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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:外伝
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灯改め

クレメンテは台帳を胸に抱えて、壁ぎわに立っていた。

紐を一度ほどいて、結び直す。

六月の聖堂の香部屋は、朝から蒸していた。

香の煙が窓から出ていかずに、天井の梁のあたりで溜まっている。


机の向こうに、アンブロージオ司祭が座っている。

その前に、旅の埃をかぶった男が通されてきた。

痩せて背が高く、鼻の下に薄い髭を整えている。

襟もとに、聖都の灯改めの銀の留め具が光っていた。

男は帽子を取って司祭に軽く頭を下げ、香の煙を手で払いながら机の前まで進んだ。

途中で一度、壁ぎわのクレメンテと、胸の台帳に目をやった。

「えらい蒸しますなあ。聖都から参りました、灯改めのロドルフォ・セラフィコいいます。

港の件でな、寄せてもらいました」

それから、司祭の顔に目を戻した。

「それで司祭さん、ひとつ教えてもらえまっか。天使さんの裁きの報せは聖都にちゃんと降りとるのに、

逃がした母親の名を載せた手配書が、まだどこにも来てへんのですわ。こっちには何ぞ届いとりまへんか」


司祭は立ち上がって、向かいの椅子を手で示した。

男が腰を下ろすのを待ってから、自分も座る。

「遠いところを、ご苦労さまでした。……あの夜のことは、手紙に書いて聖都へお送りしました。

私から申し上げられることは、そこに全部書いてあります」

司祭はそれだけ言って、クレメンテのほうへ顔を向けた。

「クレメンテ、灯帳の写しをお見せしなさい」


逃がした母親の名、ねえ。

司祭さまは、手紙に全部書いたと言いなすった。

なら、こっちが余計な口をきくことはない。

クレメンテは台帳の紐をほどいて、結び直した。

台帳の間から、灯帳の写しの束を抜き出す。

坂の上の長屋の、ミレアとノアの母娘の一枚は、もう束の真ん中に入れてあった。

端より真ん中のほうが、目が滑る。

滑るはずだ。

束の角を揃えて、机越しに両手で差し出した。

「灯帳の写しでございますよ。港の分、この冬までのを綴じてございます。どうぞ、お改めくだせえ」

渡すとすぐ、台帳を胸に抱え直して、壁ぎわへ一歩下がった。


この男、片耳ばかり気にしていなさる。

ロドルフォは束を受け取って、ゆっくりめくっていった。

指を止めないでくだせえよ、とクレメンテは腹の中で頼んだ。

真ん中で、指が止まった。

男はその一枚を束から少し引き出し、「灯らず」の字に指を置いた。

字の太さと墨の色を、目を近づけて見比べている。

それから顔を上げずに、目だけをこっちへ向けた。

「へえ、坂の上の長屋のミレア・ベルナと、娘のノア。この子、灯らずやて。……なあ、係の人。

この灯らずの字、書いたんはお前さんでっか。その朝のこと、ちょっと聞かせてもらえまっか」

字の太さまで見るとは、目ざとい男だ。

書いたのは自分だ。

それは曲げられない。

けれど、口を開けば開くほど、余計なものがこぼれる。

クレメンテは台帳の紐を一度ほどいて、結び直した。

胸に強く抱えたまま、男の手もとの一枚に目を落とす。

「へえ、その字はあたしが書いたもんでございますよ。十年前の朝で。

司祭さまのお言いつけどおり、灯らずと記しました。

……あたしは帳に書くのが役目でして、手のひらを覗きこむ役じゃございません」

男は、ふうん、と鼻を鳴らした。

写しの束を揃え直す指が、さっきよりゆっくりだった。



港に灯改めが着いた、という話は、朝のうちに坂の上まで伝わっていた。

ピリムが港の口まで見にいって、来たのは一人だと知らせてくれた。

来たのね、とミレアは思った。

三か月。

思っていたより、遅かったくらいだ。

引き受けると言ったのは、自分だった。


昼すぎ、階段を上がってくる足音が二つした。

戸口に、テレーザが立った。

その半歩後ろに、痩せて背の高い男がいる。

「ミレア、お客だよ。聖都の灯改めさんだってさ。会うかい?

嫌なら嫌でいいんだよ、あたしが帰ってもらうから」

テレーザは、いつもそうだ。

何も聞かずに、前に立ってくれる。

けれど、ここで帰してもらえば、あの人は次に坂の下の誰かに聞いて回る。

それなら、ここで会うほうがいい。

ミレアは針を布に刺して、繕い物を膝から卓へ移した。

立ち上がって戸口へ行き、テレーザの腕に軽く手を置く。

「ありがとう、テレーザ。会うわ。……どうぞ、お入りください。狭いところですけれど」


男は帽子を取って頭を下げ、示された椅子に腰を下ろした。

テレーザは戸口に立ったまま、動かなかった。

「狭いことおまへん、おおきに。聖都の灯改めで、ロドルフォいいます」

男は膝の上で指を組んだ。

目が、ミレアの顔から、卓の上の繕い物へ移って、また戻ってくる。

「……この春、坂の上で白い翼が上がりましたやろ。坂じゅうの者が見とります。

で、その娘さん、今どこにおるんか、教えてもらえまっか」

まっすぐ聞く人だ。

回りくどくされるより、ずっといい。

ミレアは向かいの寝台の端に腰を下ろして、膝の上で手を重ねた。

「娘は出ていきました。三か月前に。行き先は聞いていません。聞かなかったんです。

……ですから、私に聞いても、何も出てきませんよ」

知らないのは本当だった。

あの朝、聞かなかったのは、このためだった。


「そうでっか、聞かなんだ」

男は組んでいた指をほどいて、髪を撫でつけるように、片手を耳もとへやった。

その手のまま、目が部屋の隅の棚と、奥の戸へ流れる。

それから、少し身を乗り出した。

「……ほな、こっちを聞きまひょ。

あの白い翼な、地上の外装屋に打てるもんやない、ありゃ天の翼やった、て見た者はみな言うとります。

お前さんとこ、天の都と何ぞ縁がおますのか」

棚と、奥の戸を見た。

耳に手をやったのも、ただの癖ではない。

この人は、聞くより先に見ている。

縁があるかと聞かれれば、あるとしか言えない。

言えば、次は誰の、どこの、と続く。

嘘はつかない。

答えないだけだ。

ミレアは重ねた手を動かさずに、男を見返した。

「その話は、いたしません」

声が短く硬くなったのが、自分でも分かった。

都の言い方だった。

卓の上の、娘の灯記しの写しを、指先で男のほうへ押し出す。

「……娘の灯記しの写しなら、ここにあります。「灯らず」と書いてあります」


男は写しに目を落とさず、指先で脇へよけた。

「写しはもう、聖堂で見せてもらいましたわ。……ちょっと静かにしとってもらえまっか」

片手を耳に当てたまま、首をわずかに傾ける。

目が、卓の脚の陰から、板戸を閉めた窓の下の暗がりへ、ゆっくり移っていった。

窓の下で、止まった。

そこに、ピリムがいる。

光っていない。

ミレアは膝の上の手を動かさなかった。

男は、長いこと、その暗がりを見ていた。

板戸が、隙間から入った風で、一度かたりと鳴った。


「ふうん」

男は耳から手を下ろして、首をひねった。

帽子を取って、立ち上がる。

「……噂の残り香、いうやつですなあ。邪魔しました。ほな、また」

軽く頭を下げて、戸口のテレーザの脇を抜けていく。

階段を下りる足音が、中庭のほうへ遠ざかった。


足音が聞こえなくなってから、卓の脚の陰で、ほんの小さく光が揺れた。

ピリムが、ミレアの足もとまで寄ってくる。

戸口のテレーザには届かない、小さな声だった。

「また来るそうですよ、あの耳のいいお客さん。……ねえミレア、僕、聞こえてたと思います?

報告の対象ですねえ、これは」

ミレアは答えずに、針を取り上げた。

布に刺し直す。

なかなか糸を引けなかった。



夕方の波止場は、荷揚げの最後の声で騒がしかった。

セラフィナは杭の脇に立って、降ろされる樽を一つずつ数えては台帳につけていた。

十一。

十二。

数は合っている。

「えらい精が出ますなあ」

後ろから、のんびりした声がした。

痩せた男が、荷揚げの人足をよけながら杭の脇まで来ていた。

襟もとの銀の留め具が、ちょうど見える位置に立っている。

「聖都の灯改めの、ロドルフォいいます。

聖堂で聞いてきたんやが、港口の白いのの聞き取り、お前さんがしはったんやて。

それ、ちょっと見せてもらえまっか」


聖都の灯改め。

銀の留め具を先に見せてくる男だ。

断る筋は無い。

十七件は表の頁にある。

裏の頁は、見せない。

樽はあと九つ。

セラフィナは樽を一つ数えて台帳に線を入れ、革の帯をほどいた。

聞き取りの頁を開いて、裏の頁を指で押さえたまま、台帳を男のほうへ傾ける。

「十七件だ。写すなら、そこで。台帳は手から離さない」

目は、次の樽に戻した。


男は台帳の前に立ったまま、懐から手帳と炭筆を出した。

十七件の要点だけを、手早く書き写していく。

「十七人、みな言うことがちょっとずつ違いますなあ。……ほな、ここで写させてもらいます」

十三。

樽が降りる。

写し終えると、男は人相書きの紙を一枚出した。

まだ顔の無い紙だった。

余白に、顎の線を引く。

目の位置を置いて、引き直す。

線が重なって黒くなった所の横に、また新しく描きはじめる。

白い髪の娘の顔を、十七件から一つ組み立てる気らしい。

無理だ。

見た者ごとに違う。

ときどき、男がこっちの指の押さえた裏の頁の端へ目をやる。

気づいている。

指は動かさない。

十四。

十五。

セラフィナは樽を二つ数えて線を入れてから、男の紙の、黒く重なった線に一度だけ目をやった。

「顔は合わない。十七人、見た時刻が違う」

男は炭筆を止めずに、五本目の顎の線を引いていた。

この男、しばらくいる。

セラフィナは台帳の隅に、一行だけ書き足した。



夜になると、長屋の中庭に涼しい風が下りてきた。

ミレアは窓の板戸を開けたまま、卓の上を片づけていた。

階段を上がってくる、重い足音がした。

テレーザが、湯気の立つ鍋を提げて戸口に立った。

鍋を卓に置いて蓋を取り、棚から椀を二つ出して並べる。

それから椅子に腰を下ろして、ミレアの顔を見た。

「ほら、豆だよ、冷めないうちに食べときな。……それとね、夕方の寄合で決まったよ。

灯改めには関わらない、聞かれても誰も答えないってさ。

網元のじいさんが言い出したんだから、大したもんじゃないかい。

ただ、あの人、波止場の奥の宿に三か月ぶん先払いしたって。女将が言ってたよ」


網元のおじいさんが。

二年前には、網の仕事を打ち切られたのに。

坂の人たちが、黙ってくれると決めたのだ。

ミレアは椀を取って、豆をひと口食べた。

熱くて、塩が少しきつい。

「おいしい。……ありがとう、テレーザ。網元さんにも、よろしく伝えてくれる? 三か月ぶん、ね。

気の長い人だこと」

テレーザは鼻を鳴らして立ち上がり、鍋を置いたまま戸口へ向かった。

ミレアは戸口まで見送った。


三か月ぶん。

急がない人だ。

待てる人。

耳のいい人。

答えずに済ませる以外の手は、もう無い。

翼があれば、と思うのは、もうやめたはずだった。


ミレアは窓ぎわに立った。

板戸は閉めなかった。

坂の灯が、下へ点々と続いている。

その上の空は、北のほうが暗い。

聞かなかったのに、目がそっちを向く。

ミレアは窓枠に手を置いて、北の空を見上げていた。


卓の上で、豆の湯気がくるりと小さく巻いた。

弱い光が、影から出てきて、窓ぎわのミレアの肩のあたりまで揺れながら寄ってくる。

「ご飯、冷めますよ。……北の空、今夜は何か見えます? 僕のぶんの欄は空いてますかねぇ」

ミレアは空を見たまま、少しだけ笑った。

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