名は伺っていません
酢で荒れた指先に、墨がしみて少し痛い。
灰鷹の詰所の受付で、アガタは台の端に座り、済んだ依頼の知らせを一枚ずつ台帳に写していた。
戸口から、夕方の冷えが入りこんでくる。
溝さらい、済み。
倉の見張り、済み。
写したら判を押して、銅貨を数え、小袋に分ける。
昼は施療院でロジーナの下、夕方は帳場の手が足りないときだけここ。
それを続けて、五年目になる。
隣の帳場で、ベネデットが別の台帳をめくる手を止めた。
両袖に黒い袖覆いをかぶせ、ペンを耳に挟んでいる。
猫背が、去年よりまた少し深くなった。
ペンを耳から外して、アガタが判を押したばかりの頁の、受け手の欄を指先で示す。
「アガタさん、三つ申し上げます。一つ、台帳は依頼人と冒険者の暮らし向きを守るためのものです。
二つ、受けた者と働いた者が違えば、それは詰所の信用を損ないます。
三つ、十四にならない者に依頼を回すことは、冒険者を傷つけることと同じです。
……書くときは、この三つを頭に置いておく、ということでよろしいですね」
受け手の欄。
何か、間違えて書いたのかもしれない。
働いた人と受けた人が違う、十四にならない子。
どの依頼のことだろう。
聞きたいけれど、聞いたら自分の落ち度を言わされる気がして、こわかった。
アガタは数えかけの銅貨から手を離して、膝の上で前掛けを握った。
「あの……ええと。はい。三つとも、頭に置いておきます」
小さく頷いてから、やっと聞いた。
「……この記録、どこか違っていましたか」
ベネデットが口を開く前に、戸が開いた。
入ってきたのは、ピエトロだった。
日に焼けた骨太の体で、伸びかけの薄い髭をこすりながら、受付の台に両手をつく。
依頼書を、叩くように置いた。
波止場裏の古い舟小屋に住みついた大貂の追い出し。
受け手の欄に、ピエトロ、とある。
「よう、アガタ。波止場裏の舟小屋の大貂、片付けてきたぜ。おれ一人でな、ひと晩もかかりゃしねえよ」
それから、喉を詰めて、声を低く変えた。
耳のペンを抜く手つきまで真似て、判を指でとんとん叩く。
「承りました、ということで。……ほら、早く判押してくれよ」
ベネデットの声だった。
平らで、低くて、語尾の置き方まで同じだ。
戸は、開いたままだった。
戸口の外に、もう一人いた。
赤い髪を後ろで一つに縛った娘が、壁にもたれている。
ガレナだ。
十三で、背はもうアガタより高い。
右腕を背中に回しているけれど、引き下ろした袖の上からでも、肘の下が腫れているのが分かった。
ガレナが、大股で入ってきた。
台に寄りかかるピエトロの右の脛を、左足のつま先で思いきり蹴る。
「なにが一人でだよ、だっせえ。ふざけてねえでさっさと済ませろ」
ピエトロが、片足を抱えて跳ねた。
アガタは、判を持ち上げた。
台の上の、ピエトロの手が目に入る。
指にも手の甲にも、爪の跡ひとつ無い。
一人で、って。
嘘、ですよね。
十四にならない子に回したら、詰所の落ち度。
さっき言われたばかりだ。
判を押したら、台帳に嘘を書くことになる。
台帳の上で、手が止まった。
でも、今は、それより腕だ。
冷やさないと、もっと腫れる。
アガタは判を台帳の上に置いたまま立ち上がり、台を回ってガレナのそばへ行った。
左の肘に、そっと手を添える。
「あの……ガレナちゃん、こっちへ。座って。……ええと、腕、見せてください。冷やしますね。
痛かったら、言ってください」
詰所の奥の板の間は火の気が無く、足の裏が冷たい。
ピエトロも、脛をさすりながらついてきた。
アガタは桶に水を汲み、布を浸して絞った。
袖を少しまくって、ガレナの腫れた右腕に当てる。
施療院で、ロジーナに何度も言われたとおりに。
骨にも皮にも、打ち身の痕は無かった。
肘から手首まで、筋に沿って、まっすぐ熱を持って張っている。
ガレナは板の間にあぐらをかいて、冷やしてもらっている腕から顔をそむけていた。
口を尖らせたまま、しゃべる。
「痛くねえって。
噛まれたんじゃねえよ、貂が梁の上に逃げやがるから、腕に灯りまとわせて梁ごとぶっ叩いて落としたんだよ。
何べんも叩いたから、筋が張っただけ……あ」
言い終わってから、はっと左手で口をふさいだ。
ピエトロが板の間の縁に片膝を立てて座り、手のひらに薄い青の灯りをともした。
粘る水のように、指の間で伸ばしてみせる。
「いや、それはよ、こいつが叩き落としたのは確かだけどよ、
落ちてきた貂を下で受け止めたのはおれなんだって。ほら、おれの灯りはこうやって粘んだろがよ、
これで網みてえに張って、絡め取ってだな……まあ、ちっと逃げられかけたけど、
追い出しは追い出しじゃねえの。だから、おれらでやったってことで、な、判は同じだろ」
ガレナは聞いていなかった。
左手でアガタの前掛けの端をつかんで引き、顔を寄せてにらんでくる。
「アガタ、台帳にあたしの名前、書くなよ。絶対だぞ。家に知られたら、来年もへったくれもねえんだからな」
二年前の冬のことを、思い出していた。
施療院の寝台で、ノアの脇腹の布を朝にほどいた。
十四針縫った傷が、一晩で桃色の線一本になっていた。
ロジーナに、何か見たかと聞かれて、見ていません、と答えた。
裏の戸で、ノアに、七つのときも見てません、と言った。
七つの灯記しの日、隣に並んでいたノアの閉じた右手を、ずっと見ていた。
灯らず、と書かれた手。
その手の中に何があったのかは、知らない。
知らないまま、見ていない、と言った。
確かめるまでは、口にしない。
そう決めて、守ってきた。
あれは、分からないものだった。
これは、違う。
ガレナが十三で、腕をこんなにして、梁を叩いた。
もう、分かっている。
分かっていることを無かったことにしたら、それはただの嘘だ。
それに、台帳を書くのはベネデットで、自分はその手伝いでしかない。
自分が約束していいことではなかった。
ガレナは、怒るだろう。
こわい。
アガタは前掛けを引かれたまま、布を一度水に浸して絞り直し、ガレナの肘から手首へ当て直した。
ピエトロの手のひらの青い灯りには、目を向けなかった。
ガレナの顔を見る。
「あの……ガレナちゃん。ごめんなさい、約束、できません。
台帳を書くのはベネデットさんで、わたしは手伝いだから。
……でも、わたしが勝手に名前を書きこむことは、しません。
ベネデットさんに聞かれたら、見たとおりに言います」
受付の台に戻ると、窓の外はもう暗かった。
台帳の大貂の行は、書きかけのままになっている。
受け手の欄が、空いていた。
用で出ていたベネデットが戻ってきて、台の後ろに立った。
書きかけの行に目を落とし、それから、アガタの横顔を見る。
「アガタさん。この行に、ほかに書くことは、ございませんか」
それだけだった。
ベネデットは、もう分かっていて聞いている。
こわい。
けれど、ここで黙ったら、あの朝と同じになる。
アガタはペンを持ち直して、ベネデットの顔を一度見上げた。
「あの……ええと。あります。見たものは、書きます。確かめていないことは、確かめていないって書きます」
台帳に目を戻す。
受け手の欄に、ピエトロ、と書いた。
その下に、一行足す。
手伝い一名。
名は伺っていません。
右腕の筋を傷めた。
手当て済み。
ペンを置いて、両手を膝の上で重ねた。
「……手伝いの子の名前は、わたしは聞いていません。だから、書きません」
ベネデットは、その二行をしばらく見ていた。
燭台の火が、一度揺れた。
それから判を取って、押した。
「通します」
台帳を、いちばん後ろの頁まで繰っていく。
隅の二行が見えるように、アガタの前へ向けて置いた。
六月の日付で、アルディーニの娘、来年。
その下に、九月の日付で、倉の大鼠、麦袋二つ、働いたのは赤い髪のほう。
ベネデットの指先が、六月と九月の行を順に示した。
「……アガタさん、表に書いたものは上へ行きます。隅に書いたものは、私が預かります。
それから、次からピエトロさんには、街の内の依頼しか回しません。
来年のことは、来年に伺う、ということで」
アガタは、口を開けたまま、隅の字を見ていた。
知っていたのだ。
ベネデットは、知っていて、見逃していたのだ。
自分が書いた二行は、表に残る。
名前の無い、手伝い一名。
嘘は、一字も書いていない。
詰所の前の通りは、冷えた潮の匂いがした。
ピエトロは銅貨を受け取って、先に帰っていった。
ガレナが、濡れ布を巻いた右腕を抱えて、坂のほうへ歩きだしている。
自分が何を書いたか、ガレナには知っていてほしい。
隠したまま帰したら、それも嘘みたいなものだ。
アガタは戸口から出て、ガレナの前に回った。
「あの、ガレナちゃん、待って。……ええと、台帳のこと、言っておきます。受け手はピエトロさん。
その下に、手伝いが一人、名前は聞いていない、右腕の筋を傷めた、手当て済み、って書きました。
名前は書いていません。ベネデットさんが判を押して、通りました。
……それと、腕、今夜は使わないで、冷やしてくださいね」
隅の二行のことは、言わなかった。
あれは、ベネデットが預かると言ったものだ。
ガレナは黙って聞いていた。
聞き終えても、黙っていた。
それから、ズボンのポケットに左手を突っこんで、何かをアガタの胸元に押しつけた。
黄色いレモンだった。
目は合わせずに、そっぽを向いている。
「やる。庭の、すっぱいやつ。……あたし、来年、街を出るから」
街を出る。
来年。
ノアみたいに、遠くへ行ってしまう。
アガタはレモンを両手で受け取って、前掛けの前で包むように持った。
握っていた手の温かさが、まだ皮に残っている。
「ありがとう……ございます」
一度ガレナの顔を見上げて、口を開きかけた。
ノアちゃんに会ったら、と言いたかった。
でも、何を頼むのか。
ノアがどこにいるのかも、自分は知らないのに。
言えば、ガレナに背負わせるだけかもしれない。
「あの、ガレナちゃん。ノアちゃんに会ったら……。……ううん。腕、冷やしてね」
ガレナは鼻を鳴らして、坂を上っていった。
一度も振り返らなかった。
アガタは、手の中のレモンを鼻に寄せた。
酢の匂いのしみた指先に、すっぱい匂いが移った。




