継ぎ目
半分開いた戸の隙間から、にかわの匂いが流れてくる。
波止場裏の路地は、昼でも日陰の石が湿っていて、吐く息が白い。
ミレアは戸の前で足を止め、懐の包みを上から押さえた。
布の中で、銅貨が小さく鳴った。
作業場の中では、ザッコが台に骨の折れた外装を広げていた。
小柄な体を台にかがめ、骨を一本ずつ指でつまんでは、目の高さで角度を見て、また置く。
その手つきだけは、あの大声の持ち主とは別の人のように静かだ。
指が止まるのを待ってから、ミレアは中へ入った。
包みを懐から出して、台の端の、外装に触れないところへ両手で置く。
「こんにちは、ザッコさん。お仕事中にごめんなさいね。
八年前の翼の直し賃、残りをまだお払いしていなかったでしょう。これ、受け取ってくれる?」
ザッコは包みを見もしなかった。
骨から指を離し、平手で台を叩く。
外装の骨が、かたりと跳ねた。
「しまいな、そんなもん! 何が残りだ、そりゃ無しだろうが!」
小さな体のどこから出るのか、声が作業場の壁に返ってくる。
「聞いてんだよ、坂の上の話は。左が折れた。自分が継いだ所からだ! 手順は一つも飛ばしちゃいねえ。
骨は一本ずつ確かめた。それでも折れたんだろうが!」
知っていたのだ。
港の噂は、波止場裏の奥まで届く。
この人は二月からずっと、それを抱えてここで骨をつまんでいたのかもしれない。
違うのよ、とミレアは思った。
押し入れにしまったきりの翼で、若い子の体当たりを真上から受けた。
無理をさせたのは私。
ミレアは包みを引っこめなかった。
台の端に置いたまま手を離し、ザッコの目を見る。
「八年もったのよ、ザッコさん。ずっと押し入れにしまいこんで、最後にあんな使い方をしたのは私のほう。
それでもあの晩、空で私を落とさなかったわ」
ザッコは口を開きかけて、閉じた。
指で包みを台の端からさらに押し戻し、外装から手を離して腕を組む。
下から、にらみ上げてきた。
「褒めたって何も出ねえよ! いいか、よく聞きな。
娘の背中で折れたまんまくっついてる翼は、ここの道具じゃ直せねえ。無理だ。
天の工房の道具が要るんだよ!」
天の工房。
ザッコが押し戻した包みへ、ミレアは手を伸ばしかけて、止めた。
あの子の背中のものは、上へ持っていかなければ直らない。
分かっていたことだった。
けれど、それをここで口にすれば、この人をもっと巻きこむ。
都の話はしない。
あの子は、まだ旅の途中だ。
ミレアは包みに触れないまま手を下ろし、台の上の外装と、戸口の明るさに目をやった。
「にかわの匂い、八年前と同じね」
軽く頭を下げる。
「お昼はちゃんと食べてね、ザッコさん。……また来るわ」
包みは台の端に残して、戸を出た。
路地を坂のほうへ歩きだしても、後ろから怒鳴り声は追ってこなかった。
夕方になると、ドーラの酒場は、魚を焼く煙と温めた酒の匂いで埋まる。
台の奥の洗い場で、ミレアは袖をまくって皿を洗い、布で拭いては棚へ重ねていった。
秋から、夕方だけここを手伝っている。
洗い場にいちばん近い卓に、船乗りが三人座っていた。
赤い顔の一人が椅子をずらし、こちらへ体を向ける。
「おい、見ろよ。天の子の母親が皿洗いだ。拝んどきゃ、酒が安くなるかもしれねえぞ」
店じゅうに聞こえる声だった。
連れの二人が笑う。
天の子の母親。
もう、隠すも何も無いのね。
笑われるのは平気だった。
あの子が笑われていないなら、それでいい。
ミレアは皿から目を上げなかった。
ドーラが、肩の布巾を台に置いた。
台の端を回って卓へ行き、何も言わずに、赤い顔の船乗りの襟首と腕をつかむ。
椅子から立たせ、戸口まで引いていって、外の波止場へ押し出した。
戸が閉まる。
向こうで一度だけ戸を蹴る音がして、足音が遠ざかっていった。
ドーラは台の奥へ戻り、布巾を肩に掛け直して、残った二人の杯に酒を注ぎ足した。
二人は黙って杯を口へ運ぶ。
「……世の中は変わらないよ」
誰に向けたのか分からない、しゃがれた声だった。
何も聞かずに、また黙ってかばってくれた。
こういうところは、本当に変わらない人だ。
ミレアは拭き終えた皿を棚へ重ねて、次の皿を取った。
「そうね。……でも私、その変わらないのに助けられているのよ、ドーラ」
ドーラはこちらを見なかった。
台に伏せてあった杯を一つ取って、布巾で拭く。
喉の奥で、短く笑う音がした。
「よしとくれ。あたしは店の床を汚されたくないだけさ。……ほら、皿がまだ山だよ」
ミレアは口もとを少しゆるめて、桶の湯に手を戻した。
坂の灯は、半分ほど消えていた。
石段の霜が、足の下で鳴る。
外套の背中には、何も負っていない。
上るほどに、その背が冷えていく。
昼も夕方も、ピリムは足もとの影の中にいた。
作業場の話も、酒場の声も、聞いていたはずだ。
長屋まであと少しのところで、影の中から声がした。
光らない。
声だけだった。
「直せない、ですって。報告の対象ですねえ。……欄、どこに作りましょうか」
霜の上で影が揺れて、風が一筋、外套の裾を鳴らしていった。
欄なんて、どこにも作らない。
直せないなら、直せないまま、あの子は飛ぶのよ。
坂の上で、北の空が開けた。
ミレアは足を止めて、北を見上げた。
今、あの子はどこにいるの。
目を細めると、暗がりの奥が少しずつ近づいてくる。
でも、見たら手を出したくなる。
翼の無い私が、何をしてやれるの。
ミレアはまぶたを一度閉じて、目を足もとへ戻した。
見張るのは、ピリムの昔の仕事だけで十分だ。
あの子は、帰ってくると言ったのだから。
坂を上がりきって、長屋の戸に手をかけた。
「ピリム。……欄は要らないわ。寒いから、入りましょう」
戸の取っ手は、霜で冷たかった。




