東の荷
「読み上げなさい」
オルテンシアは帳場の椅子に座り、閉じた扇を膝に置いたまま言った。
窓を開けても、風は入ってこない。
庭のレモンの実は、まだ青く固かった。
家令が、商家から届いた報せを広げた。
白髪の混じった、背の丸い男だ。
この家に、父の代から仕えている。
「東の街道の荷が、止まりましてございます。
ドラージョの聖堂が、街道を通る荷を一つ残らず開けて改めております。
去年の秋、ブルチャ野で、伝承者さまを慕う百姓どもが領主の蔵を襲いまして。
それからドラージョの聖堂は、胸に花の跡のある者を、見つけ次第、牢へ入れておるそうで」
「続けなさい」
家令は、止まる荷を一つずつ読み上げていった。
葡萄酒が二十樽。
麻の反物。
干した無花果。
それぞれの荷の後ろに、損をかぶる家の名が付いていく。
オルテンシアは口を挟まずに、最後まで聞いた。
花の跡。
伝承者の奇跡を受けた者の、しるしだ。
花の跡があるだけで牢とは、聖堂も焦っている。
荷を開けられて困るのは、中身を言えない荷を抱えた家だ。
去年の夏、名乗らない男の預かり荷を積んだのは、この家の船だった。
あの夏きりと区切ったのは、正しかった。
損は、数で量ればいい。
慌てるのは、それからでも遅くない。
家令が読み終えると、オルテンシアは扇の先で帳簿を指した。
「よろしい。うちの東回りの荷を、今日のうちに一つ残らず書き出しなさい。
中身の分からない預かり荷が混じっていないかも、帳簿で確かめること。
それから、損をかぶる家へは、まだ何も言ってはいけません」
昼すぎ、聖堂から使いが来た。
ドラージョの出張所から照会が届いたので、奥さまに見ていただきたい、という。
灯記しの部屋は、紙と墨の匂いがこもっていた。
灯記し係のクレメンテが、台帳を胸に抱えて待っていた。
腰に鍵束を下げた、猫背の男だ。
紐をほどいて結び直し、首をすくめて一礼してから、写しを一枚、机の上でこちらへ向けて差し出した。
「奥さま、ご足労いただきまして。ドラージョの出張所から、こいつが届きましてございます。
冒険者の登録に要るとかで、アルディーニのお嬢さま、ガレナさまの灯帳の写しを送ってくだせえ、と。
……お嬢さまは今、あの騒ぎの土地においでのようでございますよ」
ガレナ。
花の跡の者を牢へ入れている土地に、あの子はいる。
オルテンシアは椅子に腰を下ろして、照会の写しを手に取った。
終わりまで読む。
クレメンテが台帳を開いて、娘の灯帳の行を見せた。
朱、とだけ書いてある。
写しを取れば家に知れると、あの子も分かっていたはずだ。
それでも名を出して登録するのは、自分の足で立つと決めたということだ。
止めはしない。
朱、とだけ。
それでいい。
あの子の朱が、手のひらに灯すより体にまとう向きだということを、この男の台帳に書き足させる理由は無い。
顔に出してはいけない。
閉じた扇の先で、「朱」の一行を軽く押さえた。
「お座りなさい」
写しを、クレメンテのほうへ返す。
「写しは、この一行のとおりに出しなさい。書き足すことは何もありません。
アルディーニの名で、手数料はこちらへ回すこと」
クレメンテは台帳の紐を結び直しながら、黙って頭を下げた。
夕方、商いの用を口実に、寄合の筆頭を屋敷に招いた。
グラツィアーノは七十を過ぎた網元で、日に焼けた手を膝に置いて、広間の卓の向こうに座った。
寄合は、灯改めには関わらないと決めている。
港が静かなうちの決まりだ。
東の荷を開ける聖堂がこの港にも手を伸ばしたとき、この老人が座敷で同じことを言えるかどうか。
この家の船の荷も、娘の名も、そこにかかっていた。
こちらから頭を下げて頼むことではない。
量るだけだ。
茶を勧めて、扇を卓に置いた。
東の荷止めで、港に入る油と塩の値がどう動くかを先に話す。
それから扇を取り上げて、老人の顔を見たまま聞いた。
「東の街道が止まりました。荷を聖堂の者が開けて改めるそうです。
油も塩も、しばらくは海から入るぶんに頼ることになりましょう。
値の割り当ては、寄合でお決めになりますね。……それで、グラツィアーノ。
寄合は灯改めに口を出さない決まりでした。
聖堂がこの港の船の荷を開けたいと言ってきたときも、その決まりのままでいらっしゃいますか」
グラツィアーノは茶をひと口すすって、湯呑みを卓に置いた。
窓の外の港のほうへ目をやってから、こちらへ向き直って笑う。
「割り当ては寄合で決める。いつもの決まりで割るだけじゃ。……それよりな、奥方。
この春、南の瀬で若い衆の網に古い錆びた鉄の箱がかかってのう。開けてみたら何も入っとらんかった。
網というのは、入れてみるまで何がかかるか分からんもんじゃ。
先のことも同じでな、波が来てから網を繕えばええ」
波が来てから網を繕う。
来たら、寄合は聖堂を止めない、ということだ。
この老人は、誰にでも同じ決まりで割る。
聖堂が来れば、聖堂にも同じ顔で道を空けるだろう。
寄合の決まりでは、うちは守れない。
当てにはできない。
それなら、この家の荷は、この家で守るだけだ。
オルテンシアは黙って頷き、扇を取り上げて立った。
「網のお話、よく分かりました。油と塩の割り当ては、寄合のお決めになったとおりにいたします。
今日はお運びいただき、ありがとう存じます」
広間の戸口まで送って、頭は浅く下げるだけにした。
夜、二階の娘の部屋に上がった。
半年、誰も使っていない部屋だ。
寝台の上掛けは、娘が出ていった朝のまま、きちんと畳まれている。
窓を開けて、窓枠に片手を置いた。
北東の空に、星が少し出ている。
あの空の下に、あの子はいる。
追っ手は出さないと決めたのは、自分だ。
今さら曲げはしない。
ただ、去年の夏、中身を聞かずに荷を積んだのも自分だった。
あの荷が何だったにせよ、聖堂が荷を開けるようになれば、アルディーニも追求されるだろう。
あの子にも。
家の綻びは、自分の手で縫う。
振り返らずに、鈴を鳴らした。
入ってきた家令に、背を向けたまま言う。
「中身を問わない預かり荷は、これから先、どの家の頼みであっても当家では受けません。
名乗った家でも同じです。帳場の者にもそう伝えなさい」
家令が頭を下げる気配がした。
「……下がってよろしい。明日の朝は、供は要りません」
あの子の名が、町のどこに残っているか。
聖堂の台帳。
街道の口。
坂の上の長屋。
人をやって調べさせれば、噂になる。
自分の足で、見て回る。
オルテンシアは閉じた扇で、窓枠を一度叩いた。
窓は、閉めなかった。




