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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:外伝
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夢の残滓5 暁

崩れかけた粉挽き小屋の二階で、ベリアトは床に広げた町の絵図を見下ろしていた。

ドラージョの町外れの隠れ家には、朝から竈の煙がこもっている。


梯子を上がってくる足音がした。

黒衣の部下が一人、息を切らして顔を出す。

ブルチャ野の生まれで、首筋に花の跡がある若い男だ。

「伝承者さま。聖堂の下働きから聞きこみました。明日、聖堂が触れを出すそうです。

町じゅうの、印のある者を一人残らず改めると」

「明日、か」

「はい。広場で読み上げるそうです。印のある者は名乗り出よ、隠した者も同罪、と」


ベリアトは絵図から目を上げなかった。

聖堂の地下の牢には、もう三十人ばかりが詰めこまれている。

伝承者を慕って奇跡を受けた者も、グラッソに知らないうちに植えられた者も、

印があるというだけで同じ牢だ。

ブルチャ野で兵に差し出された開拓村の四人も、まだそこにいる。

夏から、四人を取り返す算段をつけてきた。

水路の道筋も牢番の交代も、半分は調べてある。

けれど報せが出れば、牢はさらに印の者で埋まり、狭い水路からは下ろしきれなくなる。

政府の許しを待っていれば、四人も、グラッソに騙された連中も、聖都へ送られてそれきりだ。

政府はこんなこと、気にもしない。

損得で言えば、うちのでもない者まで助けるのは割に合わない。

知るか。

どこで植えられた奇跡だろうと、あの連中の印は同じ地下から出たものだ。

ハーミドのときのように、見ているだけで終わらせてたまるか。

長の座がどうなるかは、あとで考える。

立ち上がって、部下の肩を右手で叩いた。

「よう、助かった。下見は終わりだ。日を早めて、今夜やる。

四人だけじゃねえ、牢にいる印のある奴は残らず下ろす」

部下が息を呑む。

「……政府の許しは取らねえ。俺が決めた。降りたい奴は今言え。残るなら、理由を言え」


梯子の下から、別の声がした。

「伝承者さま、俺たちも」

二人、三人と、黒衣の者が梯子の口に顔を出す。

どの首にも、どの腕にも、花の跡がある。

「牢にいるのは、俺たちと同じ印の連中です。下ろすなら、俺たちの手も使ってください」


ここにいる者は、みな自分で選んで奇跡を受け、選んだあとで印を見られて追われた。

それでも、降りると言った者は一人もいない。

「……ありがとよ。手は借りる。ただし、誰も死なせねえ。」

黙ってうなずく顔を、一つずつ見た。

これで、この連中の命も預かったことになる。


水路を見てきた部下が、言いにくそうに口を開いた。

秋の長雨で、聖堂の下の古い水路には胸の高さまで水が溜まっている。

水が引いて人を連れて通れるのは、早くて四、五日先の夜だ。

牢の格子の錠も、手持ちの道具では開かないという。

今夜は無理か。

早めたはずの日が、先へ延びた。

ベリアトは、絵図を畳んだ。



昼の東の市は、荷車と人で埋まっていた。

ベリアトは頭巾を深くかぶって、人波の中を歩いた。

干し肉の屋台の裏の細い路地に入り、三軒目の戸を二度叩いて、一度叩く。

戸が細く開いて、年老いた女の顔がのぞいた。

牢にいる若い男の母親だ。

腰を落として、声をひそめる。

「息子さんは、近いうちに下ろす。日は言えねえ。約束はしない。けど、手は回してる。誰にも言うなよ」


女は戸の隙間で何度もうなずき、閉める前にベリアトの袖をつかんだ。

指は、すぐに離れた。

約束はしないと言ったのに、頼まれてしまった。


同じことを、六軒で言って回った。

日は、どこでも言わない。

言えばどこかから漏れて、触れより先に聖堂が牢の守りを固める。


市の奥の屋台から、飴を煮つめる甘い匂いが流れてきた。

人混みの先に、淡い色の髪を青い糸で一つに結んだ娘の後ろ姿がある。

足が止まった。

まさかな。

今は、牢の連中が先だ。

目を外して、次の家へ向かった。

飴の匂いで、五年近く前のヴァレンツァを思い出す。

町を案内してくれた娘は、飴を握ったまま、一日じゅう食べずにいた。

別れ際に、嬢ちゃん、と呼んだ。

ひと月半前には、この市で、頭巾の坂の娘が焼き栗を割って差し出してきた。

城壁の上で初めて、ノア、と名で呼び、次は敵かもな、と言った。

許してないからね、と返された。

あれは、あの娘が自分で選んだ答えだった。

黒鉄の短剣は、まだ腰に下げているだろうか。

ベリアトは、頭巾の縁を引き下げた。



夕方、聖堂前の広場には冷たい風が吹きこんでいた。

ベリアトは回廊の柱の陰に立ち、聖堂の北の壁の下を見ていた。

埋められかけた古い水路の口がある。

水路は、牢の床下の排水の溝へ抜けている。

今朝、部下が胸まで水に浸かって見てきた。

溝の先に鉄格子が一枚あって、錠が下りている。

錠は古く、壊せば音が出て牢番が駆けつける。

火は使わない。

使えば、牢の中の者が真っ先に煙を吸う。

錠を、音を立てずに開ける腕が要る。

夏にブルチャ野の焚き火で、兄さんを誘った。

牢の中が分かったら、また声をかけな。

そう言われたきり、返事はまだもらっていない。

いつも人に理由を言わせてきた。

今度は、こっちが言う番だ。


広場を、頭巾を深くかぶった五人が通っていった。

先頭に獣人の男、その後ろに白い大剣を背に担いだ赤い髪。

真ん中を、コートの下に細長い荷を背負った娘が歩いている。

頭巾の縁から、淡い金の髪が一筋こぼれていた。

ベリアトは柱の陰から動かなかった。

ここで声をかければ、聖堂の連中は、伝承者と話していた娘として、あの娘の名を改めの帳に書き足す。

坂の娘が、聖堂の地下へ下りる石段の口をちらりと見た。

槍を持った兵が二人、そこを塞いでいる。

娘はすぐに目を戻して、仲間の背中について歩いていった。

あの娘も、下に誰がいるかを気にしているのか。

ブランの兄さんに声をかければ、話は坂の娘の組にも届く。

こそこそする娘じゃない。

正面から、自分の理由を言いに来るだろう。

それでいいか、聞いてやろう。


五人が広場の向こうの路地へ消えると、ベリアトは柱から背を離した。

左手の布が緩んでいた。

右手で、手首から一巻きずつ巻き直す。

水路の口から入り、水が引けば腰まで。

牢の下の古い落とし口へ上がり、足の弱い者から、縄で一人ずつ下ろす。

道筋と順を、頭の中でもう一度なぞった。

明日、報せが読み上げられる。

その帰りに、兄さんにもう一度声をかけようか。

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