↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:外伝
PR
92/99

フェアトレード

干した網の匂いの中を、背の高い黒髪の男が歩いていく。

朝なのに、波止場の石畳はもう温んでいた。

仕立てはよいが目立たない上着に、腰の台帳。

商人にも、役所の使いにも見える身なりだった。


桟橋の端で、男が一人、網を繕っていた。

小柄で、手のひらに黒い糸の跡がある。

黒髪の男は、その横に立った。

網を繕う男は顔を上げなかった。

昨日とは顎の形が違い、一昨日とは目の間が違う。

毎朝、顔つきを少しずつ変えている。

黒髪の男には、どの顔が本当なのか分からない。

分かる必要も無かった。

網の目のあいだから差し出された紙片の、字の運びが一字も違わない。

それで、同じ相手だと分かる。


紙片には、四行だけ書いてあった。

不漁、三月。

坂の下の網元の家、借りかさむ。

長男、二十二。

器殻、合う見込み。

「網元の家だ。不漁続きで、借りがかさんどる。若いのが一人、合いそうだ。それだけだ」

網を繕う男は、網針を動かしたまま言った。

黒髪の男は台帳を開き、四行を一字ずつ写した。

合う見込み、の「見込み」まで、そのまま写す。

合わなかったらどうなるか。

そういう行は、紙片に無い。

無い行は、写さない。

写し終えて、紙片を畳み、網の束の上へ返した。

「受け取りました。写しは済んだ。以上です」

網を繕う男は、それを口の中へ入れて噛んだ。



波止場裏の古道具屋は、昼でも奥が暗い。

店の奥の作業机で、小柄な男が殻のような器具を布で包んでいた。

白っぽい殻を、まず薄い布で一巻き。

次に藁で一巻き。

木箱の隅に藁を敷いて、殻を寝かせ、上からもう一度藁をかぶせる。

隣で、若い見習いが同じ手つきをなぞっていた。

小柄な男は口をきかない。

見習いの手が藁を詰めすぎたときだけ、指で一つまみ抜いてみせる。

蓋を打ちつけると、荷札に焼き印を押した。

錨に、鍵。

焦げた木の匂いが、店の奥に広がった。


小柄な男が顔を上げて、軽く頭を下げた。

「ああ、いらっしゃい。今ちょうど詰め終わったとこでおますわ。数、見てもらいますか」

黒髪の男は台帳を開いて、箱の数と荷札の焼き印を一つずつ突き合わせた。

一つ。

二つ。

三つ。

台帳の字と、荷札の字が、一字も違わずに並ぶ。

「三つ」

台帳の頁をめくろうとして、指が止まった。

余白に、小さな落書きがあった。

二つに結った髪の、目の大きな娘の顔。

その横に、舌を出した猫が一匹。

子どもがいたずらで描いたような線だった。

地下の家の娘が、台帳を見張ると称して、帳場でめくっていったものだろう。

数字には、触れていない。

なら、構わない。

黒髪の男は、余白を指でなぞらずに頁をめくった。

「数、荷札、焼き印、すべて台帳どおり。余白の絵は帳尻に関わらない。以上です」

猫は、次の頁の下に隠れた。



坂の上のアルディーニ家の屋敷は、門から帳場まで石畳が続いていた。

庭のレモンの木が、青い実をつけている。

黒髪の男は、商家の使いとして帳場に通された。

帳場の卓の向こうに、背の高い女が座っていた。

首が長く、暗い赤の髪を頭の後ろで固くまとめている。

深い緑の服に、金の飾りが一つ。

閉じた扇を、指のあいだに持っていた。

この家の奥方だった。

卓には、茶が出ていた。

黒髪の男は奥方の向かいに立ったまま一礼し、上着の内から契約書を出して、茶の脇に置いた。

奥方のほうへ向けて、滑らせる。

「お時間をいただき恐れ入ります。ある商家の使いで参りました。

夏の交易船に、預かり荷を幾つか積んでいただきたい。中身は問わないでいただく。

そのぶん運び賃は相場より上乗せしてあります。払う日も、遅れた場合の取り決めも、すべてこちらに。

お目通しを」

奥方は契約書に手を伸ばさなかった。

閉じた扇の先で、向かいの椅子を指した。

「お掛けなさい。立ったままの方と取り引きはいたしません」

黒髪の男は椅子に腰を下ろした。

奥方は扇で契約書の端を押さえ、目だけで条を追っていく。

待つのは苦にならない。

読まれているあいだ、契約書の字が変わることは無い。


「……それで、こちらの船が沈んだら、どうなさるの」

奥方が顔を上げた。

黒髪の男は、奥方の顔を見た。

沈んだ船。

目の前に無い船の、目の前に無い海の底。

思い描こうとしても、何も浮かばなかった。

浮かばないものについては、話せない。

黒髪の男は背を伸ばしたまま、扇で押さえられた契約書の一つの条を、指先で示した。

「失礼しました。沈んだ船のことは、私には分かりかねます。お答えできるのは契約にあることだけです。

荷の損害については、この条に。それ以上はありません」


奥方は、黒髪の男の顔をしばらく見ていた。

それから、契約書を最後の条まで読み通した。

閉じた扇の先で、荷の損害の条をもう一度軽く叩く。

扇を膝に戻し、契約書を男のほうへ向け直す。

「よろしい。お受けします。ただし、この夏の船だけ。

次からは、あなたの主人に名乗って来るようお伝えなさい」

「承りました」

奥方が署名をした。

黒髪の男は、契約書を巻いて台帳に挟んだ。

奥方は、男の名を聞かなかった。

男も名乗らなかった。

門を出るとき、庭のどこかで、木剣が空を切る音が続いていた。



預かり荷の一つは、その日の夕方、坂の下の網元の家に届いた。

戸口に置かれた木箱を、若い漁師が自分の手で開けた。

日に焼けた肩の、背の高い男だった。

網元の父親と、母親と、妹が、土間から黙って見ていた。

黒髪の男は、戸口の外に立っていた。

約束どおりに使われるのを見届けるまでが、仕事だった。


漁師は箱から殻を取り出して、首の付け根に当てた。

殻の中で何かが小さく鳴って、殻が肌の中へ沈んでいく。

歯を食いしばる音がした。

沈みきったところに、花の形の印が焼きついて残った。

赤い、小さな花だった。

母親が口を押さえた。

若い漁師は首筋を手で押さえて、それから、自分の腕を見下ろした。

拳を握って、開いた。

黒髪の男は、台帳に一行書いた。

届けた。

使われた。


翌朝、その家の網は、魚で重くなった。

浜に引き上げるのに、いつもの倍の手が要ったと、波止場で噂になった。


代価は、次の満月の日に取り立てた。

決めたとおりの日に、決めたとおりの額を。

網元の家の父親が、布の包みを差し出した。

黒髪の男は包みを開いて、中の銀貨を一枚ずつ数えた。

数は合っていた。

台帳に、済み、と書いた。

「確かに受け取りました。契約どおりです。以上です」

それから、網元の家の土間で、深く頭を下げた。


同じ日、坂の下の別の家では、払えなかった男がいた。

借りの証文を前に、男は何度も、もう少し待ってくれと言った。

もし船が戻れば。

もし網が当たれば。

黒髪の男には、その「もし」が一つも聞き取れなかった。

証文にあるのは、払う日と、払えなかったときの取り決めだけだった。

「契約にあります。体で払っていただきます」

男は、それきり口を閉じた。

払えた家も、払えなかった家も、契約を守った相手に違いはない。

黒髪の男は、その家の土間でも、網元の家と同じ深さで頭を下げた。

「契約どおりです。以上です」

善いことをしたとも、悪いことをしたとも思わなかった。

契約のとおりにした。

それだけだった。



満月の夜、波止場の路地は、潮の匂いが濃かった。

黒髪の男は、布をかけた箱を一つ抱えて歩いていた。

その後ろを、払えなかった男がついてくる。

縄はかけていない。

それでも男は、黙ってついてきた。

古道具屋の倉は、路地を抜けた先にある。


路地の口で、明かりが上がった。

ランタンだった。

夜回りの女が一人、ランタンを目の高さまで持ち上げて、こっちを見ていた。

大柄で、肩幅が広い。

肩に、先に鉄の輪のはまった黒い棒を担いでいる。

黒髪の男は足を止めた。

契約に、この女はいない。

契約に無い揉めごとは、帳尻を狂わせる。

男は抱えた箱を胸に寄せて、ランタンの光が届く前に、路地脇の倉の陰へ退いた。

後ろの男の肩を、軽く押した。

二つの影が、倉の並ぶ裏手の暗がりに消えた。



フランカは、ランタンを下ろさなかった。

路地の奥は、もう真っ暗だった。

足音も聞こえない。

背の高い黒髪の男が、布をかけた箱を一つ抱えていた。

後ろに、うつむいた男が一人。

縄は見えなかった。

逃げようともしなかった。

あれは、連れていかれている顔だ。

ニーノではない。

追うか。

この暗がりにひとりで飛びこんでも、箱の中身も分からないまま見失うだけだ。


フランカはランタンを壁の釘に掛けて、懐から自分の手帳を出した。

夜警の日誌ではない。

自分の、小さな手帳だ。

鉛を舐めて、書いた。

満月。

波止場裏の路地。

背の高い黒髪の男。

布をかけた箱、一つ。

ついていく男、一人。

縄なし。

見たものだけを書いた。

思ったことまで書けば、あとで頭が読んだとき、どこまでが見たことか分からなくなる。

名前は、知らないから書かなかった。

手帳を閉じて、懐に戻す。

ランタンを取って、路地の奥をもう一度照らした。

潮の匂いのほかには、何も無かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。