『旅』の精霊、『剣』の精霊
精霊……それはこの世界の表に属する存在のひとつ。
全ての精霊は、名も無き『無の精霊』として旅を始める。
されど自らの在り方を見つけた精霊は、『名持ちの精霊』として名と姿と力を得ると言う。
そしてこれは、『旅』を自らの道とする一人の精霊の旅路を覗き見る物語。
「来るな……来るなぁ!」
朝の木漏れ日に照らされ、木々の柔らかな匂いが香る。
一人の男の魔人が必死に走っている。暖かな風が木々の葉を揺らす音に混じって、男の足音と荒い息遣いが森の中に響いている。
男は足元の木の根に気付かずにその場に転がった。
「くそ……っ!」
咄嗟に後ろを振り向いた男の瞳に映るのは、異形と言うのがふさわしい化け物。真っ黒な巨大な体躯に逞しい二本の足と四本の腕。大きく開いた口からは、鋭い牙が覗いている。
その周りには黒い霧のようなものが広がって辺りを覆っている。そこだけが、まるで晴れた朝であることを忘れたかのように空気が冷えて淀んでいた。
「やめ……やめてくれ」
震えた声を出しながら腰の抜けた体を引きずるように動かす男に化物がその巨大な手を伸ばす。
霧に包まれた男の体は軽く痙攣して上手く動きもせず、それ以上逃げることなど叶わない。
あわやその手が男の身体を掴み上げようとするその瞬間。霧の中に青い閃光が走る。
「グアァァッ!」
化物の呻き声と同時にその体から切り離された一本の腕が地に落ちる鈍い音が小さく響く。
そして次の瞬間、青い光が再び奔る。
化物の巨大な体が崩れて黒い粒子となって消えて行く。それと同時に、辺りに広がっていた霧も少しずつ晴れ始める。
「……え?」
小さく息を吐き出すように声を上げた男の瞳に、晴れ行く霧の中に立つ一人の人型の存在が目に映る。
淡い灰色の瞳が、男をじっと見つめていた。
再び差し込んできた暖かな朝日が、膝上くらいまであるその長い濃紺の髪を優しく照らす。
「そこの魔人の方。大丈夫だったかい?」
深く、それでいて澄み切った鈴の音のような声が凛と響く。
「え? えっと……もしかしてあなたが、さっき?」
男性か女性かも判断できないその存在からは、魔人のそれとは全く違った空気が漂っている。
「まさか……名持ちの?」
名持ちの精霊……その存在は当たり前の知識として知られている。
されど、実際にはその存在はとても珍しく希少なもの。
「僕は『旅』を名乗る精霊、リアン。それにしても無事で良かった。間に合わないかと思ったよ」
「ははは! そこの魔人、感謝しろよ? もう少しでただの肉の塊になる所だったぜ?」
途端、辺りに新しい声が響く。
男のものでも、リアンのものでもない。リアンの声とは違い、少し陽気で豪快さのある響き。
「だ、誰ですか?」
男は声の主を探すように辺りを見回す。
だが、まだ朝も早い森の奥でに居るのは男とリアンだけだ。
「こっちだよ、こっち! ちゃんとよく見ろ!」
男が声の方向に視線を向ける。その先には、リアンの姿……いや、リアンの持つ剣がある。
藍色の刀身が、朝日を受けて光っている。
「はっ! 俺は『剣』を名乗っている精霊、ヴェイグだ。よろしくな、魔人」
「それで、魔人のお方。あなたのお名前は?」
「あ! そうだ、忘れてました。私はクレイル、近くの街で薬師をしています。ちょっとだけ薬草を取りに来ただけだったんですが。その、本当に助かりました。ありがとうございます」
男はやっとまともに動けるようになった体で服に着いた汚れを手ではたきながら立ち上がると、深く頭を下げる。
「いやいや、気にしないでくれ。『悪霊』に遭遇するなんて君も災難だったね」
「まったく、『穢れ』はほんとに忌々しいもんだぜ。俺たちの邪魔ばかりしやがる」
リアンの手を離れたヴェイグは一人で宙に浮きながらリアンの周りをくるくる回っている。
「しょうがないさ。『穢れ』もまたこの世界の在り方の一つ……そしてそこから生まれる『悪霊』もまた この世界に生きようとする存在だ。僕たちとは相容れないだけでね」
リアンはそう言うと宙に浮いていたヴェイグを手に取ると腰の鞘に納める。
「さて、クレイルさん。良ければ僕たちを街まで案内して貰えないかい?旅の途中の折角の縁だ、少し楽しくおしゃべりでもしながら……ね?」
その姿からは朝にも関わらず、心地よく冷えた夜の空気の匂いが漂ってくるような不思議な雰囲気が醸し出されている。しかしその笑顔には確かな温かさがある。
「え、ええ。もちろん構いません。ただ……まだ薬草が集まっていなくて……」
「ああ、なるほど。それなら、僕たちも少しお手伝いしましょうか」
「はっ! リアン、お前は相変わらず世話焼きのお人よしだな」
「ふふ、そうかもね。でもヴェイグ、それが旅の醍醐味と言うものさ。いつも言っているだろ?」
「はんっ、分かってるさお前のことくらい。それに俺はお前のそういう所好きだからな。伊達に10万年近く一緒に旅してるわけじゃねぇ」
クレイルはリアンとヴェイグの軽やかな応酬を聞きつつ目を見開いていた。
『名持ち』として10万年も生きていると言う二人の精霊……それはまさに古の精霊と呼ぶにふさわしい存在。
魔人と比べると果てしない寿命を持つ精霊であったとしても、それだけの時間を生きる存在など滅多にない……それどころか本来あり得ない。
「そ、その……良いんですか?」
「ああ、もちろん。こう見えても旅の経験は豊富なんだ! 薬草を見分けるくらい朝飯前だよ」
その後、リアンはクレイルと共に薬草を集める。
リアンが自身で言っていた通り、其はクレイルにも負けない見事な手つきで次々と薬草を摘み取っている。
クレイルが持ってきていた袋はあっと言う間に一杯になった。
「さて、これくらいで大丈夫かい?」
「はい! むしろ予定以上にたくさん集まりました」
クレイルが満面の笑みを浮かべながら薬草で溢れる袋をゆっくりと持ち上げて背中に背負う。
「お二方、お付き合いいただいてありがとうございます。約束通り、街に案内しますね!」
「おお! 頼むぜ、クレイル。最近コイツとしか話してなくていい加減少し退屈してたんだ。まったく、久しぶりの人里だぜ」
リアンが腰に収めたヴェイグから、相変わらず豪快な声が響く。
リアンはヴェイグの軽口に応えるように軽くその柄を叩いて見せると、先頭を歩くクレイルの背中を追って歩き出す。
朝の暖かな風が二人の背中を優しく撫でる。
「その、リアンさんにヴェイグさん。色々聞いてみたいこととかあるんですけど……お二人ってどこから来たんです?」




