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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:外伝
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夢の残滓6 覆面の問い

白い翼の子を、殺すな。

去年、覆面の悪魔は理由も言わずに、それだけを言い渡した。

その子を、ベリアトは叩きのめし、並んで戦い、街道で拾ってきた。

全部話して、今度こそ理由を聞く。


ドラージョの牢から下ろした者たちを地下の空き坑道に落ち着かせるのに、七日かかった。

熱の引かない者を寝かせ、子どもに粥を回し、働ける者に仕事を割り振る。

天井の明かりが夜の色に変わってから、ベリアトは王宮の工房の扉を叩いた。


工房は、昔の設計区画より広い。

棚には紙の束と小さな器、殻のような器具の割れたかけらが並び、明かりは机の上に一つきり。

その前で、覆面の悪魔が台帳に向かっていた。

机の前まで歩いて、台帳の脇に右手をつく。

黒い左手は、むき出しのまま体の横に下げていた。

「よう。あんたが殺すなって言った、白い翼の子のことだ」

覆面の悪魔は、台帳をめくる手を止めた。

目は上げない。

かまわずに、順に話した。

ブルチャ野で叩きのめしたこと、涸れ井戸で並んで灯改めを追い返したこと、ドラージョの火の晩に、

白いノアと名乗ったあの子と印の者を逃がしたこと、フォンターレへの街道で、

殻の腕の男に叩き伏せられていたのを拾ったこと。

「翼の根をつかまれて岩に叩きつけられてたのに、手当てしてるうちに傷が塞がりかけてた。

……人の治り方じゃねえ。あの子は、何なんだ」


男は筆を取って、台帳の余白に書きつけていた。

ブルチャ野、涸れ井戸、ドラージョ、街道。

ベリアトが言葉を切るたびに筆が止まり、また走る。

地上の娘のことが、何行かの書きつけになっていく。

「……その子を、殺すな」

顔を上げないまま、落ち着いた声でそれだけを言った。


また、同じ一言だ。

九年前、設計区画で問いつめたときも、この男は台帳に書くだけで答えなかった。

腹の底が熱くなって、左手の指がぴくりと動いた。

右手で手首をつかんで止め、その手で、走りかけた筆先を押さえる。

台帳に書く前に、話を聞け。

樫の林の焚き火で、坂の娘たちに、下へ連れていかれた者を引き戻すと言った。

約束はしなかったが、口にした以上はやる。

「ああ、殺さねえよ。殺す気なら、とっくにやってる。……それより頼みがある。

グラッソがフォンターレから下へ流した連中は、規格も見ずに盛られて、誰も承知してねえ。

あいつらを戻してやりたい。あんたの名前を貸せ。俺の名前じゃ、エオラスの席で突っ返される」


覆面の悪魔は、押さえられた筆を引き抜こうとしなかった。

目を書きかけの行に落としたまま、動かない。

返事は無かった。

断りもしないが、名前を貸す気も無いのだ。



夜が更けても、ベリアトは工房を出なかった。

黙っていれば引き下がると、この男は思っているのだろう。

坂の娘には、聞きに来るなら自分の足で来いと言ってある。

理由も知らないまま、あの子をここへ来させるわけにはいかない。

机の端に腰をあずけて、覆面の目元の穴を正面からのぞきこんだ。

「なあ。あの子はデバイスの型の出所を追ってる。配り先を決めてるのが誰か、下まで聞きに来るってよ。

来たら、行き着くのはこの机だ。王宮には、あんたほど甘くねえ奴がいくらでもいる。

……殺すなってのは、守れってことか。ほかに訳があるのか。理由を言え」


覆面の悪魔は、ゆっくりと筆を台帳の溝に置き、台帳を閉じた。

それから初めて顔を上げ、目元の穴の奥からこちらを見た。

「……守れ、という話ではないよ」

そこで黙り、目を、ベリアトの肩の向こうの何も無い壁へそらす。

長い間のあとで、また口を開いた。

「あの子は、型を継ぐ者になる。……白い灯りも、翼も、傷の治りも、外から植えたものではないからね。

殺せば、その先は二度と書けない。それだけだ」

少しも急がずに、男は言い終えた。


外から植えたものじゃない。

なら、あの子の体には、根づくかどうかの賭けが要らないのか。

ハーミドのような者が石にならずに済む型の手がかりが、あの体にある。

何より欲しかった話だ。

だが、この男はあの子を、型の出所としか見ていない。

それに、植えたか生まれつきかなんて、ベリアトは一言も言っていない。

白い翼の子と聞いただけで、地上の娘の体の中身まで分かるはずがない。

この男は、あの子を知っている。

地上に出たこともないはずの男が。

問いつめても、また黙るだろう。

今夜は、ここまでだ。


机の端から腰を上げ、戸口まで歩いて足を止める。

振り返らずに言った。

「覆面。あんた、あの子を知ってるな。……答えなくていい。あの子が下まで来たら、決めるのはあの子だ。

あんたの台帳に何が書いてあってもな」

返事を待たずに、扉を押した。



坑道街の外れで、天井の灯り石が朝の順番どおりに一つずつともっていく。

ベリアトは、その下で足を止めた。


王は、型の出所を追う者を止めろと言う。

覆面の悪魔は、殺すなと言う。

止めて、殺さない。

叩きのめして帰すのなら、いつもやっていることだ。

けれど、あの子は二度叩きのめされても、また立ち上がってきた。

三度目も来る。

そのとき自分が止めなければ、王宮は別の誰かを送ってくる。

そいつは、殺さずに帰したりしない。

覆面は型が欲しくて殺すなと言い、王は止めるのが仕事だ。

どちらも、あの子が何を選ぶかは勘定に入れていない。

……自分は、どうだ。

来いと言ったのは自分だ。

来たあの子を、王の言うとおりに止めるのか、まだ決めていない。


むき出しの黒い左手を、目の高さまで上げる。

揃った指の先が、灯り石の明かりを鈍く返した。

この手で境目を越えたのは、自分で選ぶ者に味方するためだった。

腰の袋から布を半分引き出して、指先で一度握る。

巻かずに、袋へ押しこんだ。

この手を隠したまま、あの子を待つ気は無い。

左手を下ろし、上の層へ続く昇降機のほうへ歩き出した。

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