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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
2章:罪なき子
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灯らず組

防波堤の先は、風が強い。

石を積んだ壁が海へまっすぐ伸びて、いちばん端だけ、誰も来ない。

ノアは流木を一本引きずってきて、石の隙間に突き立てた。

「ここ、柱にする。ラウロ、網持ってきて」

「重い」

「じゃあ半分でいいよ」


ラウロが網の切れ端を抱えて、よろけながら来た。

潮で固まった網は、触ると手がざらざらする。

二人で柱に引っかけて、端を石で押さえた。

風が入るたびに網がふくらんで、屋根のかたちになったり、ならなかったりした。

「屋根、飛ぶぞ」

「飛んだら、また取ってくる」

ノアは石をもう二つ乗せた。

網は動かなくなった。


中に入ると、座って二人ぶんの広さだった。

足を伸ばすと、ラウロの足とぶつかる。

「狭い」

「秘密だから、狭くていいんだよ」

ノアは懐から帆布の切れ端を出した。

昨日、船大工の屑の山から拾ってきたものだ。

炭のかけらも一緒に出す。

「なに書くんだ」

「名前。組の名前」

帆布を膝に広げて、炭を押しつけた。

灯、の字がむずかしい。

母さまに三度習って、二度は間違えた。

今日は一度で書けた。

「灯らず組」

「読めねえ」

「読めなくていいよ。わたしが読めるから」

ラウロは横から炭を取って、字の下に線を二本引いた。

「これ、おれ。二人ぶん」

「かっこいい!」


旗は、いちばん高い流木の先に結んだ。

風で帆布が鳴る。

ノアは防波堤の石に立って、それを見上げた。

坂の上からは見えない。

波止場からなら、たぶん見える。



波止場の突端に、じいさんが座っていた。

背が低くて、腰が曲がりかけている。

両手の指が太くて節くれだって、左手の小指が無い。

膝に古い網を広げて、糸を通していた。

潮の匂いが、じいさん自身からする。

「旗が立ったな」

ノアたちが近づく前に、じいさんは顔も上げずに言った。

「見えた?」

「見えた。この波止場で、あそこを見ないやつはいない」

ラウロがノアの袖を引いた。

「バルドだ。船に乗ってたじいさん。母ちゃんが、話が長いから捕まるなって」


バルドは糸を歯で切った。

「長いか。じゃあ短くしてやる。座れ」

二人は並んで座った。

石が日で温まって、尻があたたかい。

バルドは海の向こうを指で指した。

「夜になったら、あの上に舵星が出る。船はあれを右に置いて走る。その下に三つ並ぶのが網の目。

網の目が水に沈んだら、南へ行きすぎだ」

「なんで?」

「なんでもだ。そう決まってる」

ノアは指の先を見た。

昼の空には何も無い。

それでも、そこに星があるところを思うと、胸のあたりがむずむずした。


「舵星の向こうは?」

「海だ。ずっと海で、そのまた向こうに、陸がある」

バルドは糸を結んで、間を置いた。

「そこの連中は、灯りを持たない」

ラウロが顔を上げた。

「灯らず?」

「向こうじゃ、そういう言い方はしない。みんな灯らないんだから、灯らずって言葉がない。

手を開いても何も出ない。それでも船を動かして、夜には薪で火を焚く」

「どこ?」

「海の向こうの、もっと向こう」

ノアは自分の手を見た。

閉じたままの手だ。

「本当?」

バルドは網を畳んだ。

「さあな。船乗りの話は半分が嘘だ。どっちの半分かは、聞いたやつが決めろ」

そう言って、腰を上げた。

話は、短かった。



小屋の中は、夕方になると赤くなった。

網の目から日が入って、帆布の旗が石の上に影を落とす。

ラウロは膝を抱えて、自分の手のひらを見ていた。

何も出ていない。

「来年の灯記し」

「うん」

「おれ、灯ったらどうする」

ノアは網を押さえた石を、指で回した。

「灯ったら?」

「灯らず組じゃなくなる」

ラウロは手を握った。

「一人目だって言った。おれが言ったのに」


波が石を叩く音がした。

ノアは石を回すのをやめた。

「灯ってもいいよ」

「なんで」

「組は組。灯っても、組は組だよ」

ラウロは黙って、ノアの手を見た。

「お前のは白いのに」

「出さないから、出ない」

ノアは手を閉じたまま、膝に置いた。

ラウロはしばらくその手を見ていて、それから自分の握った手を、ノアの手の横に置いた。

二つ、並んだ。

どっちも何も出ていない。

「じゃあ、組だ」

「組だよ」

旗が風で鳴った。



気づいたら、網の目から入る日が無かった。

「暗い」

ラウロが立ち上がって、頭を網にぶつけた。

「帰らないと。母ちゃんが井戸で待ってる」

「わたしのも」

小屋を出ると、防波堤の石が冷えていた。

坂の上の家々に、窓の明かりが灯っている。

井戸のあたりに、人の影が二つ見えた。

こっちを向いている。

「見つかる」

「見つかったら、旗のことも聞かれるぞ」


ノアの前で、小さな光が揺れた。

石の上に、蛍ほどの光が浮いている。

「遅いですねえ。報告の対象ですよ、これは」

「ピリム」

ラウロが目を丸くした。

「なんだそれ」

「ピリム。わたしの」

ピリムの光が、速く揺れた。

「わたしの、で済ませられましたか。まあいいです。母上たちは井戸で、海のほうを向いていますねえ。

あそこを通れば、見えます」

「なんとかして」

「なんとか、というのは欄が埋まりませんが」

光が二人の間を一回りした。

「風を出します。波の音を大きくして、きみたちの足音を消す。母上たちは音のするほうを向く。

そのあいだに、戸口へ。貸しですよ」


風が来た。

防波堤の先から坂へ、一本の道みたいに吹いた。

波が石を叩く音が急に大きくなって、家々の雨戸がいっせいに鳴った。

井戸の影が二つとも、海のほうへ向いた。

「今」

ノアはラウロの手を引いて走った。

石の上を、坂の脇の、井戸の裏を。

ラウロの息が荒い。

足音は、雨戸の音に混ざって聞こえなかった。

ラウロの家の戸の前で、手を離した。

「明日」

「明日」

ラウロが戸の中へ消えた。


ノアは自分の家の戸を、音を立てずに開けた。

中は暗い。

靴を脱いで、寝床にもぐって、目を閉じた。

胸がまだ走っている。

しばらくして、戸が開いた。

母さまの足音が、寝床の横で止まった。

「風が強いのね」

髪に触れた手が、一度止まった。

砂がついている。

手はそのまま、髪を一度撫でて、離れた。

何も聞かれなかった。


窓の外で、小さな光が速く揺れた。

「欄が埋まりませんねえ」

ノアは布団の中で、口だけ動かした。

「ありがと」

光は、それで消えた。

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