鼠の穴
冒険者ギルドの出張所は、坂を下りきった角にある。
八月の朝で、開けっ放しの戸から、魚と潮の匂いが入ってきた。
ノアはラウロと戸口に立って、中を覗いた。
井戸からブランの後をついて来たら、ここに着いた。
「入るなよ」
ブランが振り向かずに言った。
「入ってないよ。見てるだけ」
ノアは戸の枠に手をかけた。
足は外にある。
奥の卓に、男が一人座っていた。
痩せて背が高く、袖を肘まで捲って、耳にペンを挟んでいる。
声は低くて、平らだった。
「ブラン。鼠だ」
「またかよ」
「市場の隅の倉。依頼主はマッシモ。魚の樽を齧られた」
男はペンを耳から取って、帳面を指で押さえた。
「銅の三の枠だ。決まりの額になる」
「いつもの額な」
ブランは首の後ろを掻いた。
「請ける。ベネデット、他に無いんだろ」
「無い」
ノアは戸の枠から身を乗り出した。
「鼠って、大きいの?」
「あんたに関係ねえ」
「ノアも行く!」
「おれも!」
ラウロが横で跳ねた。
ブランがやっと振り向いた。
背は高くないが肩と腕が厚く、耳の先が少し垂れている。
顔には無精ひげが伸びて、昨日の酒の匂いがした。
「来るな」
「なんで?」
「倉は暗い。鼠は噛む。子どもの来るところじゃねえ」
ブランは腰の袋を叩いた。
「ほら、帰れ。母親に言うぞ」
「言わないでよ」
ノアは戸から手を離した。
ラウロを引っ張って、角を曲がったところで止まった。
「帰る?」
ラウロが見上げた。
「帰らない。市場の隅って、あそこでしょ」
「じゃあ、先に行こうぜ」
市場の隅の倉は、板壁の古い建物だった。
壁の板が一枚、下のほうで浮いている。
ラウロが先に潜って、ノアが続いた。
中は塩と、腐りかけた魚の匂いで、息を吸うと喉が痛かった。
樽が三つ、奥に並んでいる。
二人はいちばん奥の樽の裏に座った。
「来た」
ラウロが袖を引いた。
戸が開いて、光が床に長く伸びた。
ブランの後ろから、太った男が入ってきた。
腹が前掛けを押し上げて、前掛けは端まで濡れている。
声は倉の壁に当たって跳ね返るほど大きかった。
「ここだ、ここ。見ろよ、この樽」
男は手前の樽の縁を叩いた。
「売りもんにならねえ半端を、塩に漬けといたんだ。三つのうち二つ、蓋の下を齧られた」
「半端でも食えるからな、鼠には」
ブランは樽の縁に指を這わせた。
「マッシモ、この倉に灯りは?」
「無い。昼でも暗い。だから鼠が住むんだよ」
「ちょうどいい」
ブランは腰の袋から、板を弓なりに曲げた罠を三つ出した。
魚の頭を一つずつ、罠の口に挟む。
一つは戸の脇、一つは樽と樽の間、一つは壁の板が浮いているところ。
浮いた板の前に罠を置くとき、ブランの手が一度止まった。
ノアは樽の陰で息を止めた。
ブランは何も言わずに、罠を置いた。
「じゃあ、戸を閉めてくれ」
「閉めたら真っ暗だぞ」
「そのほうが分かる。外にいろ。呼んだら開けろ」
マッシモが首を振りながら出て行った。
戸が閉まって、光が消えた。
まっくらだ。
ラウロがノアの腕を掴んだ。
指が震えている。
ノアは目を開けたまま、じっとしていた。
樽の輪郭が、黒の中に浮いてくる。
その向こうに、ブランの背中も見えた。
(見える。
ラウロは見えないのかな)
ブランは動かなかった。
立ったまま、頭を少しずつ回している。
耳の先が、右へ向いて、左へ向いた。
それから鼻を上げて、二度、短く吸った。
一歩、足音を立てずに樽のほうへ来る。
ノアは床に伏せた。
ブランは樽の前で止まって、床に手をついた。
「……ここか」
小さな声だった。
手が床板の割れ目を撫でる。
「穴が、二つ。板の下を通ってる」
また鼻を上げた。
「上にも、いるな」
ブランの耳が、こっちを向いた。
ラウロがくしゃみをした。
塩の匂いのせいだ。
「出てこい」
ブランの声が低くなった。
「鼠は二匹だと思ったが、二人か」
ノアは樽の陰から立った。
ラウロも、袖を掴んだまま立った。
「来るなって言ったよな」
「来てないよ。先にいたの」
「同じだ」
ブランは頭を掻いた。
暗いのに、ため息の音だけがはっきり聞こえた。
「戸は閉めた。今から開けりゃ鼠が散る。そこを動くな。動いたら罠に指を挟むぞ」
「はい」
ラウロが小さく言った。
「ねえ、なんで灯りつけないの?」
「つけたら鼠が奥に引っ込む。目より耳と鼻だ」
ノアは上を見た。
梁が二本、屋根の下を横切っている。
さっきから、そこで音がしていた。
爪が木を掻く、乾いた音。
「ブラン、上」
「聞こえてる。あとだ」
「ノアが見てくる」
「待て」
ノアはもう柱に手をかけていた。
柱は角が丸くて、塩で少しざらつく。
三度手を掛け替えたら、梁に届いた。
梁の上に立つ。
幅は足の裏より少し広い。
「降りろ!」
ブランの声が下から来た。
ノアは梁の上を、奥へ向かって走った。
足音はしなかった。
梁の端、屋根の板との隙間に、藁と魚の骨が積んである。
その中で、黒いものがいくつも動いた。
猫ほどの大きさだ。
目が赤く光って、こっちを見た。
「あった。巣。いっぱいいる」
「触るな。数は」
「五つ。六つ? 動くから分かんない」
下で、火打ちの音がした。
ブランがランタンを点けている。
黄色い光が倉に広がって、ノアは目を細めた。
ブランが梁の下まで来て、ランタンを持ち上げた。
「……そこか。奥の梁だと思ってたが、屋根の下とはな」
ノアを見上げて、また頭を掻いた。
「降りろ。落ちたら母親に殺される」
「落ちないよ」
「知ってる。それでも降りろ」
ノアは梁から柱に移って、滑り降りた。
着地の音はしなかった。
ブランはそれを見て、何も言わなかった。
ランタンをノアの手に押しつける。
「持て。俺の手元じゃなく、巣を照らせ。動かすな」
「なんで?」
「両手が要る。ラウロ、その袋の口を開けて持ってろ。噛まれたら泣け。泣くのは許す」
「泣かねえよ」
ブランは腰から短い棒を抜いて、柱を登った。
ノアより遅いが、ふらつかない。
梁の上に立って、屋根の隙間に棒を突っ込む。
鼠が一匹、飛び出して、梁の上を走った。
ブランの左手がそれを掴んで、床へ投げる。
「袋!」
ラウロが袋を差し出して、鼠が中に落ちた。
「ひっ」
「口を閉めろ。次だ」
二匹目は棒で叩かれて、動かなくなってから落ちてきた。
三匹目、四匹目。
ノアはランタンを動かさなかった。
腕が痛くなっても、光は巣に当てたままにした。
五匹目は梁から床に飛び降りて、戸の脇の罠のほうへ走った。
板が跳ねる音がして、止まった。
「五だ」
ブランが梁の上で言った。
「穴は二つ、床の下だ。そっちは罠に任せる。三日置いて、あとは板を塞げばいい」
柱を降りてきて、ノアからランタンを取った。
「いい持ち方だった」
それだけ言って、戸を叩いた。
戸が開いて、マッシモが顔を出した。
「終わったのか?」
「五匹。床の穴は三日で埋まる。板を打っとけ」
マッシモは袋を覗いて、顔をしかめて、それからノアとラウロを見た。
「なんだ、子連れか」
「勝手についてきた」
「ふうん」
マッシモは倉の壁に掛けてあった干し魚の束から、三本抜いて、ブランに押しつけた。
「おまけだ。ギルドの帳面には書くなよ」
「書けねえよ、そんなもん」
夕方の出張所は、朝より暗かった。
戸から入る光が赤くて、卓の上の帳面も赤かった。
ベネデットは袋を覗いて、ペンを取った。
「鼠退治、一件。倉の依頼、マッシモ」
ペンが紙の上で止まった。
「……五匹か」
「五だ」
「多いな」
「言うなよ」
ベネデットはそれ以上言わずに、帳面に書いた。
「銅の三。決まりの額だ」
引き出しから銅貨を数えて、卓に並べる。
六枚。
ノアは卓に顎を乗せて、数えた。
「六枚? 五匹なのに?」
「匹数では変わらん」
ベネデットはノアを見なかった。
「等級で決まる。銅の三は、この額だ」
「ブラン、灯りなしで見つけたよ。耳で」
「ノア」
ブランが銅貨を掴んだ。
「言うなって言ったろ」
ベネデットの手が、帳面の上で止まっている。
ペンを耳に戻すのに、二度かかった。
「次も、回す」
「ああ」
外に出ると、坂に夕日が当たっていた。
ブランは束から干し魚を一本ずつ抜いて、ノアとラウロに突き出した。
「持って帰れ」
「くれるの?」
「ランタン代と袋代だ」
ノアは受け取って、匂いを嗅いだ。
硬くて、しょっぱい匂いがした。
「あとな」
ブランは二人の頭の上に、手を乗せた。
重かった。
「二度とついて来るな」
「なんで?」
「聞いてなかったのか。暗い、噛む、母親に殺される。三つだ」
手を離して、坂を下りて行った。
酒場のほうだ。
ラウロが干し魚を齧った。
「かてえ」
「ラウロ」
「なに」
「次は、いつ?」
ラウロは齧るのをやめて、ノアを見た。
「明日?」
「明日」
干し魚は、噛んでも噛んでも、なくならなかった。




