、その歩みを止めない。
足先から太もも、お尻、胸元、首下。
段々と深くなる。もうここで止めないと、口の下まで来ているのに…なのに、僕は歩くのを辞めない。辞められない。もうすぐ、もうすぐそこまで、あの手に触れられるところまで来ているから。だから、あと一歩だけ―――
その一歩を踏み出した途端、階段を踏み外したかのような感覚に襲われる。足元にあった感覚が消えて、そして、一気に深く、堕ちていく。
でも、不思議と苦しくはない。
息ができないはずなのに、やけに落ち着いている。
あのぼやけて見える両手が、とても綺麗で、美しいから、落ち着けているのだろうか…
あぁ…この感覚。
夏の、暑い夏の日に、プールの中から太陽を見ている時と似ている。水の中で目を開けると、光が水に反射してとても綺麗に見えるあの感覚に。
あぁ…なんだか、眠たくなってきた。ずっと見ていたいのに、瞼が下がってくるのを止められない。あぁ…このまま、微睡の中、眠ってしまうのも悪くない。いやむしろ、気持ちが良い。そうしたい。そうするべきだ…あぁ…もう何もかも…どうでもぃ……
落ちていく…
堕ちていく…
墜ちていく…
―――ん?なんだ?ズボンのポケットが温かい。
いや、これは…!熱い!!?焼けるように熱い!!なんだこれは!?
肌が焼けるほどの熱さを太ももに感じ、原因を特定するために、そっちを見ると、右のポケットが橙色に発光している。
このままだと火傷してしまう!
そう思い、右のポケットから、発光している物を取り出した。
それは、あの子から借りたハンカチだった。
不思議なことに、ポケットから取り出した瞬間、熱さが消えて、キーリュ(金木犀)の匂いがふわりと香った。
そして、突然の息苦しさが僕を襲う。
今まで心地良く感じていたものが、突如として翻り、酸素を求めて足掻く自分がそこにいた。
だけど、もう自力では戻れない。
光が届かない奥深くほど堕ちてしまった。どっちが上なのか、どっちに行けば良いのか、それすら分からない。
僕はこのままここで、この世界で、誰にも加護もいただけず、誰にも気付かれずに、終わっていくんだ。
そう諦めかけた時、ポケットから取り出し、手に持っていたハンカチが、ひとりでに動き出した。
ポケットから出した時から発光していたハンカチは、手を開くとふわっと浮き上がり、少し離れたところでその光を強め、黄金に輝き出す。余りの眩しさに手持ち無沙汰になった手で、目に入る光を遮る。
数秒で黄金の光は収まり、手をどかすとそこには、ハンカチで折られた八咫烏と長鳴鶏が現れた。一枚のハンカチから分裂したのか分からないけど、その分、身体は小さい。
赤い鶏冠に真っ白な羽毛の長鳴鶏(現代のニワトリ)は、こっちを一瞥すると、どこかへと飛んでいった。
真っ暗な羽毛に三本足の八咫烏は、その青い瞳でじっとこっちを見ている。まるで、折り紙で折られたかのような作り物の八咫烏の顔に、なぜか安心感を覚える。
長鳴鶏が飛び立ってから数秒後、突如、強い光が差し込んだ。さっきまで真っ暗だった周囲が光で照らされる。
僕の身体は、いつの間にか反転していたようで、光が照らした方向とは真逆の方に頭があった。頭のある方が水面だと思って無闇に進んでいたら危なかった。
だけど…どっちみち、もう息が限界だ。
どっちに上がっていけばいいか分かった所で、そこまで昇っていく力が残っていない。
残り少ない息が無常にも吐き出され、力を失った身体が、ゆっくりと沈む始める。あぁ…やっぱり駄目だ…
落ちる身体と堕ちる気持ち。
それに寄り添うかのように、八咫烏が近付き、その三本の足で、僕の腕を掴んだ。
そして、その小さな身体からは想像できないほどの力強い動きで羽を動かし羽ばたくと、一気に上昇。水の中とは思えないほどの軽やかな動きで、昇っていく。
上がっていくにつれ、周りの暗闇が徐々に明るくなっていく。夜の海から朝の海に変わっていくような。不思議な感覚とともに、八咫烏は、勢いよく海面から飛び出した。息苦しさが消え、息を吸い込むと肺の中に、朝一番の少し冷えた空気が入ってくる。
軽くなった瞼を上げ、目を開ける。
夜明けを告げる太陽が燦々と輝き、辺り一面を照らしていた。さっき飛んで行った長鳴鶏が、近くの岩の上で「コッケコッコー!!!」と力強く、長く鳴いている。
長鳴烏と八咫烏は、僕をあの中から救い出してくれた、んだと思う。そう思いたい。
あの暗闇の中、何も分からない僕に道を示し、帰るべき場所へと案内してくれた。
ふと目が覚めると、僕は、車の中だった。
母の肩に頭を預ける形で眠っていたようだ。
「…起きたの?シャルちゃん」
「…うん。なんだか長い夢を見ていた気がする」
「そう…まだお家に着かないから、もう少し寝てなさい」
「うん…分かったよ」
微睡の中、窓の外から差し込む陽光が顔に当たる。眩しさと同時に温かさを感じながら、僕はまた、眠りについた。
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