夜警の仕事
開けた戸から入る潮風が、もう冷たい。
夕方の詰め所で、頭のコスタンツァはいつもの椅子に座り、帽子を目まで下ろして足を投げ出していた。
指の真鍮の指輪が三つ、組んだ腕の上で鈍く光っている。
夜警に入って六年になる。
フランカは机に日誌を広げて、昼のうちに持ちこまれた件を書きこんでいった。
迷い子は、夕方前に母親が引き取りに来た。
波止場の端の舟小屋の網が盗まれた件は、盗った者がまだ分からない。
酒場のツケは、店主と船乗りの言い分が食い違ったまま、明日また話す。
三つ書いて、その下に今夜の見回りの順を書く。
波止場の舟小屋、裏通り、市場の隅、坂の路地。
網は舟小屋の端だから、波止場から回るのがいい。
ペンを置いて、空いた椅子を引いた。
頭と同じに足を投げ出して、腕を組み、目を閉じる。
頭みたいに座って目を閉じていれば、港の音が全部聞こえるというのだ。
樽を転がす音。
カモメ。
坂の上で、誰かが戸を閉める音。
尻が、むずむずしてきた。
じっとしていると、坂のほうばかり気になる。
フランカは立ち上がって、黒い棒を肩に担ぎ直した。
「頭、今夜は舟小屋から回るよ。……やっぱりあたしにゃ、その座り方は無理さね」
帽子の下で、頭は動かなかった。
組んだ腕の上で、指だけが真鍮の指輪を一つ回した。
「……ん。裏通りは、明かりの無え角に気ぃつけな」
寝ていたのか、起きていたのか。
六年いても、まだ分からない。
港口の岩場は、月の明かりで濡れて光っていた。
平らな岩の上に、大きなものが上がっている。
牛ほどもある体に、灰色の分厚い皮。
額から、短い角が一本突き出していた。
漁師たちが網を食い破られると言っていた、角あざらしだ。
足もとに、食い破られた網の切れ端が絡まっている。
なんだい、網の盗っ人はあんたかい。
岩は平らで、足は踏んばれる。
型どおりに打っても、あの皮には通らない。
荷を担ぎ上げるときみたいに、腰から全部ぶつけてやる。
フランカは岩の上で足を開き、黒い棒を両手で肩の後ろまで引いた。
「ほら、こっち向きな! 漁師の網の分、返してもらうよ!」
腰をひねって、体の重みを全部棒に乗せる。
額の、角の付け根をめがけて、横に振り抜いた。
鈍い音がした。
棒が跳ね返されて、腕に痺れが走る。
角あざらしは首をもたげ、低く唸って、体をこっちへ向けた。
「下がれ」
横で声がした。
いつのまにか、頭が立っていた。
帽子は目まで下ろしたままだ。
詰め所の椅子にいたはずなのに、来た足音を聞いていない。
頭は半歩前へ出て、首をもたげた獣の顎の下へ踏みこんだ。
短い剣が、抜きざまに喉から首の付け根へ横に走る。
角あざらしは重い音を立てて、岩の上に崩れた。
頭はしゃがみこんで、角の根元に刃を入れ、角を外した。
それから首の切り口から腹へ、刃を走らせる。
「……ん。角と皮は明日、ギルドの出張所に持ってく。給金の足しだ。肉は好きにしな」
恐ろしい獣でも、売れるところは売る。
頭はいつもそうだった。
跳ね返された。
自分が全部乗せてもびくともしなかった皮を、頭は一振りで、しかも喉からだ。
力じゃない。
打つ所なのだ。
悔しいけれど、見とれていた。
フランカは痺れた手を何度か握って開き、棒を岩に立てかけた。
頭の横に回って、角あざらしの前足をつかみ、体を引っくり返して押さえる。
「頭、いつ来たのさ。……あたしの棒、跳ね返されちまったよ。喉、狙うんだね。覚えとく。
肉は坂の長屋に持って帰るよ、子らが喜ぶさね」
頭は「ん」とだけ言って、皮を剥ぐ手を止めなかった。
角と皮を詰め所に置いて、坂の下の路地を回っているときだった。
路地の角から、痩せて背の高い男が出てきた。
片手を軽く上げて、二人の前に立つ。
聖都の灯改めの銀の留め具が襟もとで見えるように、わざと胸を張っていた。
夏から町に宿を取り続けている、灯改めのロドルフォだ。
片耳に、何気なく指をかけている。
「ああ、夜回りご苦労さんやなあ。聖都の灯改めのロドルフォや。ひとつ頼みがあってな。
坂の上の長屋に、近ごろ誰が出入りしとるか、詰め所の日誌から写させてもらえまっか。
手間はかけさせへん、俺が自分で写すよって」
頭は足を止めたが、帽子は上げなかった。
腰の剣にも触れない。
「寄合が決めた。灯改めには関わらねえ」
それだけだった。
「さよか、寄合の決めごとなら仕方あらへんなあ」
ロドルフォは頭に軽くうなずいて、引き下がるふりをした。
そのまま、体をこっちへ向ける。
顔を、のぞきこまれた。
「……ほな、お前さんや。坂の上の長屋の娘で、天の子の子守りをしとったそうやな」
天の子。
もう町じゅうが知っていることだ。
あの白い翼が上がった日に、守る約束はなくなった。
隠したって、しょうがない。
なのに、口が勝手に閉まった。
この男にあの子の話を一つでも渡したら、聖都まで持っていかれる気がする。
フランカは棒を肩に担いだまま、ロドルフォの顔を見下ろした。
頭の横から、一歩も前へは出なかった。
「ああ、子守りはしてたよ」
それきり、言葉が続かなかった。
隠すわけは、もう無いはずなのに。
隠す癖だけが、残っている。
フランカは自分に腹が立った。
ロドルフォは少し待っていた。
二人とも何も言わないのを見ると、懐から手帳を出して、路地の明かりにかざして何か書きつけた。
「そうか、ええこと聞いたわ。ほな、また来るよって。夜回り、気ぃつけてな」
軽く会釈して、波止場の奥の宿のほうへ歩いていく。
ええこと、だと。
子守りをしていた、の一言の、どこがいいことなのか。
フランカは棒を握る手に力を入れた。
坂の下から、倉の並ぶ波止場裏の通りへ出た。
潮の匂いが、強くなる。
倉の並びの入口で、コスタンツァは足を止めた。
子守り、認める。
あの男は、それを手帳に書いた。
フランカに言っても、今さらだ。
それより、この倉の並びは、盗んだ網の流れる先でもある。
あいつがうろついているなら、フランカの顔は見せたくない。
コスタンツァは帽子を目まで下ろしたまま、顎で詰め所のほうを指した。
「倉はあたしが見る。お前は先に詰め所へ帰って、日誌に灯改めのことを書いとけ」
フランカが行くのを待ってから、一人で暗い通りの奥へ歩き出した。
通りの先に、網元の家がある。
戸口に、小さな明かりが一つ。
倉の陰に入って、壁に背をつけた。
戸口の前に、袖を切った麻の上着の若い男が立っている。
腕を肩まで出して、左の耳に銅の輪。
ニーノだった。
ニーノは布をかけた小箱を戸口の石段に置き、細く開いた戸の隙間から差し出された紙を受け取った。
銅貨ではない。
書き付けだ。
「品は届けたぜ。代価はこいつで確かに頂いたってわけだ。……踏み倒したら、また来るからな」
そのとき、布の下で、灯りに似た鈍い光がちらりと揺れた。
灯りでもない。
ただの品でもない。
あの子は、どこの誰の使いで動いているのか。
八つで拾ったときは、盗んだ魚ひとつで震えていたくせに。
ニーノは書き付けを明かりにかざして一度目を通し、折って腰の革の鞄に入れた。
通りの左右を見てから、倉の反対側の陰へ足早に消えていく。
コスタンツァは動かなかった。
今ここで前に立てば、あいつはまた黙りこむだけだ。
帽子のつばの下から、ニーノの消えた先と、網元の家の戸口とを、代わる代わる見ていた。
腰の剣には、手をかけなかった。
夜明け前の詰め所は、灯心の火が細かった。
フランカは壁ぎわの長椅子に横になって、目を閉じていた。
日誌には、角あざらしのことと、灯改めのことを書いておいた。
子守りはしていたと答えたことも、一行だけ。
戸が、静かに開いた。
頭の足音だ。
長椅子の前で、足音が一度止まる。
見られている。
フランカは寝息を立てつづけた。
足音が机の前へ移って、紙をめくる音がした。
自分の書いた頁を、頭が読んでいる。
それから、ペンを取る音。
ペン先が紙に触れて、止まった。
長い。
異常なし、と書くにしては、間が長すぎる。
やがて頭が短く何かを書いて、ペンを置いた。
椅子の軋む音。
頭が、自分の椅子に座ったのだ。
倉で、何か見たんだね。
何を書かなかったんだい。
倉の奥といえば、ニーノの野郎がうろつく所じゃないか。
聞いたって、頭は「ん」としか言わないだろう。
フランカは薄目を開けて、机の上の日誌を見た。
灯心の細い火では、頭の書いた行までは読めない。
そのまま、壁のほうへ寝返りを打った。
明日の晩、倉は自分で回る。
目を閉じると、頭の椅子のほうから、指輪の触れ合う小さな音が一度だけした。




