隅の頁
受け手、ピエトロ。
坑道のワーム、済み。
その下に、一行。
手伝い一名、赤い髪、十四ほど。
ソラーナの出張所から届いた、登録地への照会だった。
封を開けて台に広げたアガタの横から、隣の帳場のベネデットがのぞきこむ。
夕方になっても、灰鷹の詰所の受付には昼の熱がこもっていた。
赤い髪、十四ほど。
ガレナだ。
来年街を出る、とあの子が言ったのは、去年の十一月だった。
ワームといえば、坑道を崩す大きな虫のことだ。
そんなものを、あの子が。
また右腕を傷めていないだろうか。
怪我のことは、どこにも書いていない。
書いていないのが、かえってこわかった。
ピエトロがまた受け手で、あの子は名前の無い一行のまま。
去年、自分が書いたのと同じ書き方だった。
アガタは「手伝い一名」の行に指先を置いたまま、しばらく動かせなかった。
それから、隣のベネデットを見た。
「あの、ええと……ベネデットさん。これ、ガレナちゃん、ですよね。
怪我のことは、どこにも書いてないです。……返事には、なんて書けばいいんでしょう」
ベネデットは照会の紙を引き寄せて、受け手の欄と手伝いの行を指でなぞった。
耳のペンを取り、台帳のいちばん後ろの頁を開いて、隅に何か書き足す。
それから紙を、アガタの前へ戻した。
「ガレナさんでしょうね。ただ、照会に書いてあるのはそこまでということで。返事は三つです。
一つ、ピエトロはこちらの登録で間違いない。二つ、等級。三つ、手伝いの者はこちらの登録には無い。
名は書きません。見ていないことですから。それでよろしいですね」
アガタは頷いた。
頷いたところで、詰所の戸が開いた。
半月、娘の名が残っていそうな所を、自分の足で見て回った。
聖堂の台帳にも、街道の口にも、坂の上の長屋にも、あの子の名は残っていた。
まだ見ていないのは、冒険者の詰所だけだった。
荒くれの集まる所へ、アルディーニの奥方が一人で顔を出せば、それだけで侮られる。
供を一人付けて屋敷を出て、その供は戸口の外に待たせた。
灰鷹の詰所の中は、墨と革の匂いがした。
冒険者たちが、話をやめてこちらを見る。
オルテンシアは誰の顔も見ずに、受付の台の前に立った。
台の向こうに、髪を布で包んだ小柄な娘と、両袖に黒い袖覆いをかぶせた猫背の男がいる。
二人とも、一枚の紙をのぞきこんでいたところだった。
娘が顔を上げて、こちらを見た。
手にしていた判が、台から床へ転がった。
娘は慌ててかがんで拾い、立ち上がるときに、台の上の紙に片手を置いた。
そのまま頭を下げる。
「あ、あの……ええと、い、いらっしゃいませ。ご、ご用件を、伺います」
判を落として、紙を手で押さえる。
何かを隠す手つきだった。
あの子は灯帳の写しを取らずに出たはずだ。
けれど、旅の先でどこかの詰所に名を書けば、照会はいずれここにも回ってくる。
この娘の手の下にあるのが、それかもしれない。
娘が頭を下げきるのを待ってから、閉じた扇の先で、その紙を指した。
それから、奥の男へ目を移す。
「アルディーニの者です。ガレナという名が、こちらの台帳のどこかにあるはずです。見せていただきます」
猫背の男が帳場から台の前へ出てきた。
台帳をいちばん後ろの頁まで繰って、隅の数行がこちらから読める向きにして置く。
指は、頁の端に添えたまま離さなかった。
「ベネデットと申します。ご用件は承りました。三つ申し上げます。
一つ、表の台帳にガレナという名の登録はございません。二つ、ただ、ここに書いたものがございます。
こちらです。三つ、この隅に書いたものは、台帳の外の、私が預かっている分ということで。
お目にかけはしますが、写しはお渡しいたしません。それでよろしいですね」
隅に、細い字で数行。
去年の六月の日付で、アルディーニの娘、来年。
九月の日付で、倉の大鼠、麦袋二つ、働いたのは赤い髪のほう。
その下に、今日の日付で、ソラーナ、坑道のワーム、手伝い。
受付の娘が、紙から手をどけた。
オルテンシアは、ソラーナからの照会の写しも、黙って最後まで読んだ。
ソラーナ。
鉱石を川へ下ろす、山のほうの町だ。
あの子は、そこまで行ったのだ。
台帳の外に、この男が自分の手で書き留めていた。
写しは渡さないと、先に言う。
筋の通った男だ。
こちらから問い合わせれば、アルディーニが娘を探していると町じゅうに知れる。
あの子の足を止めることにもなる。
届いたものを聞くだけにしておけばいい。
閉じた扇の先で、照会の写しの、ソラーナの一行を指した。
ベネデットの顔を見る。
「写しは要りません。この先も届いたら、わたくしに知らせなさい。
代わりに、当家からこちらへは何も問い合わせません」
ベネデットは指を頁の端に添えたまま、浅く頭を下げた。
夜、波止場の酒場に入った。
漁師と荷揚げの男たちで混んでいて、床が酒と油でべたつく。
戸口をくぐると、店じゅうの声が少し小さくなった。
カウンターの奥の壁の板に、客の名と、その横にツケの線が刻んである。
ピエトロの名の横には、線がずらりと並んでいた。
あの子のことで、この町で手を貸した者には、借りを残さない。
礼を言いに来たのでも、恩を着せに来たのでもない。
帳尻を合わせるだけだ。
誰の顔も見ずに、まっすぐカウンターへ歩いた。
閉じた扇の先で、ピエトロの名の横の線を、端から端までなぞって指す。
財布から、線の数に足りる銀貨を出し、数えずにカウンターの上へ置いた。
扇で、女主人のほうへ押し出す。
何も言わなかった。
肩に布巾を掛けた女主人が、銀貨を指で数えた。
線の分だけを手元に寄せて、余った数枚をこちらへ押し返す。
肩の布巾を取り、壁の板のピエトロの線を、こすって消した。
「迷子かい、奥さま。坂はあっちだよ。……ほら、多い分。あたしは貰いすぎない主義でね。
線は消したけど、あの坊やはまた来たらまたつけるさ」
貰いすぎない。
この女も、筋は通している。
また付けるなら、それで構わない。
その都度、払えばいいだけのことだ。
オルテンシアは押し返された銀貨には手を伸ばさず、閉じた扇の先で一枚ずつ、女主人のほうへ戻した。
「迷ってはおりません。アルディーニは借りを作りません。娘の連れの分も、です。
多い分は、次の線にお使いなさい」
線の消えた壁の板をちらりと見て、背を向けた。
戸口を出ると、波止場の夜風が、まとめた髪の後ろを冷やした。




