穢れた日常
男は重い足を進める。
核に近づくにつれて男の息が荒くなり、額に汗が浮かぶ。
英雄として戦う者の多くは、穢れに対してある程度人よりも高い耐性を持つものである。それでも、その黒い地獄は消えかけた祈りだけを纏った、一人のただの人を確かに蝕んでいる。
「……ふぅ」
男は地面に転がるものを避けるようにして歩き、核の目の前まで辿り着く。
地面に刺した剣を支えに息を吐くが、下に向けた顔をしかめてすぐに上げる。それでも男は、地面に転がる光を失った一つの瞳と目が合ったような感覚が忘れられない。
「……くそったれ」
穢れの気配に紛れて漂う鼻が潰れるような匂いに男はえづく。それでも、外に出てくるだけのものはもう残っていなかった。少し酸っぱくなった口元を手で乱暴に拭うと、剣を地面から抜く。
剣を両手で上に高く掲げると、男は目を閉じる。瞼の裏にまで張り付いてその心を離そうとしないその呪縛を振り解くように息を深く吐く。
再びその刀身が炎を纏う。一閃……踏み出した足と共に一息に振り下ろされた灼熱の刃が核を切り裂く。音も立てずに核が崩れ去ると、辺りの霧が少しずつ晴れて行く。その隙間から差し込んでくる日差しはただ、そこに広がる現実をむしろ鮮明に照らし出すだけである。
男は剣を腰の鞘に納めると、踵を返して足早に女の座る木の根元まで戻る。
「……行こう」
「ええ……そうね」
静かに差し伸べられた男の手を取り女も重い腰を持ち上げる。その手を掴んだまま歩き出そうとする男を、女が俯いたまま引き留める。小さく震えるその手で、それでもしっかりと男の手を握っていた。
「ねぇ……」
「……またか? 良いだろ、もう。お前が辛くなるだけだ」
「……っ! でも……」
男は女のその言葉に息を吐く。女はそんな男の様子にほんの少しだけ頬を緩める。
男の手を離すとゆっくりと森の奥……先までのその戦いの地の方へと歩いて行く。男も何も言わずにその後について行くと、二人はただ黙々と地面に転がるものたちを開けた一か所に抱えて運ぶ。
女は、その場に静かに膝をつく。
「……頑張ったね。本当に、よく頑張ったね」
女は祈りの書の一ページを手にすると、目を閉じる。書に彼女の魔力が流れ込み、ひとりでに開いた一枚のページに紡がれた文字に光が宿る。同時に、目の前のそれらを暖かな明るい炎が包み込む。
それからしばらくの間、太陽の下、死んだ森の中では炎の弾ける音だけが小さく響いていた。燃えるものもなくなりその明るい光も消えた頃、女はやっと立ち上がる。その気配に、近くの木の幹に寄り掛かり目を閉じていた男も顔を上げる。
「……行こっか」
二人はその辺りを立ち去ると何も喋らずただ歩き続ける。森の中を抜けると、そこはまだ緑の残る草原である。暖かな風が微かな花の甘い香りと鳥の声を運んでいる。爽やかな晴れた日の空気が二人を包み込む。色鮮やかな花、遠くに見える小さな丘、空を舞う鳥……無情なまでに美しい世界の景色がそこには広がっている。
しばらくそんな景色の中を進むと、一つの小さな村が二人の前に姿を現す。二人が村の柵を潜って敷地の中に入ると、中はただ閑散としている。ただそこにある、いくつかの小さな木造の家。人の声はなく、辺りを吹き抜ける風の音だけが響いている。
温もりの消えた家屋、妙に広く感じる村の広場……そこに、彼らが守りたいと思ったものの気配はない。それでも、そこは静かなだけで決して地獄ではなかった。男と女は、ほっと息を吐く。
「ちゃんと、逃げられたのかしらね」
「……さぁな。きっと、逃げられたさ」
世界の各地で爆発的に穢れが広がる今、人々にとって唯一安全と言えるのは、高位の祈り人の加護により保護されている各国の一部の大都市だけである。それ以外の場所では、常に明日が閉ざされる危険に向き合いながら暮らすしかないのだ。
そこそこの大きさの穢れの核一つの被害で簡単に潰れてしまうような小さな村や町の人々は、せめてもの希望に縋り都市へ向かうことも多い。それでも、無事に辿り着くことが出来るのかはほとんど運である。
「信じなきゃ、やってらんねーよ」
その時、女は誰も居ないはずのその廃村の端の方……自分たちがいる場所から少し離れたそこで、細々と煙が上がっているのに気が付く。それは決して人の無い所に燃え盛る制御の効かない荒々しいものではなく、人の気配そのものだった。
「ねぇ……あれ」




