夢の残滓5 暁
崩れかけた粉挽き小屋の二階で、ベリアトは床に広げた町の絵図を見下ろしていた。
ドラージョの町外れの隠れ家には、朝から竈の煙がこもっている。
梯子を上がってくる足音がした。
黒衣の部下が一人、息を切らして顔を出す。
ブルチャ野の生まれで、首筋に花の跡がある若い男だ。
「伝承者さま。聖堂の下働きから聞きこみました。明日、聖堂が触れを出すそうです。
町じゅうの、印のある者を一人残らず改めると」
「明日、か」
「はい。広場で読み上げるそうです。印のある者は名乗り出よ、隠した者も同罪、と」
ベリアトは絵図から目を上げなかった。
聖堂の地下の牢には、もう三十人ばかりが詰めこまれている。
伝承者を慕って奇跡を受けた者も、グラッソに知らないうちに植えられた者も、
印があるというだけで同じ牢だ。
ブルチャ野で兵に差し出された開拓村の四人も、まだそこにいる。
夏から、四人を取り返す算段をつけてきた。
水路の道筋も牢番の交代も、半分は調べてある。
けれど報せが出れば、牢はさらに印の者で埋まり、狭い水路からは下ろしきれなくなる。
政府の許しを待っていれば、四人も、グラッソに騙された連中も、聖都へ送られてそれきりだ。
政府はこんなこと、気にもしない。
損得で言えば、うちのでもない者まで助けるのは割に合わない。
知るか。
どこで植えられた奇跡だろうと、あの連中の印は同じ地下から出たものだ。
ハーミドのときのように、見ているだけで終わらせてたまるか。
長の座がどうなるかは、あとで考える。
立ち上がって、部下の肩を右手で叩いた。
「よう、助かった。下見は終わりだ。日を早めて、今夜やる。
四人だけじゃねえ、牢にいる印のある奴は残らず下ろす」
部下が息を呑む。
「……政府の許しは取らねえ。俺が決めた。降りたい奴は今言え。残るなら、理由を言え」
梯子の下から、別の声がした。
「伝承者さま、俺たちも」
二人、三人と、黒衣の者が梯子の口に顔を出す。
どの首にも、どの腕にも、花の跡がある。
「牢にいるのは、俺たちと同じ印の連中です。下ろすなら、俺たちの手も使ってください」
ここにいる者は、みな自分で選んで奇跡を受け、選んだあとで印を見られて追われた。
それでも、降りると言った者は一人もいない。
「……ありがとよ。手は借りる。ただし、誰も死なせねえ。」
黙ってうなずく顔を、一つずつ見た。
これで、この連中の命も預かったことになる。
水路を見てきた部下が、言いにくそうに口を開いた。
秋の長雨で、聖堂の下の古い水路には胸の高さまで水が溜まっている。
水が引いて人を連れて通れるのは、早くて四、五日先の夜だ。
牢の格子の錠も、手持ちの道具では開かないという。
今夜は無理か。
早めたはずの日が、先へ延びた。
ベリアトは、絵図を畳んだ。
昼の東の市は、荷車と人で埋まっていた。
ベリアトは頭巾を深くかぶって、人波の中を歩いた。
干し肉の屋台の裏の細い路地に入り、三軒目の戸を二度叩いて、一度叩く。
戸が細く開いて、年老いた女の顔がのぞいた。
牢にいる若い男の母親だ。
腰を落として、声をひそめる。
「息子さんは、近いうちに下ろす。日は言えねえ。約束はしない。けど、手は回してる。誰にも言うなよ」
女は戸の隙間で何度もうなずき、閉める前にベリアトの袖をつかんだ。
指は、すぐに離れた。
約束はしないと言ったのに、頼まれてしまった。
同じことを、六軒で言って回った。
日は、どこでも言わない。
言えばどこかから漏れて、触れより先に聖堂が牢の守りを固める。
市の奥の屋台から、飴を煮つめる甘い匂いが流れてきた。
人混みの先に、淡い色の髪を青い糸で一つに結んだ娘の後ろ姿がある。
足が止まった。
まさかな。
今は、牢の連中が先だ。
目を外して、次の家へ向かった。
飴の匂いで、五年近く前のヴァレンツァを思い出す。
町を案内してくれた娘は、飴を握ったまま、一日じゅう食べずにいた。
別れ際に、嬢ちゃん、と呼んだ。
ひと月半前には、この市で、頭巾の坂の娘が焼き栗を割って差し出してきた。
城壁の上で初めて、ノア、と名で呼び、次は敵かもな、と言った。
許してないからね、と返された。
あれは、あの娘が自分で選んだ答えだった。
黒鉄の短剣は、まだ腰に下げているだろうか。
ベリアトは、頭巾の縁を引き下げた。
夕方、聖堂前の広場には冷たい風が吹きこんでいた。
ベリアトは回廊の柱の陰に立ち、聖堂の北の壁の下を見ていた。
埋められかけた古い水路の口がある。
水路は、牢の床下の排水の溝へ抜けている。
今朝、部下が胸まで水に浸かって見てきた。
溝の先に鉄格子が一枚あって、錠が下りている。
錠は古く、壊せば音が出て牢番が駆けつける。
火は使わない。
使えば、牢の中の者が真っ先に煙を吸う。
錠を、音を立てずに開ける腕が要る。
夏にブルチャ野の焚き火で、兄さんを誘った。
牢の中が分かったら、また声をかけな。
そう言われたきり、返事はまだもらっていない。
いつも人に理由を言わせてきた。
今度は、こっちが言う番だ。
広場を、頭巾を深くかぶった五人が通っていった。
先頭に獣人の男、その後ろに白い大剣を背に担いだ赤い髪。
真ん中を、コートの下に細長い荷を背負った娘が歩いている。
頭巾の縁から、淡い金の髪が一筋こぼれていた。
ベリアトは柱の陰から動かなかった。
ここで声をかければ、聖堂の連中は、伝承者と話していた娘として、あの娘の名を改めの帳に書き足す。
坂の娘が、聖堂の地下へ下りる石段の口をちらりと見た。
槍を持った兵が二人、そこを塞いでいる。
娘はすぐに目を戻して、仲間の背中について歩いていった。
あの娘も、下に誰がいるかを気にしているのか。
ブランの兄さんに声をかければ、話は坂の娘の組にも届く。
こそこそする娘じゃない。
正面から、自分の理由を言いに来るだろう。
それでいいか、聞いてやろう。
五人が広場の向こうの路地へ消えると、ベリアトは柱から背を離した。
左手の布が緩んでいた。
右手で、手首から一巻きずつ巻き直す。
水路の口から入り、水が引けば腰まで。
牢の下の古い落とし口へ上がり、足の弱い者から、縄で一人ずつ下ろす。
道筋と順を、頭の中でもう一度なぞった。
明日、報せが読み上げられる。
その帰りに、兄さんにもう一度声をかけようか。




