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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:外伝
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夢の残滓4 最初の奇跡

空が二つあるみてえだ。

丘の道を下りきると、ヴァレンツァの坂が海へ向かってのびていた。

坂の途中のアーモンドは花を落としきって、石畳の目に白い花びらが溜まっている。

ベリアトは坂の上で足を止めて、海を見下ろした。

朝の光が、空からも、海の照り返しからも差してくる。

坑道の明かりが消えたら夜、という街で育つと、何度見ても慣れない。


伝承者の長になって、二年になる。

そのあいだ、部下を地上へ送り出すばかりだった。

戻った部下から、誰に植えたか、どこに印が出たかを聞いて書きとめ、政府へ上げる。

自分の手で地上の誰かに奇跡を渡したことは、まだ無い。

今日、初めて自分で渡す。


左手は手袋の上から、手首の先まで布を巻いてきた。

名前を聞かれても、伝承者とだけ答えると決めてある。

外套の下では、畳んだ翼が背に沿っている。

海風が坂を上がってきても、黒い裾は動かない。

ベリアトは腰の袋の上から、右手で奇跡の粒を数えた。

三つ。

渡すのは、器殻の合う者にだけだ。

ハーミド、あんたのときみたいなことは、もうしない。

まず名前を聞いて、何がしたいかを本人に言わせる。

こっちが決めて渡したら、それは押しつけだ。

布を巻いた左手を外套の内へ寄せて、花びらを踏んで坂を下りた。



坂の下で、人が輪になっていた。

洗い桶を抱えた女、魚の籠を下ろした男、裸足の子どもたち。

輪の真ん中から、乾いた細い咳が聞こえる。

一つ終わると、ひゅう、と笛のような音がして、また咳きこむ。

戸口の段に女が座りこみ、膝の上に六つほどの女の子を抱えていた。

女の子の唇が青い。


「施療院は、先に払えって。灯帳の写しも持ってこいって。そんなの、うちにあるわけないじゃない」

母親は誰に言うでもなく、娘の背中をさすっている。


「聖堂でお祈りしてもらいな」


「祈ってもらったよ! 三回!」

誰も、それ以上は言わない。


先に払え、写しを持ってこい、か。

息のできない子を前にして、金と紙の話だ。

地上も、パンデムと変わらない。

急いだほうがいい。

それでも、本人の口から聞くのが先だ。


ベリアトは人垣の肩を、右手で軽く叩いた。

「悪い、ちょっと通してくれ。な」

人垣が割れた。

戸口の前でしゃがみ、女の子と目の高さを合わせる。

左手は外套の内に入れたまま、右手を小さな背中に当てた。

近くで見ると、咳のたびに喉の下が深くへこむ。

「苦しいな。名前、言えるか?」

子どもの前では、声が自然に低く、ゆっくりになる。


女の子は咳の合間に息を止めて、ベリアトの目を見上げた。

「……ティナ」


目をそらさずに、自分で名乗った。

強い子だ。


咳に合わせて、背中をゆっくりさする。

「ティナ。息、したいか?」


ティナはうなずき、また咳きこんだ。

小さな背中が跳ねる。


「息ができたら、何する?」


ティナは坂の上を駆けていく子どもたちに目をやってから、ベリアトを見た。

「……はしる」


走りたい、か。

欲しいものを、この子は自分で言った。

これで渡せる。

「いいな。走ろう」

ベリアトは笑った。

右手の指先で、ティナの首の後ろと鎖骨の下を順に押して、器殻を確かめる。

首の後ろは薄い。

鎖骨の下は張っていて、指の腹を押し返してくる。

ここなら合う。

それでも、合わなかった者の腕が灰色に固まっていくのを、自分は何度も見てきた。

だから、母親にも聞く。


顔を上げて、母親の目を見た。

「母さん。この子、治せるかもしれねえ。この子の体に合えばだけどな。いいか?」


「治せるって……あんた、医者?」


説明している暇は無い。

「医者じゃねえ。いいか、だめか、そこだけ聞かせてくれ」


母親は娘の顔を見て、何度もうなずいた。


これで、二人とも自分で決めた。

あとは、こっちの仕事だ。


右手で腰の袋の口を開けて、粒を一つつまみ出す。

爪ほどの大きさの、灰色の粒。

ティナの襟元を少しずらして、さっき押した鎖骨の下に当てると、粒は音もなく肌の中へ沈んだ。


「……あつい」

ティナが肩をすくめて、母親の服をぎゅっとつかんだ。


「うん。すぐ終わる。えらいな」

ベリアトは右手で、ティナの背中を大きくさすった。

根づいてくれ。

頼む。


咳が止まった。

ティナが、息を吸う。

笛の音は、もう鳴らない。

深く吸って、吐いて、もう一度吸う。

青かった唇に、色が戻ってくる。

粒の沈んだ所に、灼けた鉄を押しつけたような、小さな花の形の赤い跡が浮いた。

赤いまま、灰色には広がらない。


根づいた。

自分の手で人に渡した奇跡が、初めて根づいた。

ハーミド、見てるか。

今度は、助けられる。


「ティナ……? ティナ、苦しくない?」


ティナは自分の胸に両手を当てて、もう一度大きく息を吸って吐き、母親を見上げてにこっと笑った。

「……くるしくない」


輪のあちこちで、息をのむ音がした。

誰かが「施しだ」と言い、誰かが胸の前で指を組んだ。


「あんた、いくら……いくら払えば」

母親が娘を抱いたまま、外套の裾をつかんだ。


代価なんか、取れるものか。

先に払えと言われて、ここに座りこんでいた人から。

払うものなら、左手でとっくに払ってある。


ベリアトは裾をつかむ母親の手に、右手を重ねて離させた。

「いらねえよ。代価は取らねえことにしてる」


「でも、本当に治ったの? 明日になったら、また……」


「奇跡があるかどうかは、あんたが決めろ」

ベリアトは立ち上がって、母親の肩を右手で軽く叩いた。


「あんた、何者だい」

魚売りの男が、籠の縁をつかんだまま聞いた。


どこから来たかは言えない。

嘘もつかない。

言えることだけを言う。

ベリアトは肩をすくめて笑った。

「伝承者。古い話を継いで、あちこち歩いてる。それだけさ」



輪がほどけはじめたとき、人垣のいちばん外にいた娘に目が留まった。

空の背負子を足もとに下ろし、白に近い淡い金の髪を後ろで結っている。

背は大人と変わらないのに、顔はまだ子どもだ。

右手を握って、背中に回している。

その目は、ティナの胸の赤い跡を見ていた。

隣で木剣を握った少年が、娘の腕を揺すった。

「すげえ……なあノア、見たか? 今の、何だ? 灯り、出してなかったよな?」


「出してなかった」

娘は跡から目を離さずに答えた。


さっきから、跡ばかり見ている。

怖がっている目ではない。

何かを確かめるような目だ。

背中に隠した右手も気になる。

けど、それより腹が減った。

朝から歩きどおしだ。

店を聞くなら、土地の者がいい。


ベリアトはほどけていく輪を抜けて娘の前まで行き、右手を軽く上げた。

「よう。その背負子、仕事帰りか。この辺で、飯が食えて酒が飲める店、知らねえか?

着いたばっかりで、腹が減っててさ」


「知ってる。うるさいけど」


「うるさいのは好きだ」


「おれ、店の手伝い戻んなきゃ。母ちゃんに怒られる」

木剣の少年が坂の上を見て、顔をしかめた。

「ノア、あとで何話したか教えろよ! 絶対だぞ!」

少年は走っていき、途中で振り返って手を振った。


ベリアトも、右手を振り返した。



灰鷹の詰所の裏に、昼から開いている酒場があった。

床が酒と油でべたつく。

窓際の卓に、無精ひげの獣人の男と、小さな娘が座っていた。

中背で、酒のぶんだけ腹の弛んだ男が杯を抱え、その横で娘は豆の皿に頬杖をついて目を閉じている。

戸口に立ったベリアトを見て、獣人の耳がぴくりと立ち、鼻が小さく鳴った。


「なんだ、ノア。拾いもんか? ずいぶんでけえのを拾ってきたじゃねえか」


「伝承者って。坂の下で、子ども治した。咳の子」


「治した?」


「治した。」


拾いもの、か。

悪くない。

獣人が耳を立てたのは、こっちを疑っているからだ。

それでいい。


「伝承者だ。よろしくな」

ベリアトは獣人の向かいの椅子を引いて、腰を下ろした。

椅子が大きく軋む。

布を巻いた左手は、膝の上に置いた。

「案内の礼に、ここは俺が持つ。親父さん、この卓に一杯ずつ。それと、この子に何か腹にたまるやつ」


「俺は親父さんじゃねえってんだ。……ブランだ。銅の二」


「ブランさんか。銅の二ってのは、どのくらいなんだ? ここの決まりは、まだよく知らなくてさ」


「下から数えたほうが早え。そこのノアが鉄の一で、一番下だ。俺はその三つ上で、十六年目ってんだ」


十六年で、下から四つ目。

ブランの肘から先には、古い傷が何本も走っている。

刃を受けて、受け流して、それでも生き残ってきた腕だ。

「十六年? ……その腕でか」


「腕じゃねえ。色だよ」

ブランは手のひらを上に向けて、卓の上で握って開いた。

黒に近い灰色の灯りが豆粒ほど浮いて、すぐ消えた。

「この色じゃあ、何年やっても据え置きさ。俺だけじゃねえ。そういうもんだ」


色、か。

地上は血筋と色、天界は規格、パンデムは政府の損得。

どこへ行っても同じだ。

自分には、その灯りすら無い。

この男の十六年は、手のひらの色ひとつで止められてきたのだ。

「くだらねえな」


ブランは杯をひと口あおって、ベリアトの顔を見ずに言った。

「くだらなくても、そういうもんなんだよ。兄ちゃん、あんたもあちこち歩いてんなら知ってんだろ。

世の中は変わらねえよ」


変わらない、か。

坑道で鍋の底しか回ってこなかった頃、兄貴も同じ顔で同じことを言った。


ベリアトは、声を上げて笑った。

「変えられるさ」

卓越しに、ブランの肩を右手でばんと叩く。

笑いながら、ハーミドの顔を思い出していた。

付き合ってやると言ってついてきて、合わずに体が固まって死んだ男だ。

あいつを失っても、変わるほうに賭けるのはやめなかった。

左手まで賭けた。

今さら、変わらないなんて言えるか。


ブランは叩かれた肩を見て、ベリアトの顔を見た。

口を開きかけて閉じ、運ばれてきた杯を一息にあおる。

「……酔っ払いの言うこった」


言い返せないから、酔っ払いのせいにしたのだ。

ベリアトは自分の杯を持ち上げて、ブランの杯に当てた。

「俺はまだ一口も飲んでねえよ」


「……あなた」

寝ていると思っていた小さな娘が、目を閉じたまま言った。

背丈は人の子どもくらいで、椅子に座ると足が床に届かない。

束ねた白っぽい髪から、尖った耳の先がのぞいていた。

エルフだ。

「……その手、つかわないねえ」


いつから見ていた。

小さいくせに、よく見ている。

左手のことは、誰にも話さないと決めている。


膝の上の左手を、そのまま卓の下へ下ろす。

「昔、ちょっとな。もう痛くはねえ」

話をそらす先を探して、娘の足もとの麻袋に目を移した。

口の開いた袋から、黒い石のはまった筒の先がのぞいている。

パンデムで見た覚えのある形だ。

なんで、こんな所にある。

「……あんたは、変わった筒を持ってるな」


「……うん」

エルフの娘はそれだけ言って、目を閉じたまま、足で麻袋を卓の下へ少し押しこんだ。


「うちの後ろ番だ。起きてるときは頼りになるってんだ。起きてるときはな」

ブランが空の杯を指でつついた。


「そりゃいい」

ベリアトはまた笑った。

向かいで、ノアが匙を持ったまま、こっちの横顔を見ていた。



日が傾いて、波止場の石が赤く染まっていた。

潮と魚のはらわたの匂いが、夕方の風に混じっている。

宿は波止場の奥だと言うと、ノアは背負子を置いてきて、手ぶらで隣を歩いた。

ベリアトが一歩で行くところを、一歩半かかっている。

港の口に、黒い岩が突き出していた。

去年の秋に船が乗り上げて、その船の底から白い光が漏れたと、宿の親父が話していた岩だ。

ベリアトは足を止めて、それを眺めた。

白い灯りなど、地上のどの血筋にも無いはずだ。


「この港でさ、白いのが出たって聞いた。宿の親父も、さっきの店の奴らも、その話ばっかりだ」


「……噂」

ノアは岩から目をそらして、海のほうを見た。


「天の子だとか、魔物だとか。船の底から白い光が漏れてたとか。面白えな」


「おもしろい?」

ノアが横目で見上げてくる。


「白い灯りは、人には出せねえことになってるんだろ? なのに出した奴がいる。

決まりの外に、誰かいるってことだ。会ってみてえな」


ノアは右手を脇の下に挟んで、足もとの石を見た。

「会って、どうするの」


灯らずに生まれた自分とは、逆の側へはみ出した奴だ。

「聞くさ。どんな気分だって。生まれで灯りが決まって、灯りで暮らしが決まる。

そんな決まりから、はみ出しちまった奴がどんな顔してんのか」

ベリアトは岩を見たまま言った。

「俺はそういう奴が好きなんだ」


隣で、ノアが口を開きかけて、閉じた。

風が吹いた。

「……ボクは、見てない」


ベリアトは、隣を見下ろした。

薄い灰青の目が、こっちを見上げている。


見てない、と言うわりに、目が逃げていない。

光った誰かを見て、そいつを庇っているのかもしれない。

言いたくないなら、聞かない。

聞かれたくないことは、自分にもある。


「そうか」

聞かないかわりに、右手でノアの頭をぐしゃぐしゃにかき回した。

「あんた、いい目してるな。見てねえって顔には見えねえけど」


「子ども扱い、しないで」

ノアは首を振って手から逃げ、右手を脇に挟んだまま、こっちを睨んだ。


気が強い。

悪くない。

「悪い悪い。十五だっけ? 立派なもんだ」

ベリアトは笑いながら、宿のほうへ歩き出した。

数歩行って振り返り、右手を振る。

「案内、ありがとな。しばらくはこの辺にいる。困ったことがあったら言いな。

ブランさんにも、よろしく言っといてくれ」



波止場の奥の宿は、階段がきしむ。

二階の狭い部屋で、ベリアトは寝台の端に腰を下ろした。

左手の布を、右手と歯でほどく。

手袋を抜くと、黒く固まった針の手が、窓の明かりを鈍く返した。

あの日から、この手で何かをつかめたことは無い。


ティナの息は、ちゃんと通っていた。

笛の音が止んだときのことを、さっきから何度も思い返している。

正直、あのときは自分のほうが息を止めていた。


右手だけで手袋をはめ直し、布を巻き直して、端を歯で締める。


けれど、あの子の胸の花の跡は消えない。

ヴァレンツァ、坂の下、女児、鎖骨の下、根づいた。

今夜のうちにそう書いて、政府へ送る。

代価を取らなくても、あの子は政府の勘定の一行になる。

それが、自分の仕事だ。

あの跡を見て、誰が何を言い出すか。

坂の下の母親が、あとでどう言われるか。

それを、あの場では言わなかった。

言わなかっただけで、嘘はついていない。

……はずだ。


腰の袋の口を開けて、残った粒を寝台の上に出した。

二つ。

次は、誰に渡す。

あのブランという男の色。

見てないと言い張って、右手を隠していた娘。

港の白い灯り。


奇跡があるかどうかは、あんたが決めろ。

自分がその言葉を曲げなければ、これは押しつけではない。

そうだろう。


ベリアトは粒を袋に戻して、口を結んだ。

この奇跡の配り先を、政府の都合で決められていることは、今日は考えないようにする。

仰向けに倒れると、窓の外で、波が杭を打つ音がした。

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