預かり荷
ちっ、三日も凪いで、魚一匹かからねえ。
帆はだらりと垂れて、帆柱の綱が軋みもしない。
甲板の板が日に焼けて、裸足の裏が熱い。
網を三度下ろして、三度とも空だった。
水夫たちは帆の影に寝転がって、腹が減ったとぼやいている。
どいつもこいつも、死んだ魚みてえな目をしてやがる。
だったら、おれの出番だろがよ。
真似るなら船長だ。
一番効くのは、一番偉いやつの声だ。
船長のイザウラは、舵の横の木箱に腰かけて、膝の上に手帳を広げていた。
背が高く、肩が広い。
日に焼けた腕に、銅の輪が三つ鳴る。
子どものころ、樽の上から干した実を投げてくれた人だ。
ピエトロは寝転がった水夫たちの真ん中に出て、舵のほうへ背を向けて立った。
腰に手を当てる。
「おまえたち、いつまで寝てるんだい! 魚が来ないなら、おまえたちが海に飛びこんで魚を呼んでおいで。
一番太った奴から晩飯にするからね!」
イザウラの、よく通る声だった。
語尾の上げ方まで、そっくり同じにした。
寝ていた水夫が二人、跳ね起きた。
起きてから、舵のほうを見る。
船長は、木箱に座ったままだ。
水夫たちが、どっと笑った。
後ろで、いちばん大きな笑い声がした。
「あっはっは!」
振り向くと、イザウラが膝を叩いていた。
笑いながら、手帳に炭の棒で何か書きつける。
「坊や、太った奴から食うなら、真っ先に鍋に入るのはあんただね! ……で、もう一回やってごらん。
今度はあたしが聞いてるのを分かったうえでね」
ピエトロは、手帳をのぞきこんだ。
一語だけだった。
声。
「なんだよ、それだけかよ」
「それだけね。あとで使うかもしれないから書いておく」
イザウラは手帳を閉じて、凪いだ海を見た。
笑った顔のまま、目だけは水面から動かなかった。
ヴァレンツァで売る魚が無いのは、ピエトロにも分かっていた。
夜の船倉は、樽と麻袋の匂いがこもっていた。
ピエトロはランタンを下げて、水樽の栓を見て回っていた。
船倉の奥に、パルサの港で積んだ預かり荷が三つ、縄で柱に括りつけてある。
ヴァレンツァの波止場裏の古道具屋へ届ける荷だ。
中身は聞くな、触るな。
積むとき、イザウラにそう言われた。
ランタンで、いちばん端の木箱を照らした。
縄の結びが、緩んでいる。
船が揺れるたびに、蓋が板一枚ぶん浮いて、また閉じた。
浮いた隙間から、中が見えた。
藁に包まれて、白っぽい殻のような器具が一つ入っている。
継ぎ目があって、片側に、指でつまんで回すところが付いていた。
知っている形だった。
三年前の夏、闇市の裏で買った魚寄せ。
網の中に沈めたら、魚が寄りすぎて、父の網が真ん中から裂けた。
次の朝、父は何も言わずに、ピエトロの櫂を浜へ放った。
あれと、そっくりだ。
……あのときは、網が古かっただけだろがよ。
凪が三日。
こいつが唸れば、魚が寄ってくる。
古道具屋の荷だろうが、一晩借りて戻しておけば、誰にも分かりはしない。
朝、甲板が魚でいっぱいなら、船長だって文句は言えないはずだ。
手のひらが、少し汗ばんでいた。
暑いからだ。
蓋をずらして、殻を取り出した。
見た目より重く、冷たい。
回すところを、指でつまんで回した。
殻の中で、何かが低く唸った。
唸りが、手のひらから肘まで伝わってくる。
三年前のより、ずっと太い唸りだった。
「道具は使ってこそだろがよ。分かんねえとこは、使いながら覚えりゃいいんだ」
小さく言って、ピエトロは殻を抱えて梯子を上がった。
甲板では、夜番の水夫が舳先で船を漕いでいた。
船べりの縄を殻の継ぎ目に括りつけて、海へ垂らす。
水に沈むと、唸りは聞こえなくなった。
縄だけが、かすかに震えている。
しばらく、何も起きなかった。
月が、凪いだ海に白い道を引いている。
ピエトロは船べりに肘をついて、その道を見ていた。
何かが、縄を強く引いた。
結び目が、ぎりっと鳴る。
月の道の下を、黒いものが横切っていった。
魚の群れではない。
一つの影だった。
この船の端から端までより、まだ長い。
影は船の下へ潜って、見えなくなった。
足の下で、板が鳴った。
船底を、何か硬いものが擦っていく。
ごりごりと、長い音がした。
船が傾いて、樽が転がり、舷側にぶつかる。
船倉のほうで、水の噴く音がした。
寝ていた水夫たちが跳ね起き、船尾の階段を、イザウラが上着を引っかけたまま駆け上がってきた。
舵に飛びつく。
船べりの縄と、その先の震える海と、ピエトロの顔を順に見た。
舵をいっぱいに切りながら、怒鳴った。
「ピエトロ! その縄、今すぐ捨てな! 切ってでも捨てるんだよ!
……あんたたちは船倉だ、穴をふさいで水をかき出しな!」
なんだ今のは。
魚じゃねえ。
船よりでかい。
まさか、こいつが呼んだのか。
違う、たまたま通っただけだ。
けれど、船倉に水が入っている。
また、網と同じだ。
ピエトロは縄を握ったまま、一瞬固まった。
それから腰の小刀で縄を切った。
縄の端が、海へ吸いこまれていく。
「捨てたぞ! 捨てたってんだろがよ!
……おれが呼んだんじゃねえ、あんなでけえのが勝手に来やがったんだ!」
叫びながら、船倉の梯子へ走った。
唸りが消えると、影はもう浮いてこなかった。
舵を切った船は、凪の海でも少しずつ船首を回して、影の通った筋から離れていった。
船倉に下りると、膝まで水が溜まっていた。
船底の板が二枚割れて、そこから水が噴いている。
水夫たちと一緒に布と板で穴をふさぎ、朝まで桶で水をかき出した。
誰も、ピエトロに声をかけなかった。
預かり荷の木箱は、蓋が開いたまま、水に浮いていた。
ヴァレンツァの港に入ったのは、翌朝だった。
船は右へ傾いたまま、のろのろと桟橋に寄った。
舫い綱を投げたのは、ピエトロだった。
いつもと同じ投げ方で、綱は杭にきれいにかかった。
荷を下ろす前に、イザウラが船室から麻袋を一つ提げて上がってきた。
ピエトロの荷袋だった。
船べりまで歩いて、桟橋の板の上へ放る。
麻袋が板に落ちて、中の椀が鳴った。
イザウラは船べりに立って、ピエトロを見下ろした。
「坊や、降りな。預かり荷に手を出す水夫は、あたしの船には要らないね」
それだけだった。
網を破ったときも、帆を裂いたときも、この人は笑って目をつぶった。
船を沈めかけた者だけは、乗せない。
また、下ろされるのか。
親父の舟と、同じだ。
……分かっている。
自分がやったのだ。
けれど、ここで頭なんか下げてたまるか。
ピエトロは船べりから桟橋へ飛び降りて、板の上の荷袋を拾い、肩にかついだ。
船べりのイザウラを見上げる。
「へっ、言われなくても降りてやらあ! こんな傾いたボロ船、こっちから願い下げだろがよ!
……覚えとけよ船長、いつかおれの船に乗せてくれって頼みに来させてやっからな!」
声は、いつもより大きく出た。
水夫たちは、誰も笑わなかった。
イザウラは返事をせずに、手帳を出して、炭の棒で何か書いた。
ピエトロは背を向けて、波止場の石畳を坂のほうへ歩き出した。
坂の下まで来て、足が止まった。
浜に、父の舟がまだ上がっていた。




