木登り番長
坂の長屋の朝は、井戸の滑車の音で始まる。
ノアは戸口の石段に座って、桶の順番が回ってくるのを待っていた。
石段はもう日で温い。
「順番、まだ?」
「まだだよ。お前んとこの前に三人いる」
井戸の縁にもたれたピエトロが、指を三本立てて見せた。
坂でいちばん背が高くて、いちばん声が大きい子だ。
日に焼けた肌に骨太な体つきで、漁師の父親に似ている。
その後ろに、年下の子が二人くっついている。
ピエトロが井戸の陰へ回って、両手を口に当てた。
「ラウロー! ごはんだよー、帰っといでー!」
高い声だった。
ラウロの母さんの声にそっくりで、ノアも一度、坂の下を見た。
足音が上がってくる。
ラウロが息を切らして角を曲がってきた。
「なに、母ちゃん、なに? ごはん?」
ピエトロが腹を抱えた。
後ろの二人も笑う。
「来た来た。呼んだら来る。いい弟分だろ」
ラウロは井戸と長屋の戸口を見比べて、それから顔を赤くした。
「…お前かよ」
「躾だよ躾。ちゃんと来たんだから、えらいえらい」
ノアは石段から立った。
手のひらが熱かった。
「なんで笑うの」
「おもしろいからに決まってんだろ」
「母さんの声はずるい。ラウロ、走ってきたのに」
「じゃあお前は何かできんのかよ、灯らず」
ノアは坂の上を指さした。
長屋の屋根の向こうに、樫の木のてっぺんが出ている。
「木登り。あの木。ノアが勝ったら、もうやらないで」
ピエトロが井戸の縁から体を起こした。
「へえ。坂の木登り番長に、それ言ってんのか」
「番長?」
「俺だよ。行くぞ、全員ついてこい」
桶の順番は、そのままになった。
坂の上の樫の木は、長屋の屋根より高い。
根元に立つと、樹皮の乾いた匂いがした。
どこから聞きつけたのか、坂の子が七、八人集まっている。
ラウロはノアの袖を引いた。
「あれ、上の方、枝ないぞ。番長、いつも三本目までしか行かねえもん」
「三本目より上に行けばいいんだね」
「そういうことじゃなくて…」
ピエトロが幹を叩いて、皆のほうを向いた。
「坂の木登り番長、ピエトロ様、行くぞ!」
名乗りを上げてから、いちばん低い枝に飛びついた。
腕で体を引き上げて、次の枝へ足をかける。
慣れた登り方だった。
見ていた子が「番長、はやい」と言う。
ノアは枝を見なかった。
幹だけを見た。
助走をつけて、幹に片足を置く。
そのまま次の足を上に置いた。
手のひらで樹皮を押さえながら、幹を駆け上がる。
下で誰かが息を吸う音がした。
二本目の枝の横を抜けた。
三本目の枝の上で、ピエトロがこちらを見上げていた。
その顔の横も抜ける。
枝が細くなって、幹が揺れ始めたところで止まった。
長屋の屋根が全部見える。
その向こうに海が光っている。
「かっこいい」
自分で言って、下を見た。
「なんだよそれ!」
ピエトロが三本目の枝にしがみついたまま叫んだ。
「上だよ。ノアの勝ち」
「枝使ってねえだろ! 木登りってのは枝を登るんだ。幹を走るのは木登りじゃねえ」
「なんで?」
「なんででもだ!」
下の子どもたちがざわつく。
「番長、それ負けだよ」
「うるせえ。お前ら黙ってろ」
ピエトロは枝の上で座り直して、腕を組んだ。
「次は泳ぎだ。港でやる。泳ぎで決める」
「泳ぎでもいいよ。じゃあ、もうラウロを呼ばない?」
「泳ぎで勝ってから言え」
ピエトロは枝を伝って降り始めた。
降りる速さだけは、たしかに速かった。
「おれも登る!」
下からラウロの声がした。
樫の木の下に、ラウロの靴が片方落ちていた。
ピエトロはとっくに、取り巻きを連れて坂を下りていった。
残った子も、ひとりふたりと帰った。
ラウロだけが、四本目の枝に腹ばいでしがみついている。
「ラウロ、そこ、番長より上だよ」
「知ってる」
「降りられる?」
「…降りれない」
ノアはラウロのすぐ上の枝まで降りた。
「手、ここ。足はこっちの枝」
指さしたけれど、ラウロは枝から手を離さなかった。
下を見て、また枝に頬をつける。
「見ちゃだめ。ノアの手だけ見て」
「見てる。見てるけど、体が動かねえ」
「ラウロ」
木の下から声がした。
フランカだった。
坂の上の家の、姉さんと呼ばれている子で、いつも自分の背より長い棒を持っている。
背が高くて肩幅も広く、坂の子の誰よりも力が強い。
今日も棒を持っていた。
「下を見るな。あたしを見な」
ラウロが首だけ下に向ける。
フランカは棒を両手で横に構えて、枝の真下に立った。
「その枝、ぶら下がれる? 手でぶら下がって、足を伸ばして。はい」
ラウロは枝に腹をつけたまま、片足ずつ下ろした。
両手で枝を掴んで、体がぶらんと伸びる。
靴の片方だけの足が、フランカの棒の少し上で揺れた。
「手、離しな。棒に乗るから」
「落ちる」
「落とさない。三つ数える。一つ、二つ」
三つを言う前に、ラウロの手が滑った。
フランカの棒がラウロの腹の下に入る。
棒がしなって、フランカの膝が地面についた。
ラウロはそのままフランカの胸に転がり込んだ。
「…痛い」
「どこ」
「手」
ラウロの両手のひらは、樹皮で赤く擦れていた。
フランカは自分の膝を見なかった。
ラウロの手を取って、土を払った。
ノアは枝の上から、二人の頭を見下ろした。
ぶら下がるのは面倒だった。
枝を蹴って、そのまま降りた。
根の間の土に、両足で着く。
音はしなかった。
フランカが顔を上げた。
ノアの足を見て、それから両手を見た。
ノアの手のひらには、何もついていない。
フランカの目がそこで止まった。
何か言うかと思った。
「ラウロ。次は三本目までにしな」
言ったのはそれだけで、棒を拾って立ち上がった。
膝のところの布が破れて、下が赤い。
フランカは膝を叩いて土を落として、坂の上へ歩いていった。
ラウロが落ちていた靴を履きながら言った。
「姉さん、怒ってた?」
「わかんない」
ノアは自分の手のひらを見た。
やっぱり何もついていなかった。
夕方の井戸端には、日陰ができる。
家主のテレーザが井戸の縁に座って、膝の上で繕い物をしていた。
背は低く小太りでがっしりした体つきで、丸めた背中は針を持つときだけしゃんと伸びる。
母さまが預かってきたのと同じ、青い前掛けだった。
ノアはその隣に座って、針の先を見ていた。
「木に登ったんだって?」
「うん。勝った」
「そうかい」
テレーザは針を止めない。
坂の上からフランカが桶を持って降りてきた。
テレーザが顔を上げて、針を前掛けに刺した。
「フランカ。膝」
「平気」
「平気じゃないよ。座りな」
フランカは黙って、テレーザの前の石に腰を下ろした。
テレーザが桶に柄杓を入れて、水をすくう。
膝にかけた。
水は冷たかったらしく、フランカの肩が少し上がった。
「木か」
「ラウロが降りられなくなったから」
「棒で受けたのかい。あんたも懲りないねえ」
テレーザは布の端で膝の土を拭いた。
砂を落として、もう一杯かける。
フランカは何も言わずに、ノアのほうを見た。
それから目を桶に戻した。
テレーザが柄杓を置いて、ノアの膝を見た。
何もない。
手も取って、ひっくり返した。
何もない。
「あんたは落ちないねえ」
「うん。落ちない」
テレーザは手を離して、前掛けから針を抜いた。
「でも…いろいろ気をつけるんだよ?」
「いろいろって、なに?」
「お母さんの言うことは、ちゃんと聞くんだよってことさ。」
「うん、わかった!」
テレーザは針を布に通した。
糸を引く音だけが聞こえた。
フランカが桶を持って立ち上がる。
一度だけノアを見て、何も言わずに坂を上っていった。
「あした、泳ぎだって。番長が」
「そうかい」
テレーザは糸を噛み切った。
「海はねえ、木よりもっといろいろだよ」
「楽しみ!」
ノアは井戸の向こうの、光っている海を見た。




