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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
2章:罪なき子
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灯記し

朝の部屋は、まだ暗い。

窓の板の隙間から入る光が、床に一本だけ線を引いている。

母さまは櫛を持って、ノアの後ろに座った。


「今日は髪を結うわ。じっとしていてくれる?」

「なんで?」

「聖堂へ行く日だから」


櫛が頭のてっぺんから下りてくる。

ノアは膝を抱えたまま、床の光の線を見ていた。


「灯記しって、なに? ラウロは名前を書かれる日だって言ってた」

「そうね。名前と、色を書かれるの」

「僕の色も?」


櫛が止まった。

すぐにまた動いた。


「ノアは、息を止めていればいいの」

「息?」

「手のひらを出して、息を止めて。それだけ。あとは何もしなくていいのよ」


ノアは息を止めてみた。

十まで数えて、吐いた。


「止めてたら、灯らないの?」

「紐は赤いのと青いの、どっちがいい?」

「…青」


青い紐が髪に巻かれて、きゅっと締まった。

ノアは結んだところを手で触った。

固かった。


「母さま、息止めてる間、手のこと考えなくていいってこと?」

「そう。それでいいわ」


母さまは櫛を箱にしまって、立った。

ノアは、もう一回息を止めて、今度は二十まで数えた。



聖堂の中は、外より冷たい。

石の床から冷えが上がってきて、靴の裏に染みた。

蝋の匂いがする。


七つの子が、前に一列に並ばされた。

坂の子が四人、波止場の子が三人、市場の裏の子が三人。

それに、いちばん端のアガタ。

壁ぎわに母親たちが立って、母さまもそこにいた。


前には机が一つ置いてある。

机の上に、大きな帳が開いていた。

その横に、鍵束を腰に下げた男が座っている。

男は帳の紐を一度ほどいて、結び直した。


「これより、灯記しをいたします」


司祭のアンブロージオが、机の脇に立った。

手習いのときと同じ声だった。


「七つになった子の色を、帳に書き留めます。それだけです。怖いことはありません。

名前を呼ばれたら前へ出て、手のひらを開きなさい」


隣の子が、小さく息を吸った。

ノアは自分の手を見た。

何も出ていない。


「セルヴィ家、アガタ」


アガタが、びくっと肩を上げた。


「あ、あの、はい」


アガタは前に出て、机の前で止まった。

手を出す前に、一度口をもごもごさせた。

それから、手のひらを上に向けた。

薄い橙の光が、小さく灯った。

ゆらゆらして、消えそうで、消えなかった。


鍵束の男が、帳に顔を近づけた。


「橙の淡、でございますね。セルヴィのお家と同じでございますよ」


男は帳に何か書いた。

ペンの先が、かりかり鳴った。


「よろしい。下がりなさい」


アガタは手を閉じて、小走りで列の端に戻った。

戻ってから、自分の手をもう一度開いて見ていた。


次の子が呼ばれた。

赤みのある黄色。

その次は、濁った緑。

鍵束の男は、一人ごとに紐を結び直してから名前を呼んだ。

結ぶ、呼ぶ、見る、書く。

同じ動きが、七回続いた。


ノアは、その間ずっと息をしていた。

まだ呼ばれていない。



「ベルナ家、ノア」


鍵束の男が紐を結び終えて、顔を上げた。

ノアは前に出た。

石の床が、一歩ごとに冷たい。


机の前で止まる。

帳が近くで見えた。

アガタの名前と、その横に書かれた字。

その下に、まだ何も書かれていない行がある。


ノアは、手のひらを上に向けた。

息を止めた。


一、二、三。


何も出ない。

出さないから、出ない。


十まで数えた。

鍵束の男が、帳から目を上げた。


「…ええと。もう一度、お願いしてよろしゅうございますか」


ノアは息を吐いて、また止めた。

手のひらは、白いままだ。

灯りの白じゃない。

何も無い、ただの手の色。


二十まで数えた。

喉が詰まってきた。


鍵束の男が、ペンを持ったまま司祭を見た。

司祭は、ノアを見ていなかった。

壁ぎわを見ていた。

ノアも、そっちを見た。


母さまが、司祭を見返していた。

頷かない。

首も振らない。

ただ見ていた。


司祭が、先に目を戻した。


「クレメンテ」

「は、はい」

「灯らず、と。それでよいでしょう」


鍵束の男は、少しだけ間を置いた。


「…灯らず、で、ございますね」


ペンが帳に下りた。

かりかり、と鳴った。

ノアは、自分の名前の横に、字が書かれていくのを見ていた。

灯らず。

黒い字だった。

インクが、紙に沈んで、動かなくなった。


「息をしてよいのですよ」


司祭が、静かに言った。

ノアは、大きく息を吐いた。

喉がひゅっと鳴って、前の子が振り返った。


「下がりなさい」


ノアは手を閉じて、列に戻った。

戻る途中で、母さまの方を見た。

母さまは、もう司祭を見ていなかった。

床を見ていた。



聖堂の外は、日が高くなっていた。

石段の下に、子どもたちが固まっている。

母さまは、まだ中で司祭と話している。


ノアが石段を下りると、波止場の子が振り向いた。


「灯らず!」


一人が言うと、三人が続いた。


「灯らず、灯らず」

「七つで灯らずって、あるんだ」

「帳に書かれたんだぜ、灯らずって」


ノアは、石段の途中で止まった。

言い返す言葉は、無かった。

灯らなかったのは本当だ。

自分で、灯さなかった。


「うるさいなあ」


それだけ言って、石段を全部下りた。

子どもたちは、まだ言っていた。

坂の子の一人が、ノアの背中を指で押した。

軽かった。

本気じゃない。

本気じゃないのが、いやだった。


「ノアって、ほんとに何も出ないの?」

「手習いでも出したことないもんな」

「母ちゃんも出さないし」


ノアは、聖堂の壁のほうへ寄った。

子どもたちの輪から、少し外れた。


壁の角に、アガタが立っていた。

囃してはいなかった。

何も言っていない。

アガタは、ノアの手を見ていた。

閉じたままの、右の手。


ノアは、その目に気づいた。

アガタの目は、手から動かなかった。


「なに?」


アガタの口が、少し開いた。


「あの…」


それだけで、閉じた。

アガタは首を横に振った。

そして、自分の橙の手を、袖の中に隠した。


ノアは、右手を開いた。

何も無い。

アガタは、それでもまだ見ていた。


聖堂の扉が開いて、母さまが出てきた。

子どもたちが黙った。

母さまは、石段を下りて、ノアの髪の青い紐を直した。


「帰りましょう」

「うん」


歩き出す前に、ノアはもう一回、壁の角を見た。

アガタは、まだそこにいた。

手の見えるところに、いなかった。



坂の上は、夕方の風が来る。

塀の上に座ると、波止場の屋根が全部見えた。

ラウロが先に座っていた。


「どうだった?」

「灯らず、って書かれた」


ラウロは、塀から足をぶらぶらさせた。


「灯らず組、一人目!」


大きな声だった。

坂の下まで届きそうだった。


「なにそれ」

「一人目だろ。おれが二人目。二年あとな」

「順番なんてあるの?」

「ある。おれが決めた」


ノアは笑った。

笑ったら、朝から固かったところが、少しゆるんだ。


「かっこいいじゃん、帳に書かれるの。おれまだ書いてもらえない」

「かっこよくないよ」

「じゃあ何だよ」

「…黒い字だった」


ラウロは、それには返さなかった。

足をぶらぶらさせるのを、やめただけだった。


ノアは、右の手を膝の上で開いた。

夕方の光で、手のひらが橙に見えた。

アガタの色に、少し似ていた。


「家の中でだけならさ」


言いかけて、やめた。

ラウロは、知っている。

知っていて、二人とも灯らずでいいと言った。


「ノア」

「なに?」

「母ちゃんに、何か言われた?」

「息を止めてればいいって」

「それだけ?」

「それだけ」


ラウロは、鼻で笑った。


「簡単じゃん」

「簡単だった」


ノアは、手を閉じた。

簡単だった。

息を止めて、二十数えて、それで終わった。

ペンがかりかり鳴って、字が沈んだ。


帳は、聖堂の机の上だ。

明日も、その次の日も、あそこにある。

灯らず。

消しゴムも、水も、あの字には届かない。


「ラウロ」

「なんだよ」

「二年あと、ちゃんと灯らないでよ」

「おれは灯らせようとしても出ないんだって」


ラウロが、また足を振り始めた。

ノアは、閉じた手を見た。

中で、灯りは出ていない。

出そうと思えば、出る。

今日は、出さなかった。


坂の下で、鍵束の鳴る音がした。

夕暮れの見回りが、始まる時間だった。

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