三年
叫びすぎた喉がひりついて、唾を飲むと痛い。
ノアたちの消えた丘のほうを見たまま、ガレナは日が傾くまで、防波堤の根もとを動かなかった。
荷揚げの声は、昼すぎにはもう止んでいた。
網を担いだ男たちも、とっくに帰っている。
杭の足もとに、朝に叩きつけた包みが転がったままだった。
パンと、木剣の替え。
坂の上のほうで、夕方の鐘が鳴った。
波止場の端で、道が二つに分かれている。
下りていけば、屋敷。
上がっていけば、坂の上の長屋。
屋敷に帰ったら、母さまに顔を見られる。
泣いてはいない。
泣いてはいないけど、何か言われるのはやだ。
ガレナは包みを拾って、肩にかついだ。
屋敷へ下りる道には、目を向けなかった。
坂を蹴る。
石段を二つとばしで上がると、喉の奥が鉄の味になった。
三年なんか待ってられっか。
あたしは強くなるんだよ。
今日から。
長屋の戸口に駆けこむと、中庭の樫の下で、テレーザが洗い物の桶を片づけていた。
太い腰を伸ばして、こっちを振り向く。
上の階の角の部屋は、窓の板戸が閉まっていた。
ゆうべまで、あそこの窓に明かりがついていた。
テレーザは濡れた手を前掛けで拭きながら、戸口まで出てきた。
ガレナの前に立ちふさがり、包みごと肩を押さえる。
「はいはい、そこまで。ミレアはね、今日は誰にも会わないよ。あんたでもだ。
包みは預かっとくから、ほら、声はちっちゃくしときな」
いつもより、声がずっと小さい。
ガレナはテレーザの手から包みを引き戻して、胸に抱えた。
「やだ。ノアに三年って言われたんだよ。三年で何すりゃいいのか、おばさんに聞きに来たんだ。
聞くまで帰んねえからな」
戸口の前の石段に、どかっと座る。
石が、尻に冷たかった。
テレーザは何か言いかけて、口を閉じた。
追い払いもしなかった。
桶を戸口の脇に伏せて、その上に腰を下ろした。
日が坂の向こうへ落ちて、中庭が暗くなった。
風が吹いて、樫の葉が鳴る。
ガレナは膝を抱えて、包みに顎を載せていた。
上の階で、戸の開く音がした。
見上げると、角の部屋の戸口に、ノアの母が立っていた。
灰色の襟の詰まった服に、低くまとめた髪。
階段の上からガレナを見下ろして、それからテレーザに小さくうなずいた。
「ガレナ、上がっていらっしゃい。テレーザ、ありがとう。いいのよ」
角の部屋は、板戸を閉めたままで薄暗かった。
卓の上に油皿が一つ。
寝台が二つあって、窓ぎわの一つは、布団が畳まれたまま空いている。
ノアの寝台だった。
ノアの母は、その空いた寝台の横に腰を下ろした。
膝の上に糸巻きを載せて、青い糸の残りを巻きはじめる。
ノアの髪を結んでいた、あの青だ。
「……そこ、座ってくれる?」
ガレナは包みを足もとに置いて、空いた寝台の端にどかっと腰かけた。
糸を巻く手を、じっと見る。
細い指で、少しも急がずに巻いていく。
「なあ、おばさん。ノアってさ、どうやってあんなに強くなったんだよ。なんか毎日やってたんだろ。
あたしもそれやる」
糸を巻く手が止まった。
ノアの母は、ガレナの顔を見た。
それから、また巻きはじめた。
「ガレナ。あなたは、ノアの真似をしなくていいのよ」
ガレナは、口を開けたまま止まった。
答えになってねえ。
何をすればいいか聞いたのに、何をしなくていいかが返ってきた。
言い返そうとして、息を吸ったとき。
ノアの母の足もとの影の中で、何かがちらちらと光った。
手のひらほどの、小さな光だった。
「三年はですねえ、千と九十五日ですよ。閏の年を入れれば一日増えます。
毎日ひとつずつ欄を埋めていけば、ちょうど埋まる数ですねえ」
軽い声だった。
人の姿は、どこにも無い。
ガレナは寝台から跳び上がった。
木剣の柄に、手がかかる。
光は、影の上で揺れているだけだ。
抜くのはやめて、腰を落とし、影の前にしゃがみこんだ。
光に顔を近づける。
「うわっ、なんだこれ! 光がしゃべった! おい、お前なんだよ。虫か? どっから声出してんだ!」
光が、鼻先までふわりと浮き上がってきた。
くるくると、速く揺れる。
「虫とは失礼ですねえ。どこから声が出てるか、きみはどこだと思います?」
笑っている。
光が笑っている、と分かるのが、気持ち悪いくらいおかしかった。
ノアの母が、糸巻きを膝に置いた。
光と、しゃがんだガレナとを見て、口もとをゆるめる。
今日、この人が笑ったのを見るのは、初めてだった。
「ピリムよ。私の古い友だち。虫じゃないけれど、噛みもしないわ。外では内緒にしてくれる?」
ガレナは光から目を離さずに、大きくうなずいた。
ノアのやつ、こんなの家で飼ってやがったのか。
一回も言わなかった。
それからしばらく、ガレナは部屋にいた。
ノアの母は糸を巻き終えて、卓に黒パンと豆の椀を出してくれた。
何も聞かなかった。
ガレナも、それ以上は聞かなかった。
ピリムは影に戻って、ときどき思い出したように光った。
夜の鐘が鳴ったころ、階段を上がってくる足音がした。
テレーザが戸口から顔を出す。
「アルディーニの屋敷の人がね、娘が戻らないって、坂の下を聞いて回ってるよ。ほら、帰りな」
ガレナは舌打ちして、包みを抱えた。
長屋の戸口まで下りると、外はもう暗かった。
坂の灯が、下へ点々と続いている。
テレーザと、ノアの母も、戸口まで出てきた。
ノアの母が、ガレナの肩に手を置いた。
もう片方の手で、暗い坂の灯の並びを指でたどってみせる。
いちばん下から、いちばん上まで。
「ガレナ。毎朝、この坂を下から上まで駆けてくれる? 窓から見えるのよ。ちゃんと見ているから」
坂を駆けるだけ?
そんなんで強くなんのかよ。
分からない。
けど、この人は、見てるって言った。
ノアだって、この坂を毎日笑って上り下りしていた。
ガレナは肩に手を置かれたまま、大きくうなずいた。
「わかった。毎朝な」
包みをかつぎ直して、テレーザの横をすり抜ける。
坂の灯をたどって、駆け下りた。
三つ目の灯のところで、一度だけ振り返る。
戸口に、二人の影がまだ立っていた。
「……見てろよ、おばさん!」
喉が痛くて、声が裏返った。
翌朝は、日の出の前に屋敷を抜けた。
坂の石畳が、夜露で濡れている。
坂の下の網干し場のあたりに、荷を運ぶ人がちらほら出はじめていた。
ガレナは網干し場の横に立って、坂を見上げた。
てっぺんの長屋が、薄暗い空に黒く見える。
上の階の角の窓の板戸が、半分だけ開いていた。
濡れた石を蹴った。
最初の二十段は、軽かった。
四十段で、息が上がった。
腿が硬くなって、膝が上がらない。
なんだよこの坂、こんなに長かったか。
ノアは、ここを笑って駆け上がっていた。
跳ぶみたいに、三段とばしで。
あたしだって。
止まらない。
脛が重くて持ち上がらなくても、止まらない。
長屋の前で、膝に手をついた。
肩で息をするたびに、喉がひゅうひゅう鳴る。
顔を上げた。
半分開いた角の窓の板戸が、朝の光をうっすらと受けている。
そこに誰がいるのかは、下からは見えなかった。
「っ……上った、ぞ……!」
返事は無かった。
けれど、半分開いた板戸の隙間で、白い手が一度だけ、小さく振れた。
見てる。
おばさん、ほんとに見てる。
喉はひりひりするのに、口の端が勝手に上がった。
「……明日も、上るからな!」




